日本にとって朝鮮半島は地政学的に脅威です | 誇りが育つ日本の歴史

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日本にとって朝鮮半島は地政学的に脅威です

 

 

 

朝鮮半島の国内政治は、日本人にとって長年にわたり、極めて憂慮するべき問題でした。

 

なぜなら、社会不安は、天然病や黄熱病のように簡単に国境を超えて伝染する可能性があるからです。

 

日韓併合前までの朝鮮半島では、数世紀に渡り、李氏王朝の失政が行われていました。

 

その結果、独立国家として維持することが難しいほど財政的にも逼迫して、国家としての体裁を整えることができなくなっていました。

 

また、当時の清やロシアが朝鮮半島を事実上占領しており、日本の安全保障を脅かすほど脅威となっていました。

 

このような状況のもと、明治27年(1894年)、日本は清との間で戦争をして、戦争終了後の下関条約の第一条において、清に対して朝鮮半島における宗主権を放棄し、完全に独立を認めることを約束させました。

 

一般的に、条約の第一条は優先順位の一番高い事項となりますが、日本は第一に朝鮮半島の独立を清に要求したのです。

 

さらに、明治37年(1904年)、満州と朝鮮に対して陰謀を企てていたロシアとの間で戦争をしました。

 

当時のロシアは、ウラジオストクと日本から略奪した旅順(三国干渉)を占領して、世界最強の要塞を構築していました。また、シベリア横断鉄道は、朝鮮国境まで延長されていました。

 

戦争終了後のポーツマス条約の第一条において、改めて、朝鮮半島からロシアが引き上げることを約束させました。

 

日本は、一貫して朝鮮半島の独立を勝ち取るために、清とロシアと戦ったのです。10万人以上の日本兵の犠牲者を出してまで。

 

明治38年(1905年)、日本は朝鮮半島に総督府を設けて、朝鮮は日本の保護国となりました。

 

朝鮮では、権威者と責任者が分裂していました。そのような両頭政治体制で、社会不安や行政の無力さを導いたのでした。

 

そこで、明治43年(1910年)8月22日、二国間の全権大使によって調印された条約のもと、大韓帝国皇帝は日本の天皇に、朝鮮全土の統治権を完全かつ恒久的に譲渡を行いました。

 

1週間後に、天皇は日韓併合と朝鮮総督府の設立を命ずる勅令を発表しました。

 

明治43年(1910年)8月29日から日本は、朝鮮の行政に対して、全責任と全権を担ったのでした。

 

朝鮮王室の維持のために十分な歳費が与えられました。元王族に対して日本の皇族と同じ特権と名誉が認められました。

 

そして、貴族の称号が、多くの朝鮮人上流層の人々に与えられました。

 

梨元宮の方子(まさこ)様は、裕仁親王(昭和天皇)の最も有力なお后候補であったにも関わらず、朝鮮の李王朝の皇太子のお后となりました。

 

日本の皇室と朝鮮の皇室は同列だったのです。

 

一方で、日本と朝鮮と同じような地理にある、米国とキューバではどうだったのでしょうか?

 

キューバはスペインの植民地でしたが、重税や奴隷制度への不満などから、1868年から1878年にかけて独立戦争が行われました。

(第一次キューバ独立戦争)

 

明治19年(1886年)10月に奴隷制度が廃止され、それまでの奴隷たちは、農民や労働者階級の仲間入りをしていきました。

 

そして、多くの裕福なキューバ人が財産を失いました。

 

砂糖工場などに米国から、大規模な投資が行われていきました。

明治28年(1895年)にはその投資額は5000万ドルに達していました。

 

キューバは政治的にはスペインの植民地でしたが、経済的には米国に依存していきました。

 

そして、明治28年(1895年)2月、キューバ各地で独立運動家たちが蜂起して、独立運動を活発化させていきました。

(第二次キューバ独立戦争)

 

このような状況のもと、明治31年(1898年)4月、米国とスペインの間で戦争が行われました。

(米西戦争)

 

米国海軍はスペイン艦隊を壊滅して(サンチャゴ・デ・クーバの役)、パリ条約において、米国はキューバを保護国としました。

 

イギリスにおいては、1826年、インドを植民地運営していたイギリス東インド会社が、マレー半島における3つの植民地(ペナン、シンガポール、マラッカ)を統合して海峡植民地として、インドのベンガル総督府が管理するようになりました。

 

日本は、米国と英国に習い、地政学的に影響力の大きい朝鮮半島を、清とロシアという大国との戦争の勝利により保護国とし、総督府を設置して、行政運営を行っていったのです。

 

日韓併合の1年前の明治42年(1909年)12月4日、韓国の一進会が、韓国皇帝の純宗(じゅんそう)、韓国統監の曾禰荒助(そね あらすけ)、韓国首相の李完用(り かんよう)に対して、「韓日合邦を要求する声明書」を送りました。

 

「韓日合邦を要求する声明書」

「日本は、日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし、韓国を独立させてくれた。

 

また日露戦争では、日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

 

韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。

 

第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。

 

我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

 

参考図書

"The New Korea"  アレン・アイルランド著