インドネシアを、オランダによる350年の植民地支配から解放した日本軍
インドネシアは、350年間にわたり、オランダによって植民地支配されていました。
昭和17年(1942年)3月1日、日本軍5万5千人がインドネシアのジャワ島に上陸。
350年間もの間、インドネシアに君臨していたオランダ軍を、たったの7日間で駆逐してしまいました。
オランダ軍を駆逐した日本軍は、祖国防衛義勇軍(PETA)を創設して、インドネシア人の青年たちに軍事教練をして、厳しい規律や忍耐心を教えて、勇猛心を植え付けました。
また、日本軍は、それまでインドネシアで高い地位を占めていたオランダ人を一掃して、インドネシア人に高い地位を与えました。
それまで公用語であったオランダ語を禁止して、インドネシア語を公用語として普及させました。
ジャワに民族結集組織(プートラ)や奉公会(ホーコーカイ)を全土に作り、組織運営の方法をインドネシア人に指導しました。
祖国防衛義勇軍(PETA)は、3万8千人に膨れ上がりましたが、昭和20年8月15日、日本軍が降伏。
その2日後の昭和20年8月17日、ハッタとスカルノによって、インドネシア独立宣言が行われました。
ハッタとスカルノはともに、祖国防衛義勇軍(PETA)で、日本軍による厳しい軍事教練を受けていました。
オランダ軍は、インドネシアの独立を認めず、再度インドネシアに侵略して、植民地化しようと試みました。
オランダ軍は、日本軍が降伏後のインドネシアを侵略し、植民地化することは、とても容易いことと考えていました。
ところが、それまで日本軍によって厳しい軍事教練を受けていた祖国防衛義勇軍(PETA)が立ち上がったのです。
日本軍は、連合国に対して武装解除をしていたので、武器弾薬を連合国によって接収されてしまいました。
そのような中、日本兵は、武器を奪われたふりをして、意図的にインドネシア独立軍に、武器を置き忘れてきたりしました。
日本軍は、終戦前に航空兵の練習のために、多くの初級練習機をインドネシアに運び込んでいました。
そして、祖国防衛義勇軍(PETA)に飛行操縦も教えていました。
インドネシア独立軍は、日本軍の初級航空機と、日本兵が、意図的に置き忘れていった武器弾薬を使って、オランダ軍と戦いました。
日本軍は武装解除しているので、イギリス、オランダ連合軍に間違われないように、練習機に描かれていた日の丸の半分を、白に塗って戦闘に参加しました。
インドネシアの国旗が紅白なのは、この時の戦闘機のマークが由来と言われています。
ジャワ島では、インドネシア共産党過激派が、武装解除して無抵抗の日本兵を襲撃。
民間人合わせて日本人400名あまりが、刑務所に拉致監禁されてしまいました。
止むを得ず、降伏した日本兵が、日本人救出のため再び戦闘を開始して、300名を救出することができましたが、すでに130名は虐殺されていました。
共産党過激派は、日本人たちを、小さな部屋に35人ずつ押し込め、日本軍から略奪した機関銃を使い、虐殺しました。
どの部屋も血の海に日本人の死体が折り重なっていました。
壁には、息をひきとる寸前に、「大義に死す」「インドネシア独立万歳」など、血で文字を書き残していました。
大東亜戦争を戦った日本軍は、アジアの植民地を解放して独立させることを大義としていました。
日本降伏後に起きたインドネシア独立戦争には、約2、000名の日本兵が、インドネシア人とともに戦いました。
そのうち、約1、000名の日本兵が戦死しました。彼らはインドネシアの英雄として、ジャカルタのカリバタ英雄墓地に埋葬されました。
1949年8月23日に、オランダの首都ハーグで会議が開催され、
1949年12月27日、オランダは、インドネシアの主権をインドネシア連邦共和国に移譲。
独立戦争が終結しました。
インドネシアには昔から次のような神話がありました。
”北方から馬にまたがる黄色い皮膚をした英雄が現れ、白人たちを追い払い、インドネシアの独立を助けて、救ってくれる。
そしてトウモロコシを実をつける頃には、その英雄たちは立ち去っていく。”
昭和20年8月17日に、ハッタとスカルノのが著名したインドネシア独立宣言書は、”05年8月17日”となっています。
この年は、西暦でいうと1945年であり、イスラム歴(ビジュラ歴)では1364年となります。
イスラム教徒であるインドネシア人は、その大切な独立記念日としてイスラム暦を使わず、05年8月17日と記録しました。
この「05年」とは、日本の皇紀2605年の意味でした。
参考図書
「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」
加瀬英明、ヘンリーストークス著 祥伝社