米国に2度殺された田中角栄氏
日本は、米国の属国であり51番目の州である、とよく揶揄されます。
しかし、戦後、一人だけ日本の独立を目指して活動した政治家がいました。
それは田中角栄氏です。
田中角栄元首相は、現役時代、米国の石油メジャーに依存しない、日本のエネルギー資源の獲得に力を入れていきました。
昭和48年(1973年)第一次オイルショックの際、田中角栄は次のように語りました。
「日本は、無資源国だ。太平洋戦争は、なぜ起こったのか。日本包囲網(ABCD)がしかれ、石油の供給がストップされた。
このままじゃ半年ももたないということで、無理矢理、戦争に引き込まれていったのだ、そのことを忘れてはいけない。
無資源国の日本は、資源外交を積極的にやらねばならんのだ」と。
中国共産党との国交正常化を実現しましたが、この目的は石油資源の獲得にありました。
中国大陸には、サウジアラビアに匹敵するほどの石油の埋蔵量があると、当時の国連機関は推定していました。
昭和48年、中国共産党は、日本に石油を輸出しました。中国共産党にとって、共産国以外への石油の輸出は初めてのことでした。
昭和48年(1973年)9月末、田中角栄氏は、ヨーロッパ諸国へ外遊に出かけました。
フランスのポンピドー大統領との会談で、原子力発電のためのウランの濃縮加工工場の共同経営。イギリスのヒース首相との会談で、北海油田の共同開発。ドイツのブラント首相との会談で、原子力発電の共同開発。
ロシアのブレジネフ書記長との会談で、チュメニ油田の開発などについて話し合い、原子力と石油の資源外交を行いました。
ブラジルではアマゾン開発の名目で原子力開発について、オーストラリアのホイットラム首相とは、ウラン共同開発について話し会いました。
アジアの石油資源大国インドネシアにも訪問。首都ジャカルタでは、世界一の石油大国サウジアラビアの高官と日本、インドネシア間の資源協約を結ぶ下地交渉に乗り出そうとしていた。
ところが、激しい反日暴動に見舞われ、田中角栄はホテルから一歩も出られない事態に見舞われてしまいました。
(この暴動は、CIAが仕組んだと噂されています。)
このような田中角栄氏の行動に対して、米国は警戒心を持ちました。
「田中角栄は、予期せぬ結末を招く。田中は、アメリカに依存しない。」
(米国国務省電信機密文書)
キッシンジャー大統領補佐官(当時)が来日し、田中角栄に次のようにいいました。
「日本が、独自に資源問題の解決を図るべきではない」と要求し、
「日本の行動は、同盟国への裏切り行為である」と脅迫してきました。
米国は、日本を自国のコントロール下に置いておきたかったのです。
米国からの脅迫にも屈せず、田中角栄氏は、我が信じる道を突き進んで行きました。
しかし、昭和49年(1974年)10月9日、立花隆氏の書いた「田中角栄研究―その金脈と人脈」という記事が掲載された「文藝春秋」11月号が発売。
この記事が発端となり、金脈問題で田中角栄氏が追い詰められて行きました。
昭和49年10月22日、外国特派員協会(FCCJ)の主催する昼食会に参加。
田中首相がスピーチした後、記者2人が、翌月に予定された米大統領の訪日などについて質問。
次に、ロサンゼルス・タイムズ東京支局長(当時)のサム・ジェームソン氏が次のように質問しました。
「米国では上院がロックフェラー副大統領候補の個人財産を調査中です。
首相は、政治家に自分の財産についての説明を求めることが日本でも適当だと考えるか。不適当ならなぜか。
適当だと思うなら、”文藝春秋の記事”にコメントしてくれますか」
これに対して、田中首相は「この種の記事で、政治への信頼に影響があるとすれば残念なことだ」「記事で、個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない」と答えました。
続いて他の特派員から「国民に報告するのか?」「記事は正しいのか?」といった質問が相つぎました。
ジェームソン氏は、「まるで、私の質問を発端に、あちこちで花火が上がったような状況だった。
田中氏のことは人間として好きだったが、私は記者としてすべき質問をした。
その結果、日本の政治を変えてしまった。本来なら、日本人記者が果たすべき役割だったのに。誰かに利用された気分だ。」と語りました。
(この質問の流れを裏で操っていたのは、CIAではないかという説もあります。)
当初、文藝春秋の立花隆氏の記事は、ほとんど注目されていませんでした。
しかし、この外国特派員協会(FCCJ)での質問で、田中角栄氏の金脈問題が、国内外を巻き込んだ大きな問題へと発展して行きました。
昭和49年11月26日、「私個人の問題で、世間の誤解を招いたことは公人として不明、不徳のいたすところ」「私は国政の最高責任者として政治的、道義的責任を痛感しております」と声明文を発表。
