南極観測船「宗谷」や「ふじ」の元となった砕氷船「大泊」を救った、ある海軍機関兵 斎藤兼之助 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

 

 

終戦後、南極観測船として活躍した砕氷船「宗谷 」や「ふじ」。その砕氷船技術の元となった砕氷船「大泊」を救った、ある海軍機関兵のお話です。

 

昭和5年6月1日 横須賀鎮守府(横鎮)にある横須賀海兵団へ入団。4等機関兵の新兵として6ヶ月間教育を受ける。

 

昭和5年12月 海兵団卒業して、重巡洋艦「加古」に乗艦、3等機関兵となる。

 

昭和6年8月 2等機関兵に昇進し、昭和6年10月、戦艦「比叡」 に乗艦。

 

昭和7年4月 - 横須賀にある海軍工機学校に入校して、昭和7年年9月海軍工機学校を卒業。1等機関兵に昇進(後の兵長)。

 

昭和7年10月 軽巡洋艦「多摩」に乗艦する。

 

昭和10年2月 海軍工機学校高等科に入校。同年5月、3等下士官に昇進。

 

昭和10年11月 海軍工機学校高等科卒業して、指名により軽巡洋艦「多摩」に再び乗艦する。昭和11年2等下士官に昇進。

 

昭和12年7月に日華事変勃発。その後、8月半ばから第二次上海事変が勃発。同時期に約500名の陸軍兵を、第三艦隊に編成された軽巡洋艦「多摩」に乗せて、上海南方60キロの杭州湾の敵前上陸作戦に参加。

 

クーソン砲台を占領するために艦砲射撃を行う。負傷兵が100名ほど戻ってきたので、赤十字の病院船に引き渡す。

 

揚子江河口に戻り、3個師団の陸軍兵の杭州湾の敵前上陸を援護する。その後、台湾に向かい、第四艦隊に編入された軽巡洋艦「多摩」は、重巡洋艦「妙高」とともに南シナ海沿岸の海上封鎖を行う。

 

昭和13年5月 海上封鎖に当たっていた軽巡洋艦「多摩」は、香港沖で台風の影響で遭難寸前となる。修理のために日本に一時帰国する。1等下士官(後の上等下士官)に昇進。

 

昭和14年3月 千歳海軍航空隊設立準備委員を命ぜられ机上準備のため大湊海軍航空隊に赴任する。

 

昭和14年6月 千歳海軍航空隊設立地に赴任。

 

昭和14年10月 千歳海軍航空隊の開隊式を行う。次に、樺太の大泊港にて、故障して動かなくなった砕氷艦「大泊」の機関修理を命ぜられる。その際、次の3つの条件を機関長に提出。

 

1つ目は面倒な手続きをしなくても要求するものはすぐに揃えてくれること。

 

2つ目は、必要な部品は要求通りすぐに作ってくれるように工作科の了解を取り付けてくれること。

 

3つ目は、必要な人数は何人でも派遣してくれること。この要求を受け入れてくれるなら1ヶ月で直してみせます。と機関長に報告。

 

このような要求は前例がないと反対をする人もいましたが、艦長の判断により、全て受け入れてもらうことになり、修理に取り掛かりました。そして1ヶ月で見事修理完了。

 

次に試運転を行い、問題なく運行することができました。

 

艦長から呼ばれ「横須賀鎮守府から派遣されてきたのが君のような若造で、実は、がっかりしていた。だから修理が終わっても試運転でガタガタにならなければ良いがと思っていた。

 

ところが結果は大成功。ありがとう。ありがとう」と感謝されました。

 

この砕氷艦「大泊」は、大正10年の竣工。排水量は2、300トンの小船でしたが、厚さ2メートルの砕氷能力がありました。

 

終戦まで日本海軍唯一の砕氷艦として活躍しました。

 

終戦後、この砕氷船の技術が、南極観測船「宗谷 」(海上保安庁)や「ふじ」 (海上自衛隊)に引き継がれました。

 

その後、北樺太のオハ付近で、遭難した食料運搬船「乾山丸」の救出のために出航。

 

当時は、大正9年に起きた尼港事件の賠償として、北緯50度以北の樺太での石炭採掘権をロシアから割譲していたため、多くの石炭採掘の労働者が北樺太に出稼ぎに出ていました。

 

砕氷艦「大泊」は救出に向かいましたが、予想以上に流氷が多く、断念。遭難した食料運搬船は幸い陸地に近く、命に別条はないということだったので、春を待つことに。

 

