死して、不屈の見込みがあらば、いつでも死ぬべし。吉田松陰
勝つ見込みのない相手に対して、決起した高杉晋作。
討ち死に覚悟で、彼をそこまで行動させたものとは、なんだったのでしょうか?
嘉永7年(1854年)2月、高杉晋作は、父と共に黒船が来て騒然としている江戸を訪れました。
その後、萩藩に戻り藩校である明倫館に通いました。また、松下村塾に通うようになり、吉田松陰から指導を受けました。
文久2年(1862年)、清国の上海を、幕府の派遣団の一人として、視察しました。
そこで、高杉は日記(遊清語録)に次のように記しました。
「シナ人は、外国人の役(使役)するところとなれば、憐れむべし。我が邦、ついにかくのごとくからざるを得ず、務めて、これを防がんことを祈る」
それまで東アジアの宗主国として君臨していた、清国は、英国など外国の奴隷のような扱いを受けている状況を目の当たりにして、日本も、そうならないようにしなければ、との思いを持ちました。
また、「我が日本も末に覆轍(ふくてつ)を踏むの兆しあり」と語りました。
覆轍(ふくてつ)とは前任の過ちを繰り返すという意味ですが、このまま江戸幕府に日本の舵取りを任せていては、清国のように欧米の植民地奴隷となってしまうと、痛感しました。
高杉は、本来、藩主(殿様)への忠義や親への孝行を重んじていた人であります。
「毛利家のための忠臣となりたい」と木戸孝允に手紙を書き送っていたほどです。
しかし、江戸での黒船の衝撃、吉田松陰との出会い、そして上海視察を経験して、高杉を倒幕の革命家に変えていきました。
元治元年(1864年)7月19日、倒幕を掲げる長州藩が京都に進軍。それに対抗したのは、京都御所を守る薩摩藩、会津藩の軍勢でした。
(禁門の変、蛤御門の変)
元治元年7月23日、朝廷は長州藩を追討するように江戸幕府に命じて、江戸幕府は長州征伐に乗り出しました。
長州征伐軍に負けた長州藩は責任と取らされ、家老などが切腹させられました。
そして、長州藩の中で、長州征伐軍に謝罪して恭順しようとする派閥(俗論党)が台頭しました。
高杉は、この俗論党政権を打倒するため、決起しました。
しかし、奇兵隊は高杉の意見に賛同しませんでした。
高杉に賛同するもの約80名を率いて、元治元年(1864年)12月15日、下関にあった萩藩の出先機関である会所を襲撃。
(馬関挙兵、功山寺挙兵)
下関を制圧した高杉は、20名の決死隊を率いて、三田尻(現在の山口県防府市)にて海軍局を襲撃。
軍艦を手に入れました。
元治2年(1865年)1月6日、高杉の決起に対して、それまで傍観していた奇兵隊なども一斉に立ち上がりました。
鎮圧に乗り出した俗論党の萩藩の軍勢と衝突して、高杉は勝利しました。
高杉の機を見た決起によって、長州藩を幕府に従う方針から、倒幕一辺倒に転換することになりました。
慶応2年(1866年)6月、江戸幕府は長州藩と激突しました。
(第二次長州征伐)
慶応3年(1867年)4月13日、高杉新作は29歳で亡くなりました。
「ここまでやったから、これからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と死の間際、見舞いに来た同士に繰り返しました。
それから半年後の慶応3年(1867年)10月に江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が政権返上を朝廷に奉上しました。
(大政奉還)
12月に江戸幕府が廃止され、新政権が樹立しました。
(王政復古の大号令)
高杉晋作は吉田松陰に次のような質問をしました。
「男児たるもの、どんな時に死ねば良いでしょうか?」
安政の大獄にて投獄されていた吉田松陰は、その質問に対する答えを次のように書き残しました。
「世に身生きて、心死する者あり、身亡びて、魂存する者あり。心、死すれば、生きるも益なきなり。魂、存すれば、亡ぶも損なきなり」
たとえ肉体が生きていても、心が死んでいる人がいます。その一方、肉体が亡骸となっても、魂が生きている人もいます。
心が死んでいるのなら、肉体が生きていても意味がない。しかし、魂が生きているのなら、たとえ肉体が亡骸となっても価値がある、と。
また、吉田松陰は次のように書き残しました。
「死して、不屈の見込みがあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし。
僕の所見にては、生死は度外におきて、ただ、言うべきをいうのみ」
肉体が死んでも、不屈の見込みがあるのなら、いつでも死ぬべきである。
また、肉体が生きることで、大業をする見込みがあるのなら、いつまでも長生きするべきである。
僕(吉田松陰)は、肉体の生死は度外視して、言うべき意見を幕府に対して遠慮なく言うだけである、と。
その遺言通り、吉田松陰は、処刑されることを覚悟の上、幕府に言いたいことを述べて、切腹させられました。(享年 満29歳)
しかし、吉田松陰の肉体は亡骸となっても、その魂は高杉晋作など、弟子たちの中に生き続けました。
萩藩2、000名の軍勢に対して、わずか80名で決起した晋作。
奇兵隊の賛同も得られず、とても勝つ見込みがないとわかっていても、彼は立ち上がりました。
「死して、不屈の見込みがあらば、いつでも死ぬべし。」
高杉新作は、挙兵して討ち死にしたとしても、そのあとに志を引き継いでくれる人が現れるはずだ、と考えたのでしょう。
(参考図書「致知」2017年5月号 致知出版社)