米国のモンロー主義とは? | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
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米国のモンロー主義とは?

 

モンロー米国大統領は1823年(文政6年)12月2日の年次教書の中で、次のように述べました。

 

「欧州に対する我が国(米国)の政策は、長く地球の4分の1をかき乱したいくつもの戦争の初期段階で採用されたが、今日でも変わらず同じである。

 

つまり、欧州のいずれの国の国内問題にも干渉せず、事実上の政府を我が国にとって正当な政府とみなし、

 

その政府との友好関係を築き、公明で揺るぎない、断固とした政策でその関係を維持し、

 

正当であればいずれの国からの要求にも全て応じ、またいかなる国からの侵害行為にも屈しない、という政策である。」

 

この年次教書で、モンロー大統領が示した米国の基本方針は、後にモンロードクトリン(主義)と呼ばれています。

 

モンロー主義とは、外国の国内問題に干渉しない、という方針です。

 

ウイルソン米国大統領は、モンロー主義に反して、メキシコに干渉しました。

 

1913年(大正2年)、メキシコのマデロ大統領に対して、米国の工作により、ウエルタ将軍がクーデターを起こしました。

 

米国は当初、ウエルタ将軍に武器援助していましたが、その後、独裁政権を取るようになったため、政権を支援しない方針をとりました。

 

さらに1914年(大正3年)、ウエルタ政権を打倒すべく海兵隊を派兵しました。

 

そして、ウエルタ政権の反対勢力であった、ヴェヌスティアーノ・カランサ反革命派を支援しました。

 

しかし、ヴェヌスティアーノ・カランサは米国の助言を受け入れなかったので、今度は、パンチョ・ヴィリャを支援するようになりました。

 

この米国によるメキシコへの干渉によって、反米感情が高まり、内乱状態は1917年(大正6年)まで続きました。

 

その一方で、ウイルソン大統領は、中国大陸で袁世凱が総統となった「中華民国」に対してどのような行動をとったのでしょうか?

 

1912年(大正元年)2月12日、清国の最後の皇帝・宣統帝が退位することで、清国が滅亡しました。

 

袁世凱は、清国を引き継いだ中華民国の臨時政府の総統となりました。

 

国民党を率いる宋教仁は、これからは議院内閣制を採用するべきと主張し、1912年(大正元年)12月に選挙を行いました。

 

この選挙で国民党は圧勝しましたが、1913年(大正2年)3月、袁世凱は、国民党党首である宋教仁を暗殺。

 

1913年(大正2年)9月、孫文らが、袁世凱政権に対してクーデター(第二革命)を起こしましたが、袁世凱の軍隊により制圧されてしまい、さらに、国民党を解散させてしまいました。

 

その後、孫文ら指導者たちは、日本に亡命しました。

 

「中華民国」は、反対勢力である国民党指導者を暗殺することによって排除し、軍隊によってのみ国土を支配している国家でした。

 

袁世凱は、暗殺と大虐殺によって政権を掌握した軍閥の長であります。

 

ウイルソン米国大統領は、そのような袁世凱により建国された中華民国を、承認したのです。

 

このように、中南米では違法行為であり、とても国家として承認できないような方法で建国された国を、米国は承認し援助していました。

 

(参考図書:「満州国建国は正当である」ジョージ・ブロンソン・レー著 PHP)