南京攻略とは? 谷口勝歩兵上等兵の手記 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

日本陸軍の中野部隊 歩兵上等兵だった谷口勝氏が、昭和13年12月に書かれましたご著書、「征野千里」から引用させていただきます。

 

これは、杭州湾上陸作戦、南京攻略、漢口攻略といった作戦に関わった、一人の上等兵の手記になります。
そして、GHQによる焚書図書(ふんしょとしょ)として、流通網から廃棄処分された本になります。

 

そのうちの南京攻略の一部分を引用させていただきます。

以下、引用始まり
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「われわれの部隊は南京へ前進する。・・・が、
わが部隊は○○の予備隊となった」
と荒木准尉が情けない顔をして告げられた。

 

戦友たちはまたみんな腹を立ててしまった。南京戦に予備隊とは何だ。
それでは戦争がすんでも故郷へは帰れない――という。

再び行軍がはじまった。行軍は猛烈をきわめた。

 

ほとんど休憩というものがない。
ただ走るようにして行軍する。

漸く私たちに部隊の意図がわかって来た。

 

一線部隊に追いつき、これを抜いて予備隊から脱しよう、
自ら一線の戦闘を買って出よう――それだった。

みんなが歩いた。歯を喰いしばって歩いた。

 

一線部隊を越せ、一線部隊に追いつけ、そして――南京へ南京へと進む。

「南京まで一直線135キロ」とどこで聞いてきたのか、そんな声が舞台の中に聞こえてきた。

 

するとあと4日行程だ。わたしたちが山岳地帯からはいでてたどり着いた大きな本道を、日章旗を立てた装甲車が轟々と一列に走っていた。

車も兵も軍馬もただ「南京へ」の一つの目的に動いていた。

 

すると誰からともなく、「蘇州、無銭とおもてへ回った第一線がもう南京の城壁にとっついたそうだ」と言い出した。途端にみんながっかりしてしまった。

 

すると荒木准尉がみんなに、「第一線は城壁近くに迫っただけだ。まだまだ南京戦はこれからだ、我々は死んでもこれに追いつかねばならない」と。

1日目が13里、2日目が15里、3日目が18里を突破して言葉通りクタクタになった。

 

「南京中華門まで1里」と声がかかった。

城門の鉄扉はぴったりと閉ざされて、高さ5、6メートルもある城壁のような土塀から敵が一斉に打ち下ろして、私たちの前進を阻止した。

 

そこを突破すると丘の上には官軍学校や憲兵学校の大きな建物があった。これを左右に見て、一気に進んでいくと高々とした大きな城壁が目前に覆いかぶさってきた。

12月11日朝、私たちは南京城の大城門を2千メートル目前に見て敵と対峙した。

敵は城内と雨花台砲台と両方から猛烈に私たちを撃ってくる。

 

我々の〇〇砲も一斉に雨花台砲台に向かって放列を敷き、大砲戦が続けられた。

すでに中華門は500メートルの近さにそびえていた。

 

南京城に夜が来る。場内から撃ち出す敵の迫撃砲はいよいよ猛烈を極めて、軍工路と言わず、畑と言わず、一面に灼熱した鉄片の花火が散り続けた。砲撃の目標となるの絶対に火は炊けない。

 

「ここでは死ねねえな」
と石原上等兵がいう。

間断なく打ち下ろされる砲の弾片を被って、隣の隊の戦友が倒れていった。

 

黒々と目前を覆いかぶさる大城壁上には間断なく、パッパッパと火が噴いている。

追撃砲弾は休みなく頭上の夜気を震わせ、「衛生兵」と叫ぶ甲高い声は遠く近くに夜を裂いていた。

 

敵は撃ちに撃ってこの大城壁を盾に叩き伏せようとしている。
そう考えられるほど、私たちの戦いは激烈だった。

 

