創価学会による言論出版妨害事件とは?
昭和44年8月末、「創価学会を斬る」という本を藤原弘達氏が、日新報道から出版しようとしたところ、公明党・創価学会から、抗議や脅迫の電話や手紙等が多数寄せられ、嫌がらせや脅迫が始まりました。
藤原は身の安全を図るため、都内のホテルを転々として出版に向け執筆を続け、段ボール箱に3 箱以上も投書が来たり、警察が子どもに警備をつけなくてはならないほど脅迫が相つぎました。
創価学会・公明党から出版を中止するように圧力がかけられましたが、藤原氏はこの要求を拒否すると、
「交通事故が多い当今だから十分気をつけろ」
と創価学会・公明党側は脅しをかけてきました。
創価学会批判や池田大作批判をするような人は、創価学会・公明党から脅迫や嫌がらせを受けますが、藤原氏の場合、当時、自民党幹事長であった田中角栄が丸め込みのために出てきました。
昭和44年10月11日と23日の二回に渡って、料亭にて田中幹事長と藤原氏が会談。
この会談を知っているのは、竹入公明党委員長、矢野公明党書記長、池田大作会長のみであると田中角栄幹事長は言いました。
実際、池田大作会長と竹入義勝委員長、矢野絢也書記長は、この交渉の様子を隣の部屋で聴いていました。
田中角栄氏は、初版だけ出してもいいが、それ以降の増刷はしないでくれ、初版は全部買い取る。そして公明党やNHKなどから物書きの仕事ができるように手配する。損はさせない、と言ってきました。
この要求に対し藤原氏は、言論、出版の自由を侵害しないこと、「創価学会を斬る」の本を出版するにあたり、初版は10万部で、この本をどのように買い占めようと自由である、ということを要求しました。
そして藤原氏は、「将来総理の座を狙う田中氏が、このような言論の自由を妨害するようなことに一役かうというのは、あなたの将来にとって、決して良いことではないと思う」と付け加えました。
田中角栄氏は黙って聞いていましたが、最後に「俺はもう知らん」と言い出して、交渉は決裂しました。
この会談の期間中、創価学会・公明党からの脅迫や嫌がらせ電話は一切止まっていたのですが、田中氏と藤原氏の交渉が決裂した翌日から、再び、創価学会・公明党から藤原氏への脅迫や嫌がらせ電話が始まりました。
これは、田中氏に一任したのだからしばらく様子を見ようとして、創価学会・公明党側は嫌がらせを止めていたが、交渉決裂した途端に、嫌がらせを再開したことになります。
藤原氏は、家族の身の危険を感じたので、警察に相談して、自宅の電話を録音するようにしてもらいました。
また出版社の「日新報道」社員も尾行されるようになりました。
田中氏は、この件が表沙汰になると、「公明党のつぶやきを聞いて、友人の藤原氏に声をかけただけのことで、いささかおせっかいを焼きすぎた」と答えていました。
創価学会・公明党からの嫌がらせ電話が、田中角栄氏との交渉と連動しているので、明らかに創価学会・公明党から頼まれてやったことでしょう。
なぜ、田中角栄氏は、言論の自由の侵害であると叩かれるリスクを冒してまでも、創価学会・公明党を守ろうとしたのでしょうか?
