北朝鮮からの引揚者の記録
昭和20年8月、北朝鮮に住んでいた方の日本への引揚の体験談です。
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彼は、終戦当時10歳で羅南中学に通っていました。弟が二人の三人兄弟で家族5人で、朝鮮半島に暮らしていました。
彼の父は、鉄道員でした。
昭和20年8月9日前後、ソ連軍が満州や北朝鮮に空爆を開始しました。
清津という町にいた彼は、無蓋列車で吉州駅に向かいました。
駅では、「日本人帰れ」とか「朝鮮独立」などのプラカードを掲げた朝鮮人たちがいました。
日本人たちは、それまで住んでいた家を捨てて、避難を始めました。
朝鮮人は、空き家になった日本人住宅に残っていた家財道具を、盗んでいきました。
白昼堂々と行われている泥棒行為。しかし、それを取り締まる警察もありませんでした。
少年は、それまで味わったことのない恐怖を感じました。
終戦に伴い朝鮮半島、特に北朝鮮は無政府状態になっていました。
それまで存在していた、大日本帝国は滅びてしまったからです。
それまで、警察という存在があり、大日本帝国という国家権力が存在していたからこそ、命と生活の安全が守られていたのです。
少年は、この時、目に見えない国家の力が、その民族にとってどんなに大切なことかということを、つくづく思い知らされました。
家族と合流し、20人ほどの日本人とともに、機関車で、南下することにしました。
すると、鉄橋の下で、ソ連兵の戦車が待ち構えていました。止まれと合図しているように見えましたが、そのまま汽車は走っていると、車輪めがけて砲撃され、汽車は脱線してしまいました。
やがてソ連兵が汽車のところにきて、「ヤポンスキー?」と聞いてきました。
そして、日本人たちが持っている腕時計や万年筆、ボールペン、果物ナイフまで奪っていきました。
ソ連兵は、大人の男たちを日本兵と思い込み、捕虜として拘束しようとしましたが、我々は鉄道員であると、身振り手振りで必死に訴え、やっと解放されました。
危うく、シベリアに強制連行されるところでした。
それから、一行は、城津という町まで歩いていきました。そこで、別荘のような建物にしばらく滞在することになりました。
しばらくするとソ連兵がやってきました。
日本人たちが持っていた荷物を片っ端から奪っていきました。
日本人たちは、何も抵抗することができません。抵抗したら、射殺されてしまうからです。
それから、ソ連兵たちは、毎日のようにやってきて、金目のものを奪っていきました。
また、ソ連兵はものを奪っていくだけではありませんでした。
「マダム、イッソ?(女性はいるか?)」
「マダム、ダワイ(女をくれ)」
「ヤポンスキーマダム、イッソ?(日本人女性いるか?」
と日本人たちに聞いて回りました。
その間、日本人は皆、正座をして、両手を上げていました。
そして、日本人女性を見つけると、強制的に連行していきました。
ソ連兵の目的は、婦女暴行(レイプ)です。
その日のうちに帰ってくる人もいれば、何日も帰ってこない人もいました。
皆半病人のようになって帰ってきました。
女性たちは皆、髪の毛は丸坊主にし、男性の服装をし、顔にも炭を塗って浅黒くしていました。
それでも、何度もソ連兵は、
「マダム、イッソ?」
とくるので、次第に男装した日本人女性も見破られるようになり、レイプの被害者も続出しました。
ある日、ソ連兵に連行されようとした妻をかばい、抵抗したご主人が射殺されました。
そのあと、残された奥さんと、小さな娘さんは、夫の亡骸の前で、放心状態でした。
また、ある日、朝鮮人たち30名ほどが庭から一斉に家の中に入って来ました。
彼らは、日本人が持っている持ち物を片っ端から持ち逃げしていきました。
すでに、ソ連兵から金目のものの多くを盗み取られていたのですが、それに追い打ちをかけるように、今度は朝鮮人から、盗み取られていきました。
病人の寝ている布団から、少年の中学校で使っていたカバンまで、取れれていきました。
少年の父親が、保安隊に連絡に行きましたが、保安隊も朝鮮人です。
日本人難民を保護するようなことはしませんでした。
城津の町に、他の地域から何十里も歩いてたどり着いた日本人がたくさんいました。
ある母親は、別荘の玄関にたどり着いたけれども、そこでボロ布のように倒れて、6歳の少年がその母親のそばで、ポツンの座っていたこともありました。
その母親は、「この子だけ、お願いします。」と言い残して、亡くなってしまいました。
ある日、朝鮮人の保安隊が、宿舎にやって来て、ある少年の父親が連行されて行きました。
保安隊の宿舎では朝鮮人数名が待ち構えて、殴る蹴るの暴行を加えました。
理由は、鉄道員として勤務していた時、機関車の上から、その朝鮮人が立ち小便をしました。
それを注意して殴ったことがあったのですが、そのことを根に持っていた朝鮮人による復讐でした。
城津から成興府に移動しました。少しでも南下しようとしたのです。