食料を満載して再び救出に向かい出航。待っていた人たちは、歓喜の声をあげて迎えてくれました。現地の領事もわざわざお礼を言いに船まで来ました。

 

寒い場所で、少ない食料を食いつないでいたそうで、心細かったことでしょう。

 

炭鉱労働者を救出して、6月に青森の大湊港に帰港しました。

 

昭和17年4月 横須賀海兵団教官(分隊士)を命ぜられ着任。准士官に昇進。 昭和17年6月士官としての教育のため海兵団に入校。

 

昭和17年8月 呉港のドッグにて修理をしている戦艦「山城」に乗艦して、機械長を命じられる。

 

昭和18年2月 戦艦「山城」は、駆逐艦4隻を連れて、呉港から横須賀港に向けて出航。

 

昭和19年2月 横須賀鎮守府(横鎮)にある、横須賀防備隊の本部に転勤となる。

 

この転勤は戦艦「山城」の田原艦長の計らいで、昇進具申をして転勤命令を出されたためでした。

 

防備隊とは、沿岸警備隊です。横須賀防備隊は、岩手県の三陸から伊勢湾までを担当地域としていました。70隻の警戒艇を使い沿岸警備にあたりました。少尉に昇進。

 

昭和19年4月 - 横須賀防備隊勤務2ヶ月後、重巡洋艦「高雄」への転属命令が出される。数日間、実家の墓参を済ませて東京の羽田へ出発。

 

出発の日、妻と一緒に、まだ何もわからない4歳の長男と2歳の長女から正装した姿の父に向かって「おとうちゃん、いってらっしゃい」とニコニコはしゃいで見送られました。

 

泣いて別れるより、むしろ胸を締め付けられました。

 

シンガポールに停泊中の重巡洋艦「高雄」への乗艦のために、羽田から飛行機で台湾経由で赴任。

 

シンガポールの根拠地隊司令部に挨拶に行くと重巡洋艦「高雄」がどこにいるか不明と聞かされる。

 

当時、重巡洋艦「高雄」は極秘行動をとっており、司令部でもその消息を掴むことができませんでした。しばらく海軍士官専用の旅館や喫茶を経営する水交社の宿泊施設に滞在。

 

ジャワ島のスラバヤへ行くように司令部から連絡があり行って見るが、重巡洋艦「高雄」の居場所は不明。

 

再び、水交社に戻る。今度は司令部からボルネオ島のバリクパパンへ行くよう連絡入る。そこから艦隊所属の補給船に乗り、ミンダナオ島のタウイタウイ島に到着。

 

やっとの事で、重巡洋艦「高雄」を含む数十隻の機動部隊を見つける。

 

昭和19年6月12日 内火艇から 重巡洋艦「高雄」に乗艦 掌機長となる。 

 

昭和19年6月17日 マリアナ沖海戦に参戦。その後、沖縄経由で呉港に寄港し、損傷箇所を修理。

 

家族に死を覚悟して「子供たちをくれぐれも頼む」と手紙を送る。その後、シンガポールに向かい、リンガ沖に停泊。

 

昭和19年10月 栗田艦隊第一部隊として、ブルネイに集結して重油を満載して、レイテ沖海戦に参戦。

 

昭和19年11月 重巡洋艦「高雄」は、敵魚雷により損傷。修理のためシンガポールに入港。修理が不可となり陸に上がって陸軍と共同戦線。中尉に昇進。

 

昭和20年8月15日 終戦。シンガポールに進駐して来た英軍の捕虜となる。重巡洋艦「高雄」はイギリスに接収される。

 

昭和21年2月 引き揚げが開始される。赤と白と黄色のテントに分けられ、160名の部下とともに全員白テントへ。この色分けは、赤テントが縛首刑、黄色テントが再調査、白テントが無罪でした。

 

昭和21年3月 日本内地への引き揚げ船にて広島の大竹海兵団に到着。そこから列車で、妻の実家である栃木県黒羽(現在の大田原市)へ。 

 

海軍兵学校 (エリート)出身ではなく、海兵団出身(4等兵)からのたたき上げにもかかわらず、終戦時には中尉まで昇進しました。

 

(参考図書:「海軍かまたき出世物語―四等機関兵から中尉までの15年間の泣き笑い人生」斎藤兼之助著 講談社 1983年6月)