422名の敵兵であるイギリス兵を救出した男 | 誇りが育つ日本の歴史

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422名の敵兵であるイギリス兵を救出した男

 

昭和17年(1942年)2月28日、ジャワ島北東部のスラバヤ沖にて日本海軍とイギリス海軍と戦闘が行われました。

(スラバヤ沖海戦)

 

日本海軍の圧倒的な優勢で、イギリスの駆逐艦や巡洋艦など、連合国の艦は沈没して、乗組員は海に漂流しました。

 

戦闘が終了した2日後、日本海軍の駆逐艦の雷(いかずち)が、ジャワ島のスラバヤ沖合を航行していると、たくさんの浮遊物を発見。

 

さらに近づき、双眼鏡でよく見ると、それは、救命ボートにしがみつき、海に漂流していたイギリス兵たちとわかりました。

 

雷の工藤俊作艦長は、その時、次の決断をしました。

 

”イギリス兵を救出せよ”

 

この海域には潜水艦が出没しており、駆逐艦雷(いかずち)も、潜水艦からの魚雷攻撃を受けました。

 

イギリス兵を救出している間、再び魚雷攻撃を受けるかもしれない危険がありました。

 

また、燃料も限られていたので、あまり長い時間、救出に時間をかけてしまうと、敵艦が現れた時の戦闘行動に、支障をきたしてしまう恐れもありました。

 

工藤俊作艦長は、”潜望鏡が見えないか確認しろ”と見張りに何度も確認の指示を与えました。

 

工藤俊作艦長は、ラッタル(艦艇が岸壁係留時に使用する固定の大型階段)を降ろして、救助のために使用するように指示を出しました。

 

また、一番砲だけ残して、総員を救助活動のために振り向けました。

 

このような行為は、日本兵に対する救助活動でも行わない、極めて異例の対応でした。

 

救命ロープや竹竿を降ろして、抱きつかせて救出しようとしました。

 

艦から流出した重油まみれの海の中、20時間以上漂流していたイギリス兵たちを一人残らず救出して行き、合計422名を救出しました。

 

工藤俊作艦長は、甲板にてイギリス兵の将校に対して、英語で次のように語りました。

 

「あなたたちは勇敢に戦われました。あなたたちは、日本海軍の名誉あるゲストであります。」と。

 

日本兵は、救出したイギリス兵に対して、ミルクやビスケットなど食料を支給し、重油まみれの体を拭き取り、負傷兵の手当をしました。

 

翌日、救出された422名のイギリス兵たちは、ボルネオ島の港パンジェルマシンにて、オランダ病院船に引き渡されました。

 

この時、救出されたイギリス兵のサム・フォール少尉は、のちに次のように語りました。

 

「一人二人を救うことはあっても、全員を探そうとはしないでしょう。

 

例え戦場でもフェアに戦う、困っている人がいればそれが敵であっても全力で救う、それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです。」と。

 

工藤俊作艦長にとっては、このようなことは当然の行為だったかもしれません。

 

なぜなら、海軍兵学校では、武士道精神を叩き込まれていたからです。

 

工藤俊作艦長は、終戦後、家族や友人に対しても、戦争体験を一切語らなかったと言います。

 

サム・フォール少尉は、終戦後、祖国に戻ってからも、工藤艦長に対しての感謝の気持ちを忘れることはありませんでした。

 

サム・フォール少尉は、自分が死ぬ前に工藤艦長にぜひお礼を言いたいと思い、平成15年(2003年)10月と平成20年(2008年)12月に日本訪問しました。

 

すでに昭和54年(1979年)に亡くなっていた工藤艦長は、サム・フォール少尉の訪問に喜んだことでしょう。

 

工藤艦長の墓前に手を合わせたサム・フォール少尉は、422名を代表して、感謝の思いを伝えることができました。

 

参考図書:「海の武士道」恵隆之介著