日英同盟の影の立役者、柴五郎中佐 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
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日英同盟の影の立役者、柴五郎中佐

 

 

明治33年(1900年)、中国の山東省で数万人規模の武装蜂起が起きました。(義和団の乱)

 

外国人宣教師や外交官を殺害し、北京の各国公使館を包囲。

 

これに対し、イギリス、フランス、ロシア、日本など8カ国が、自国の居留民保護のために、天津の港に停泊していた各国の軍艦から約400名の陸戦隊を北京に送りました。

 

日本からも軍艦「愛宕」の水兵25名が参加しました。

 

北京では、義和団が北京に押し寄せる数日前、各国の公使館付武官や陸戦隊指揮官がイギリス公使館に集まり、具体的な防衛計画を話し合いました。

 

その時の総指揮を取ったのがイギリス公使のクロード・マクドナルドでした。

 

6月13日、公使館区域に約500名の義和団が襲撃。

 

6月21日、各国の公使館を警備していた清国軍(当時の中国政府)は、西太后の命令により、暴徒と化した義和団を鎮圧するのではなく、義和団と一緒になって公使館を襲撃しました。

 

この時、日本代表の柴五郎中佐は、最も激しい戦闘を進んで引き受け、少人数で暴徒や清国軍をことごとく撃退していきました。

 

イギリス公使のクロード・マクドナルドは、柴五郎中佐率いる日本兵の勇敢さや礼儀正しさに驚愕して、イギリス兵とイタリア兵も、柴五郎中佐の指揮下に入れました。

 

各国の外交官や、陸戦隊は北京に55日間も籠城しました。

 

どのような苦境にあっても冷静沈着な会津出身の柴中佐と、明るく忍耐強い日本兵の姿を見て、北京で籠城する各国兵士は、その士気をあげました。

 

柴中佐は戦術能力に優れており、作戦計画をするにあたり、各国武官たちは皆、柴中佐に意見を求めるようになりました。

 

柴中佐は、砲兵出身であり情報勤務も経験豊富であったので、北京城やその周辺の地理を調べ尽くして、情報網も作り上げていきました。

 

8月14日、籠城戦が終わり義和団や清国軍を鎮圧しましたが、各国の軍隊は略奪や暴行が多発しました。

 

その中でもひどかったのがロシア兵でした。

 

日本兵はそのような行為は一切なく、軍規に従って、規律正しく行動しました。

 

日本軍の勇敢さと軍規の良さが世界中に報道されました。

 

イギリスのスタンフォード紙は、事件当時、次のような記事を書きました。

 

「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰もが認めている。日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気溌剌たるは、真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない。」と。

 

また、ロンドンタイムズは、当時、次のように記事にしました。

 

「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。」と。

 

英国政府は、柴五郎中佐率いる日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、勇敢さに心打たれました。

 

義和団事件が鎮圧されたあと、各国の軍隊は引き上げましたが、ロシアだけが、2万人の兵隊を満州に送り込み、そのまま居座りました。

 

英国と日本は、ロシアの脅威をけん制する目的で、明治35年(1902年)1月、日英同盟を締結。

 

英国が外国と同盟を結ぶのは、史上初めてのことでした。

 

日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、勇敢さが認められたからです。

 

参考図書

「条約で読む日本の近現代史」藤岡信勝・他著