田中角栄氏は、「野党側に恩を売っておけば、将来、役に立つ時がくる」というような内容の発言しています。
事実、のちの昭和47年9月に、田中首相と周恩来による日中が国交を結んだ際、公明党・創価学会の池田大作会長による、水面下での交渉のおかげで成立することができたと語りました。
藤原氏の創価学会・公明党の批判本は、大手マスメディアでは、創価学会・公明党からの圧力のために、宣伝もできずにいました。
また、創価学会・公明党から、「創価学会を斬る」が出版されても返本するように、全国の取次店に圧力がかけられていました。
当時、日本共産党と公明党は激しく対立していました。
そのような中、NHKの討論番組「公明党と日本共産党」という討論番組が、昭和44年12月13日に放送されました。
その中で、「公明党による言論弾圧の事実があるのかどうか」と松本善明共産党議員から指摘を受け、「それは全くの嘘で事実無根である」と、正木良明公明党議員は明確に否定しました。
この放送後、「赤旗」の記者が藤原氏に取材した際、それまであえて伏せていた、田中角栄氏の名前を明らかにしました。
それから、「赤旗」は、大手マスメディアが一切無視する中、創価学会・公明党による言論弾圧の事実を、大スクープとして報道していきました。
佐藤栄作首相は、田中角栄幹事長に言いました。「公明党のためにそこまでする必要はないではないか?」と。
すると田中角栄幹事長は、「公明党に限らず、国会対策は全て幹事長の俺に任せると行ったではないか。やりにくい事ばかりこちらに押し付けて、きれいごとばかりいうとは」と応酬。
昭和44年12月の年末に総選挙が実施され、年明けに国会が開かれました。
公明党の竹入委員長は、昭和45年1月5日の記者会見で次のように語りました。
「言論出版妨害は全くの事実無根である。」と。
藤原氏は、「証人として国会に呼ばれれば、証拠のテープやその他の証拠物件を提出する準備がある」と表明。
すると、それまで事実無根であると強行姿勢をとっていた公明党は、昭和45年1月16日、
「この問題で国民各位に疑惑を抱かせたことは遺憾だ。今後もこのような疑惑を招くことがないよう、これを反省材料にして、言論の自由をあくまでも尊重していく決意を改めて固める」という談話を、矢野公明党書記長が発表。
国会では、真相究明の質問が繰り広げられ、大手新聞でも公明党への批判が相次ぎました。
昭和45年3月31日に、日本赤軍による、日航機よど号ハイジャック事件が起きたため、言論妨害事件の一連の騒動は下火になりました。
そして、昭和45年5月3日、創価学会第33回本部総会において、池田大作会長は「言論妨害という意図はなかった。結果として言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまった」と、ついに謝罪するに至りました。
もし、藤原氏が田中角栄氏からの言論買収に応じていたらどうなっていたでしょうか?
おそらく、公明党・創価学会の奴隷として生きていくしかなかったでしょう。そして、創価学会・公明党による言論出版妨害事件が、明るみに出ることはなかったでしょう。
大抵の人は、大物議員から丸め込まれれば、それに応じてしまうものです。
例えば、内藤国夫氏は、「公明党の素顔」という本をエール出版社から出版しようとしましたが、ゲラの段階で、印刷会社にいた学会会員に見つかり、創価学会・公明党から圧力をかけられました。
そして、笹川良一氏から、全部買取りたいと要望があり、また、取次店からも拒否されて、ほとんど世に出回ることはありませんでした。
内藤国夫氏は、創価学会について次のような意見を述べていました。
「政界に進出し、国家権力と結びつく、また結びつこうとする権力志向、権力依存の宗教団体は邪教だということだ。オウムよりはるかに始末が悪い難問である」と。
植村左内氏は、昭和42年10月「これが創価学会だ─元学会幹部43人の告白」をしなの出版から出版しようとしましたが、ゲラの段階で、印刷業者にいた学会員に見つかり、創価学会から「図書発行禁止仮処分申請」を東京地裁に起訴されました。
創価学会・公明党の圧力により、取次店から拒否され、さらに、
東京都連会長の賀屋興宣氏や、日大の古田重二良会頭から丸め込まれてしまい、世に出回ることはありませんでした。
それに対して、藤原弘達氏は、自民党大物議員であり飛ぶ鳥を落とす勢いだった田中角栄氏からの圧力に屈せずに、
段ボール箱に3 箱以上も投書が来たり、警察が子どもに警備をつけなくてはならないほどの脅迫にも屈せずに、創価学会・公明党の批判本を出版することができました。
参考図書
「角栄、もういいかげんにせんかい」藤原弘達著