昭和49年12月9日、内閣総辞職。
たった一つの月刊誌の記事により、絶大な人気と権力を持っていた田中角栄氏は、失脚することとなったのです。
日本が、独自の外交によりエネルギー資源の獲得することに対して、頑ななまでに抵抗した米国。
その首謀者である田中角栄を失脚させて、米国の石油メジャーの支配下に、日本を屈服させようとした米国。
それはまるで、大東亜戦争前夜のABCD包囲網の再現のようでした。
ABCD包囲網とは、アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)の4カ国による、日本への石油を禁輸するという、日本に対する経済封鎖。国際法においては、経済封鎖は宣戦布告と同じ意味であります。
当時の日本は、石油のほとんどを米国に依存していました。
石油問題は、安全保障問題であり戦争へと繋がる非常に重要な国防政策でもあります。
環境保護のために脱原発を主張される方々もいますが、かつて日本のエネルギーの3割を占めていた原子力発電の代わりに、現在では火力発電所が補っています。
そのため、二酸化炭素(CO2)を大量に排出し続けています。
そして、平成9年、京都において、CO2など温室効果ガスの削減率を定めましたが(京都議定書)、日本は、その目標値を達成することが大幅に遅れてしまっています。
また、火力発電所を動かすために、大量の石油を輸入しています。
そして、大量の石油を輸入するために、毎日100億円以上のお金が外国に流れています。50年以上に渡り貿易収支で黒字を維持していた日本は、原発事故以来、毎年の貿易収支は赤字に転落しています。
果たして、このことは日本の安全保障上、良いことなのでしょうか?
田中角栄氏は、首相を退陣後も政界に絶大な影響力を保持し続けました。
(闇将軍)
米国は、退陣後も闇将軍として君臨し続ける田中角栄氏を、よく思っていませんでした。
田中角栄氏の後任首相は、椎名副総裁(当時)の裁定により、公選ではなく話し合いで選ばれました。(椎名裁定)
福田赳夫氏や大平氏が次期首相候補でしたが、公選ではその二人を抑えて首相となることはできなかった、三木武夫氏が棚ぼたで首相に選ばれました。
ちなみに、日本の防衛費をGNPの1%以下に抑制する政策(防衛費1%枠)が、閣議決定されたのは、三木内閣の時でした。
三木武夫首相は、政治評論家の藤原弘達氏によく電話相談して、助言を受けていました。
(テレフォン首相)
三木武夫氏が首相となって1年ほど経過した昭和50年暮れのある日、電話相談してきた三木首相に、藤原氏が言いました。
藤原氏「首相をどのくらいやりたいんですか?」
三木首相「せめて3年はやりたいな。やれるチャンスは人生に二度とない。この天与のチャンスに全力投球したいんだ。」
藤原氏「3年は無理だぜ。どう考えてもあと1年しか持たないでしょう。場合によったら半年でゲームセットかもしれん」
藤原氏「ところで、三木さん、あなたはロッキードのことをどう思っているかね?」
三木首相「ロッキードって、トライスターのこと?」
ロッキード社のトライスターその他の販売工作が暴露されたのは、昭和51年2月。
三木首相は、ロッキード疑惑について、何もわかっていない様子でした。
「この問題は、アメリカで火が可能性がある」、と藤原氏は、三木首相に示唆しました。
昭和51年2月、ロッキード疑惑が表面沙汰されたころ、三木氏からの電話相談に対し、藤原氏は、
「三木さん、戦後の総理の中で、正しいことをやり、世論が指示すべきことをやって殺された者は一人もいない。本当に殺されてもいいという覚悟があるなら、やりなさいよ」
と、田中角栄氏を追求することを後押ししました。
その後、三木首相は、このロッキード疑惑に関して田中角栄氏を追及することに、政治生命をかけていきました。
この時期の米国首脳人はどのような顔ぶれだったのでしょうか?
フォード大統領、キッシンジャー国務長官、石油財閥のドン、ロックフェーラー副大統領、テキサス石油財閥のブッシュCIA長官(のち大統領)。
皆、石油利権に深く関わっていた人たちでした。
フォード大統領の時代、ホワイトハウス付き記者をしていた文明子氏は、キッシンジャー国務長官に質問しました。
「ロッキード事件は、あなたが起こしたのではありませんか?」
キッシンジャー氏は答えました。
「もちろん、そうだとも。」と
(「朴正煕と金大中 私の見た激動の舞台裏」文明子著)
終戦後の日本において、初めて独立したエネルギー外交を展開した田中角栄氏。
しかし、田中角栄氏は、米国により2度も殺されてしまいました。
参考図書
「角栄、もういいかげんにせんかい」藤原弘達著
動画
「田中角栄 昭和47年、街頭演説」