そこで鉄道員の教習所として使われていた建物に、生活することになりました。
成興府に来てからもソ連兵による、「マダム、イッソ?」は続きました。
女子トイレの壁には、大きな穴が開けられており、夜、用をたしにトイレに入ると、待ち伏せしていたソ連兵が覗きこみ、女性とわかると、近くの畑に強制連行して行きました。
女性の悲痛な叫び声が夜中に聞こえて来ましたが、誰もなすすべがありませんでした。
ある雨の日、朝鮮人の保安隊が数人やって来て、荷物をまとめて外に出ろと命令しました。
雨の中、日本人たちは荷物をまとめて、外に整列すると、その朝鮮人は演説を始めました。
「36年の長い間、日本統治に苦しめられてきた朝鮮は、日帝から解放された。長年、日帝と戦って来た朝鮮人民の勝利である。
いいか、よく聞け、お前たち日本人は敗戦国民である。お前らが、過去にどんな非道を行なって来たか、よく考えろ。過去の思い上がった考えを捨てろ。」と。
彼らは共産主義者でした。
その後も共産主義を宣伝した朝鮮人の保安隊は、しばらくして、日本人避難民たちに対し、近くの宿舎への移動を命じました。
その宿舎に移動していると、地元の朝鮮人たちが入って来て、床や壁を引っ掻き回して出て行きました。
日本人に使わせるものはないと主張するように。
8月20日に38度線の軍事境界線が引かれ、南は米軍が管理し、北はソ連軍が管理することとなりました。日本軍は、それぞれの地域で、米軍とソ連軍に対して武装解除しました。
北朝鮮にある日本の軍事施設や、民間の工場の設備は全て、ソ連軍が接収して、ソ連に持ち帰って行きました。
日本人避難民たちは、38度線を超えて南下することができず、コジキ同然の暮らしをしなければなりませんでした。
コジキと言っても、ただのコジキではありません。
いつソ連兵や朝鮮人の保安隊から命を奪われてしまうかもしれません。
また、女性は、常に婦女暴行(レイプ)される危険と隣り合わせで暮らしていました。
ホームレスや被災者のために、ボランティアで炊き出しが支給されることはありません。毛布や布団が支給されることもありません。病院で治療を受けることもできません。
また、日本人避難民たちは、行動範囲も制限されていたので、働きに出ることも制限されました。
日本人避難民たちに待ち受けていたのは、飢餓との戦いであり、凍死との戦いであり、発疹チフスという伝染病との戦いでした。
宿舎での共同生活をしていた避難民たちは、冬が近づくにつれて、徐々に亡くなって行きました。
少年のお父さんも衰弱がひどく、とうとう亡くなってしまいました。
死者のための棺桶はなく、ムシロに巻かれて、日本人共同墓地に埋葬されていきました。
冬を越えた頃、ソ連兵は、日本人難民のために、消毒を無料で施すようになりました。
難民たちの衣服には、縫い目にぎっしりとシラミがたかっていましたので、その衣類を消毒するのですが、消毒しても、他からまたシラミが続々とやって来て、またシラミだらけになるので、意味がありませんでした。
また、ソ連兵は衰弱のひどい日本人を病院に入るように命じましたが、その病院と言っても、板の上に毛布一枚があるだけで、十分な治療も施されることはありませんでした。
少年が、シラミの大群を避けようと、隣に寝ていた女の子の頭を持ち上げたが、ひたいが冷たくなっていました。
すでに亡くなっていたのですが、何事もなかったかのように、また、横になって休みました。
死はすぐ隣あわせの暮らしをしていると、隣の子が亡くなっていても、気にならなくなっていました。
感覚が麻痺してしまっていたのです。
今まで生活していた家を奪われ、身の回りの手荷物も奪われ、日本内地への引き揚げもできず、働くこともできずに、ただ死を待つような暮らしでした。
これは、ソ連人と朝鮮人が、日本人難民のジワリジワリと死んで行くのを待っている、としか思えませんでした。
これは、日本人難民大虐殺です。
日本人難民たちは、誰にもこの惨状を訴えることができず、その日暮らしをしていました。
成興日本人世話会は、昭和21年2月時点で、成興地区の日本人難民の死者は2万人を突破した、と発表しました。
冬を越し、春になった頃、少年の家族四人とそのほかの生き残った人たちで、イチかバチかで、38度線を突破することになりました。
このまま収容所(宿舎での生活を例えて言っていました)暮らしをしていても、いつまで生き延びることができるかわからなかったためです。
荷物をまとめて、夜の1時に宿舎からこっそり脱出しました。
夜通し歩き続けて、日中も歩きました。2日目の夜が明けた頃、突然、止まれと命令されました。
日本兵の服装と日本刀を手に持った朝鮮人が、前に立ちふさがり、「金を出せ」と、要求しました。
「何もない」と答えると、手荷物を一つ一つ調べ始めました。そして、演説を初めました。
「お前たち日本人が、朝鮮にやってきた時を考えろ。皆手ぶらできたではないか。そして、お前たちは朝鮮人をこき使い、搾取して行っただろ。
