左手に暴力団、右手に警察権力を使い分ける創価学会
創価学会は右手に暴力団、左手に警察力を上手に使い分けて、池田大作会長を守るために活動してきました。
なぜ、そのようなことができたのでしょうか?
昭和44年(1969年)ごろから、創価学会は静岡県富士宮市にある大石寺(日蓮正宗の総本山)周辺の土地を買いあさって行きました。
そして、境内を拡張して大本堂を建てたり、その近くに広大な墓地(富士桜自然墓地公園)と造成したりして行きました。
この時期に富士宮市に流れた金は莫大でした。当時の金で、大本堂に300億円、富士桜墓地公園に200億円、その周辺の土地を購入するのに数百億円、合計で1000億円程度にのぼりました。
富士桜墓地公園の造成を一手に引き受けたのが、日原造園でした。
日原造園の日原博氏は、自民党富士宮支部長を金る実力者でしたが、富士桜墓地公園の造成の利権を独り占めしたために、地元の他の業者から妬まれていました。
日原氏と同じ地元の山口組系後藤組を誹謗中傷するビラを、M氏という人が新聞折り込み広告を出してばら撒きました。
それに怒った後藤組組員がブルドーザーでM氏自宅に突っ込み、M氏に日本刀で斬りつけるという事件がありました。
この後藤組組員は6年の実刑判決が出ましたが、日原のバックには、創価学会の顧問弁護士である、山崎正友氏がいました。
創価学会は大本堂を建設する際に、富士宮市の市道を許可なく勝手に潰したり、農地を不正に取得したりしました。そのことが、富士宮市議会にて問題となり、道路交通法違反で池田大作会長が告発されたりしました。
実は、この告発をしたのは日原博氏であり、創価学会では、その日原博氏を懐柔するために山崎正友氏と組むこととなりました。
富士宮市に100条委員会が出来て、池田大作会長を名誉市民から外すようにとか、山崎氏を証人喚問に呼ぶように、など、創価学会に対する風当たりが強くなって行きました。
100条委員会とは、地方自治法100条に基づく特別調査委員会であり、関係者の証人喚問や強制調査、修験拒否や偽証には禁固刑が課せられるというものでした。
昭和56年(1981年)3月に、100条委員会が一旦設置されましたが、公明党議員など反対派からの猛烈な切り崩しによって、同年12月に何も機能しないままに終焉しました。
この100条委員会反対工作に、創価学会から後藤組組長の後藤忠政氏に協力要請がありました。
山崎氏とともに後藤忠政氏は、富士宮市市議会議員への工作活動を行いましたが、100条委員会が解散となった途端に、学会は手のひらを返したように、後藤忠政氏と山崎氏が勝手にやったこととして、切り捨てました。
後藤忠政氏は、神奈川の伏木和雄元公明党副委員長に相談に行くと、門前払いされてしまったので、竹入公明党委員長と矢野公明党書記長に真意を問う、内容証明郵便を昭和57年(1983年)3月に出しました。
昭和55年12月、富士宮市議会における100条委員問題は学会にとって大変な出来事でした。
四方八方手を尽くした学会側は、100条委員会い調査打ち切り、池田大作先生への名誉市民剥奪、山崎正友弁護士の証人喚問阻止を、土橋公明党富士宮市部長、高橋繁公明党議員、稲田公明党市議会議員が、学会の代理として、後藤忠政氏に依頼してきました。
そこで、後藤忠政氏は100条委員会の中心人物であった河原崎澄雄市議会議員や河村、黒田市議会議員に働きかけをして、創価学会のために動きました。
しかし、内容証明郵便の返事もなく、創価学会側は、必要なくなった途端に、ヤクザ者の後藤組組長の後藤忠政氏を切り捨てて行きました。
内容証明郵便を出した三ヶ月後の昭和57年6月に、富士宮署に、”後藤組破壊対策本部”が設置されました。
そして、後藤組組員が、道端で立ち小便をして他くらいの些細なことで逮捕されて、60名あまりが次々と刑務所に入れられて行きました。
当時の公明党は、東京都議会でも多数派の与党でしたので、警視庁の予算の主導権を握っていました。
また、国会でも公明党は、予算編成におけるキャスティングボードを握る場合が多く、警察庁も頭が上がらない存在でした。
創価学会は、公明党から警察に圧力をかけさせることで、用無しとなった後藤組を壊滅させて、証拠隠滅を測ろうとしたのでしょう。
このような経緯があったために、昭和60年(1985年)11月12日、東京新宿区信濃町にある創価学の文化会館に後藤組幹部3名が発砲。銃刀法違反で逮捕されました。
山崎弁護士は、海産物業の商売をはじめましたが、20億、30億とも言われる損失を出し、その損失補填をするために、学会を脅して恐喝しました。
そして、山崎氏は創価学会から除名処分を受けました。
その山崎氏の後任として、後藤忠政氏に対する創価学会の窓口になったのは、藤井富雄公明党東京都議会議員でした。
池田大作会長は、藤井富雄氏を通して後藤に詫びを入れたことで再び関係が修復されました。
平成3年(1991年)11月、日蓮正宗と創価学会との抗争が激化したために、日蓮正宗は創価学会を破門。
平成4年4月に大石寺「妙遠坊」にて発砲事件が発生し、同年5月には大石寺「奉天寮」にて火炎瓶が投げつけられる事件が発生。いずれも後藤組が背後にありました。
藤井富雄氏と後藤忠政組長は、1995年12月に六本木で密会しました。この時の模様を撮影したビデオがあるとメディアに取りざたされました。
その時に藤井富雄氏は後藤忠政氏に次にように語りました。
「反創価学会の活動をしている、国会議員の亀井静香氏ら4名はためにならない」と。
受け取りようでは、後藤組に亀井静香氏ら4名の襲撃依頼をしたという意味にも取れる内容でした。
事実、亀井静香氏は「命を狙われている」と噂が流れて、警視庁の警備車両2台に挟まれて移動する騒ぎとなりました。
(「野中広務権力20年戦争ー創価学会を”折伏”させた胆力の光と影」「月刊現代」2004年2月号)
創価学会は、池田大作会長を守るためには、左手にヤクザ、右手に警察権力とを上手に使い分けて活動していました。
困った時は暴力団を汚れ役として使い、不要になったら責任を押し付けて証拠隠滅のためにポア(殺害)するという、行動パターンを取って行きました。
それはまるで、カルト教団のオウム真理教のようにです。
参考図書
「憚りながら」後藤忠政著