南朝鮮からの引揚者の体験記 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

昭和20年8月朝鮮半島で終戦を迎えた日本人たち。南朝鮮に住んでいた、ある日本人家族の引き揚げの体験談です。

 

南朝鮮の全羅南道の羅州という町で、小学校の教員をしていた彼女は、学校で終戦の日を迎えました。

 

その日は、学校が放火されないように、職員が学校に宿泊することになりました。

 

8月17日、学校に警察署長が訪ねてきました。

目的は”御真影”を回収することでした。

 

御真影とは、昭和天皇と皇后両陛下の写真のことです。

当時の学校には全て、御真影が大切に飾られていました。

 

回収された御真影は、まとめて焼却処分されました。

 

敗戦後、日本人は皆、朝鮮人によって土手の上に並ばせれて、銃殺されてしまうという噂が学校内で流れました。

 

ある先生が、理科室から”青酸カリ”を持って職員に配りました。

「いざとなったら、これを飲んで潔く死にましょう」

といって。

 

(南樺太の真岡郵便局で電話交換手をしていた9人の女性が、8月20日、ソ連兵がすぐ近くまで侵略してきた際、青酸カリを飲んで自害しました。ソ連兵にレイプされることを避け、自害することを選んだのです。)

 

彼女の父親は、朝鮮での終戦後の様子を、次のように日記に書き残していました。

 

「日本敗戦とともに朝鮮人の態度が一挙に変わり、昨日までの優越感に浸っていた日本人も、敗戦国民として、処遇されるようになった。

 

昨日まで従僕的な朝鮮人も態度を改め、排日主義者を幹部とし、独立委員を組織し、保安隊を編成し、警察の武器を横領して武装した。

 

彼らは日ごとに排日思想を撒き散らし、態度を変えていき、無政府状態となっていった。日本人に対しての圧迫は日増しに危険となり、命を奪われるような人も出てきた。

 

しかし、ここ羅州には日本人軍隊がまだ駐屯していたので、命を奪われる危険はなく、安全である。

 

しかし、朝鮮を永住の地と定めて居住していた人たちも不動産など資産は全て没収され、わずかばかりの荷物を持って引き揚げていかなければならない。」

 

引き揚げにあたり、日本人の家財道具は全て朝鮮に残すことになりました。また、現金は一人1、000円まで持ち帰ることが許されました。

 

しかし、1、000円だけでは、日本に帰ってからの生活に困ることは目に見えていました。

 

そこで、紙幣や通帳は、服を解いて中に縫いこむことにしました。

現地の銀行から顔を覚えられないように、家族で交代で少しずつお金を引き下ろしていきました。

 

終戦後の朝鮮の銀行は、引き出しをするのに制限をかけていました。

 

11月17日、南朝鮮の全羅南道にある木浦(もっぽ)という駅から貨物列車に乗り、釜山に向かいました。

 

汽車の切符を買う時、朝鮮人の駅員から「これで日本は5等国だね。切符は打ってやらないよ」とつっけんどんに言われました。

 

「いいえ、かならず1等国になってみせます」と彼女は強く言い返しました。

 

仕方なく、日本人の駅長に頼み切符を売ってもらいました。

敗戦したとはいえ、この時はまだ、日本人駅長の権威はありました。

 

客車車両には米軍兵士が乗車しており、日本人引揚者たちは貨物車両でした。

 

その貨物車両にはトイレはなく、男子は走行中でも用を足すことできましたが、女性は列車が停車するたびに線路脇におり、羞恥心もなく、平然と股を開いて用を足しました。

 

38度線以南の南朝鮮には米軍が進駐して統治していました。

列車が停車すると、若い米軍兵が、チョコレートやタバコをくれたりしました。

 

途中、列車の運転する朝鮮人が、日本人から荷物を略奪しようと列車を止めて、日本人の乗っている貨物車両にやってきました。

 

しかし、その度に米軍兵士が、その朝鮮人に銃を突きつけて、運転を続けるように即すのでした。

 

米軍兵士のおかげで、日本人引揚者たちは安全を確保することができました。

 

進駐軍(米軍)がいなければ、間違いなく朝鮮人によって、列車は襲撃されていただろうと、その家族の父親は語っていました。

 

北朝鮮から南へ向かった日本人引揚者たちはみんな、朝鮮兵から虐殺されて荷物を略奪されました。また、女性は強姦(レイプ)されました。

 

それに比べて南朝鮮からの引揚者は、米軍の進駐軍がいたおかげで、まだ安全だったのでしょう。

 

釜山港に到着すると荷物検査を受けました。検査ゲートには、米兵の進駐軍が立っていました。

 

次に身体検査です。朝鮮人女性が体の上から入念にチェックしました。

 

身体検査の時には、衣服の中に隠した紙幣が見つからないかとヒヤヒヤしたそうです。

 

次に荷物の中身検査がありました。荷物を広げて、米兵が欲しいものがあると、取り上げていきました。

 

釜山港から博多行きの船に乗船して、米軍が敷設した機雷を避けるようにジグザグ運行をしながら、博多港に到着することができました。

(参考図書:「木槿の国の学校」上野 瓏子著)