お前たち日本人が朝鮮で得た地位も財産も、皆、朝鮮人が血と汗の犠牲の上にあるんだぞ。
だから、お前たち日本人を元の裸にしてやるんだ」と。
追い剥ぎは立ち去って行きました。
今度は、朝鮮人の保安隊に出会いました。
「お前たち凶器を持っていないだろうな」と聞かれましたが、持ってないと答えましたが、体温計を没収されました。
今度は二人の体格のいい男性に向けて、「日本兵だな」と聞かれたので、「違います。鉄道員です」と必死に説明しました。
しかし、「噓をつけ」と脅され、殴られました。
必死に懇願して、やっと、その保安隊から釈放されました。
日本兵に間違われていたら、シベリア送りとなるところでした。
5日目にまた保安隊に捕まり、身体検査が行われました。
一人一人個室に入れられて念入りに調べられました。
日本人難民は皆、わずかばかりの紙幣をみつからないように、衣類の間に縫い合わせていました。
ある日本人女性が個室に入ると、朝鮮人の保安隊員に辱めを受けたので、悲鳴をあげて出てきました。
その保安隊の検問を突破して、また歩いて行きました。
いつのまにか、少年の靴底は剥がれてなくなり裸足で歩いていました。
弟たちも同じでした。
皆、意識が朦朧とする中、足だけが動いていました。
その晩は、ある朝鮮人農家の家に宿泊させてもらいました。
38度線近くの朝鮮人農家では、同じような日本人難民たちを、お金を受け取って、短時間、泊めたりしてました。
しかし、あまり長く日本人を滞在させて、朝鮮人の保安隊に見つかってしまったら、拷問にかけられて、最悪、死刑となってしまいます。
ですので、日本人難民から、しばらく休ませてくれと頼まれても、断る朝鮮人が多かったです。
そんな中、ある朝鮮人農家が、暖かく日本人たちを受け入れてくれました。しかもお金はいらないと言うのです。さらに、お茶やキムチまで振舞ってくれました。
その農家は、もしかして保安隊に通報するのではないか。かえって怪しい、と感じましたが、とりあえず、休ませてもらうことにしました。
子供達含め、皆、爆睡していると、朝鮮人保安隊がやってきました。
やっぱり、と思いましたが、一通り身体検査が終わると、明日、また来るから、それまでここに留まるようにと命令されました。
保安隊が立ち去ってから、農家の主人がやってきました。
この農家に騙されたと、皆、思いました。
しかし、その主人はいいました。
「私は、戦前、日本人に大変よくしてもらいました。日本人にとても感謝しています。だから、今度は私が、あなた方日本人を助けたいと思っています。」と。
あっけにとられていると、次のようにいいました。
「明日、保安隊が来たら、皆さんを平壌に連行していくそうです。
平壌に連れて行かれた日本人は、生きて帰ってこれないと聞いています。
ですので、夜明けまえに、裏山に避難してください。
そこで、38度線を越えるまでの案内人を連れてきます。
あとはその人に従ってください。」と。
その朝鮮人農家の人は、地獄の中の仏様でした。
あくる日、裏山に隠れてからしばらくして、案内人が来ました。
彼は、今まで、日本人難民を連れて、何度も38度線を往復して来たそうです。
とても心強い案内人が来たと思いきや、3千円を要求されてしまいました。
全員の有り金全てを集めても足りません。仕方なく、その案内人は、日本人たちが来ていた服を剥ぎ取りました。
いよいよ、38度線越境です。
38度線を超えさえすれば、食料も医療設備も整った米軍が保護してくれます。そして、日本内地まで、無料で引き揚げさせてくれます。
まさに、38度線は生と死の境界線です。
この38度線を超えさえすればいいのです。
夜中に、はるか下に川が流れている崖っぷちを歩いていきました。その幅は、肩幅くらいしかなかったので、皆、這って進みました。
幸い、誰も崖の下に落下することなく通りすぎ、一山超え、二山超えて進んでいくと、土手の向こうに煙が登る町が見えて来ました。
ついに、危険区域を突破しました。気がついたら、案内人の姿がいなくなっていました。
その後、昭和21年5月14日、少年の母親と兄弟3人は、山口県仙崎港に到着しました。
日韓併合時代、多くの朝鮮人が日本内地に移住しまたし。また、日本人も朝鮮半島に移住しました。
日韓併合時代は、朝鮮半島は日本でしたので、国内移動でした。
しかし、終戦後、朝鮮半島に住んでいた日本人たちは、財産を全て剥ぎ取られた上に、飢餓と、凍死と、発症チフスの伝染病、それから、ソ連兵、朝鮮人からの婦女暴行(レイプ)と暴力の危機に怯えながら、難民として日本内地に帰って来ました。
その一方、日本内地に住んでいた在日朝鮮韓国人たちは、その多くは朝鮮半島に帰還しましたが、一部は「特別永住者」として、終戦後も、日本国内に暮らしています。
飢餓と、凍死と、発症チフスの伝染病、それから、日本人からの婦女暴行(レイプ)と暴力の危機に怯える心配もなく。
参考図書
「忘却のための記録」清水徹著 ハート出版