夜が明けるまでに大城壁の前に何人の戦友が残るだろうか、と思うほど敵は砲をベタ射ちに射ち続ける。やがて夜が空けてきた。

 

夜が明けるとすぐに城門への突入がはじまった。
城壁の上から手榴弾と機銃弾が降って来る。

 

城壁が轟然と音を立てて爆破される。

やがて城門を埋めた小山のようた泥の坂のところで、日章旗がしきりと打ち振られた。

戦車は轟音を立てて進軍し、私たちもまた一斉に進軍した。

 

中華門を抜いたが、通りや広場にはところきらず地雷が埋めてあったので、うっかり歩めなかった。

 

地雷を掘り返しながら清涼山に登った。清涼山は二段三段と傾斜面を利用して壕が重ねて掘られてあった。

 

壕の中には銃を捨てふらふらになった兵があちこちにうずくまっていた。

次の日、「前進」の命令が出た。
蕪湖へ行くという。

 

思い出の中華門を出ようとした時、「気をつけ」の号令がかかった。

こんな号令がかかることは戦場へきて滅多になかった。
城門の脇に〇〇部隊長と〇〇部隊長と岡本部隊長の3人が立って私たちの方へ敬礼していられた。

 

私たちはみんな目頭を熱くした。

 

部隊長はいつまでも挙手の礼をして、私たちがずうっと城門の外へ出てしまったにもかかわらず、まだじいっと見送って立ちすくしておられた。

 

銃もすて帯剣もすて、軍服だけの着の身着のままの敵兵が100人、200人と軍靴もなく、裸足で次から次へと道を進んできた。

 

街道の両側、畑の中に掘られた蛇たる塹壕、草むらを被ったトーチカ、無数に張り巡らされた鉄条網。

 

この堅固な陣地はいずれも蕪湖方面に向かって構築されてあった。
敵は我々の一部が蕪湖方面から南京へ向かって進撃するものと考えていたらしい。

この堅固な陣地は一発の銃声を放つことなく、武器を捨てた敵兵を追い出す「敗残の陣」となっていた。

 

逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道に続いていた。
200人、300人、と集団をなした敵を素手で捕えてしまう。

 

そして……私たちはハタと当惑した。自分たちでさえ糧食の補給がつかない、無湖への進軍だけで手一杯だった。それだのに、この千に余る敵敗残部隊をどうして養っていったらいいのだろうか。

 

私たちに抵抗した南京城内の敵は、一瞬にして南京城内外の骸の山を築いてしまった。それだのにこれは……ハタと当惑したのである。
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以上、引用終わり。

 

「南京大虐殺40万人」と世界に向けて宣伝(プロパガンダ)している中国共産党。
その数は年々増えていっています。

 

そして、ユネスコ世界記憶遺産として登録もされました。

 

日本人の中でも、このプロパガンダを信じている人がたくさんいます。学校の歴史教育で教えられているので、無理もないでしょう。

 

また、中国では、学校の歴史教育の一環として、中国全土に作られている南京大虐殺記念館(抗日戦線記念館)を訪問しています。

 

このような歴史教育を受けた日本と中国の若者たちが、友好関係を結ぶのには、大きな障害を乗り越えなければなりません。

 

大量の観光客が日本に押し寄せ、爆買いしていきます。
ビザなし渡航が許されたからですが、日本に来てみると、中国人の反日感情も薄らぐようです。

 

昔、留学した際、ある中国人から南京大虐殺のことについて、怒りをあらわにして、詰問されたことがありました。

 

私が、日中の平和を望んでいるといったら、その中国人の態度が変わりました。
その後、日本人は好きだけど、日本政府は嫌いと周りに話してました。

 

中国政府から反日教育の洗脳を受けているので、そのしこりを取り除くには、なかなか難しいようです。

 

プロパガンダではなく、本当の歴史を知る必要があります。
そのためには、マスメディアの情報を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で、見て、読んで、確かめていく必要があります。