君が代は古代日本でよまれた和歌になります | 誇りが育つ日本の歴史

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君が代は古代日本でよまれた和歌になります

 

 

日本の国歌である「君が代」は、朝鮮半島で作られたという人がいます。

 

本当でしょうか?

 

実は、古事記が編纂された今から約1300年前よりはるか昔から、日本において、その源流となる歌が作られていました。

 

 

「君が代」の歌詞は、三番まであります。(法律上の国歌は一番のみ)

 

一、 君が代は  千代に八千代に  さざれ石の

 

            巌となりて  苔の生すまで

 

二、 君が代は  千尋(ちひろ)の底の  さざれ石

 

            鵜のゐる磯と  あらはるるまで

 

三、 君が代は  限りもあらじ  長浜の

 

         真砂(まさご)の数は  よみつくすとも

 

一番は、「君が代」が「我が君」となっていますが、「古今和歌集(905年)」と「和漢朗詠集、(1013年)」に詠み人知らずとして掲載されています。

 

二番は、源頼政の詠んだ和歌とされています。三番は「古今和歌集」の詠み人知らずの歌で、光孝天皇の大嘗祭で伊勢の国より奉られた和歌です。

 

三番の類似した和歌として、「わが恋は よむともつきじ 荒磯海の 浜の真砂は よみつくすとも」という歌も「古今和歌集」に掲載されています。

 

古事記が編纂された時代よりはるか古代より伝わる「ほつまつたえ」というものがあります。「ほつまつたえ」とは、「ヲシテ」文字といわれる「神代文字」を使って書かれた書物になります。

 

その中に以下のような和歌(ほつま歌)が書かれています。

 

第1番

 しわかみ(磯輪上)の 心ほつまと 成る時は

         花咲く御代の 春や来ぬらん

(「ほつまつたえ」三輪の臣 大直根子作)

 

第2番 

 

 磯の輪の まさご(真砂子)は読みて 尽くるとも

          ほつまの道は 幾代尽きせじ 

(「ほつまつたえ」三輪の臣 大直根子作)

 

第3番

 

 カカン(神明)なす 春の等しく 巡り来て 

       磯の真砂子は  いわ(巌)と成る 

       世々ノンテン(法典)の  ほつま書かな

(「ほつまつたえ」三笠臣伊勢の神臣 大鹿島作)

 

「しわかみ」とは、海岸の磯の上から広い地平線をみながら、という感じ。

 

「心ほつまとなる時」は心がおだやかで素直な状態。大自然と一体となって溶け込んでいるような様子。

 

この3つの歌を訳しますと、 

 

人は、しわかみ(磯輪上)の心、大自然と一体となって素直でおだやかな心で生きていく。そうすれば春に花が咲くように平和で安定した世の中が現れるだろう。

 

このほつまの道(大自然と調和した素直でおだやかな心)から外れてしまったとしても、それに目を覚まして、原点に帰るならば、再び春のような平和で安定した世の中になるでしょう。

 

天照らす神(太陽)のおかげで、春のような暖かくおだやかな世の中が巡ってきた。海岸の砂粒のような小さな存在(国民)は、まとまって岩のような硬い盤石なもの(国)となる。そのような世の中になるための法典が、ほつま伝えである。

 

このほつま歌と比較して、君が代の歌はどう訳することができるでしょうか?

 

一、 君が代は  千代に八千代に  さざれ石の

 

            巌となりて  苔の生すまで

 

二、 君が代は  千尋(ちひろ)の底の  さざれ石

 

            鵜のゐる磯と  あらはるるまで

 

三、 君が代は  限りもあらじ  長浜の

 

         真砂(まさご)の数は  よみつくすとも

 

「君が代」のきみとは、天皇陛下お一人のことであるという人もいます。

 

したがって君が代の歌とは、天皇を個人崇拝し讃える歌であり、戦前の軍国主義を象徴する戦争賛美の歌である、と主張されます。

 

でも実は、「君が代」のきみとは、イザナギ、イザナミ、という古事記にでてくる神様の名前で、最後の「き」と「み」をとってつけた大和言葉(やまとことば)になります。

 

イザナギとイザナミは男性と女性をあらわし、「イザナ」とは誘う(いざなう)という意味であります。

 

男性が女性を誘う(その逆も?)ことで、夫婦となり子どもができて家族できていきました。

 

つまり、「き」と「み」とを合わせた大和言葉である「きみ」は、家族であったり、国民というような意味であり、もっと広い意味では人類全体をさす言葉となります。

 

「千代に八千代に」はいつの時代になってもという意味であり、「さざれ石」は「真砂子」と同じように砂浜の砂粒(人や国民)というような意味です。

 

君が代の歌を訳すと、国の民(たみ)ひとり一人は、磯浜の小さな砂であり微力ですが、それが集まり天皇も国民も一体となって(君民一如)代々続いていくならば、日本は硬く盤石となり平和で安定した世の中が続いていくことでしょう。

 

ほつまの道(大自然と調和した素直でおだやかな心)をわすれないならば。

 

画像

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)にある、さざれ石