出光佐三氏は、大学を卒業後、小さな石油商店で働き始めましたが、いつかは独立しようと夢を持っていたした。その当時、家庭教師をしていたある資産家の日田重太郎氏から資金提供を受けました。
君の夢を実現するためにこのお金を使いなさい、と言って、その日田氏の所有していた家を売却したお金を、無利子、返却不要、事業報告も不要、ただし独立して兄弟仲良く事業をする、という条件で資金提供を受けました。
出光氏はその資金を元手に石油小売業の事業を始めますが、約3年ほどで全ての資金を使い果たしてしまいます。運転資金がなくなってしまったので、事業の継続を諦めていたところ、その日田氏から叱咤激励を受けます。
「たった3年で諦めるのか、運転資金がなくなったなら、他の家を売却してお金を調達する。その資金を使って5年、10年と続けなさい」と。
出光氏は戦前、日本国内だけでなくアジア各国に資産を持つ大企業でした。社員数も1000人ほど抱えていましたが、終戦とともに全てを失いました。
しかし、そんな時にも、やく1000人の社員を一人も解雇することなく、雇用しづづけました。
当時、出光興産ではタイムカードもなく出勤簿も定年もありませんでした。社員はいつ出勤してもよいという自由な会社でした。そしてどんなに業績が悪くても社員をリストラしないという方針でした。
戦後、出光氏は13人の侍に囲まれて孤軍奮闘していました。そのとき、13人の侍に対峙するには一つの刀が必要であると考えた。13人の侍とは国際石油メジャーです。
その刀とはタンカーです。当時の経済安定本部の金融局長に直談判してタンカーの建造の許可してほしいと訴えました。その結果2隻のタンカー建造の許可が出ます。
その2隻のタンカーのうち1隻は大手海運会社に決まり、残りの一隻をどの会社にするか紛糾しました。そのとき、運輸大臣が出光興産にするという鶴の一言で決まりました。
当時の日本の石油販売会社は全て外資のメジャーに支配されていました。
その中で唯一、日本の会社である出光興産が孤軍奮闘していたのです。
その出光氏の願いとは敗戦で打ちのめされた日本経済を立て直すためには、米国、英国の石油メジャーの支配から脱却して、安くて良質の石油を自ら手に入れることが必要不可欠であると持論を展開しました。
これは一企業の戦いではなく日本が真に独立するための戦いです。そのために刀が与えられたら、国際石油カルテルを打ち破ってみせます、と。
その出光氏の思いが当時の役人と大臣に通じたのです。
念願のタンカー、日章丸が進水式を終え処女航海に出ました。目的地は米国のサンフランシスコです。
当時世界最大級のタンカーをサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの下をくぐりました。敗戦国の日本から世界最大級のタンカーが米国に着き、重油と軽油を積み込んで、日本に持ち帰って行きました。
日本では質の悪いガソリンが高値で売られていました。米国ヨーロッパの民間石油会社の代表からなる占領軍石油顧問団(PAG)からGHQへの働きかけの影響です。
日章丸は米国ロサンジェルスのロングビーチ港に着き、メジャー以外の独立系石油会社と契約して、安価で良質なガソリンを積み込んで日本に持ち帰りました。そのガソリンのブランド名を「アポロ」として販売しました。
また、米国の大手銀行(バンク オブ アメリカ)からガソリン輸入のための巨額の融資を受けることができました。当時としては破格の融資額でした。
その後、米国メジャーからの圧力により、出光興産と契約を結ばないという、米国西海岸の独立系石油会社の対応により、出光は窮地に立たされます。
その頃、中東のイランで巨大な石油利権を手にしていたイギリスに対し、イランが反撃に出ました。イラン国内で取れる地下資源はイランのものであると。そして、石油精製施設を国有化したので、イギリスは報復措置としてペルシャ湾にイギリス海軍を配備して経済封鎖しました。
そして、全世界に次のような通知を出し警告しました。
「イランの石油を買うことを禁ずる。イランと取引する者に対しては、必要と思われるあらゆる措置をとる」と。
イランはこのイギリスによる経済封鎖のために、極貧の状況になりイラン国民は飢えに苦しんでいました。
そのような状況で、出光氏はあるアメリカ人のコンサルタント会社を経営していたポール・B・コフマン氏から、イランの石油の購入話を持ちかけられました。
どの国もイランの石油には魅力に感じていましたが、大英帝国の海軍に対して、誰も立ち向かおうという気概のある国や業者はいませんでした。
出光氏をはじめ社内の重役達も皆そのリクスを感じ反対意見でした。しかし、出光氏はイランの石油を購入すると決断します。
「出光興産は国際カルテルの包囲網の中でもがいている、彼らは配下に収めた日本の石油会社と手を結び、出光興産を潰そうとしている。この我々の状況は国際社会におけるイラン国の状況と同じである。
イラン国の苦しみは出光興産の苦しみでもある。イラン国民は今、極貧の苦しみに耐えながら、イランの石油を買ってくれる海外からのタンカーが来るのを祈る思いで待ち望んでいる。これを行うのが日本である。そして出光興産に課せられた使命である。」と。
イラン国との交渉のために出光興産の役員がテヘランに行った。その時、イラン国の首相ムハンマド・モテザク氏とナンバー2の国会議員ハシビイ氏は次のように言った。
「我々は色々な国と契約を交わした。大きく値引きして譲歩もした。しかし、実際にタンカーをよこした国はない。」
難航した交渉がまとまり、いよいよ日章丸がイランに向けて出航した。航行先を知らされているのは船長と機関長だけで、他の乗組員には知らされていませんでした。この機関長は元海軍の機関兵で駆逐艦の乗組員でした。
この日章丸は表向きサウジアラビアに向かうことになっており、その後、航路を変更してイランに向かう計画でした。
日本を出航し数日後、航路変更をした時に、出光氏からの手紙が乗組員に対して読まれました。
「今から本船はイランの向かう、終戦後、出光興産は日本の石油産業確立のために猛進した。しかし、メジャーと彼らと手を組んだ石油会社のために、様々な圧力と妨害を受け、ついに包囲網を敷かれ、身動きが取れなくなった。
この絶体絶命の窮地を打ち破るために与えられたのが日章丸である。世界の石油業界は7人の魔女と呼ばれる欧米の石油会社に長い間支配され続けてきた。イランはそれに立ち向かった勇気ある国である。しかしイランはそのために厳しい経済封鎖を受け、彼を助ける者は誰もいない中、世界から孤立し、困窮に喘いでいる。
出光興産はイランの石油を購入すことによって、彼を助け、また日本の石油業界の未来に貢献する。今や日章丸はもっとも意義のある矢としてツルを放たれたのである。行く手には防壁防塞の難関があり、これを拒むであろう。
しかしながら弓は桑の矢であり、矢は石をも徹するものである。ここに我が国は、初めて世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策の基礎を射止めるのである。この矢は敵の心胆を寒からしめ、諸君の労苦を慰するに十分であることを信じるものである。」
「諸君も知っている通り、イギリスはイランの石油を積んだ船にはあらゆる手段を取ると宣言している。したがって今から日章丸と我々は、戦場に赴くのである。」と船長からのアナウンスが流れると、しばらくして乗組員から「万歳、万歳」と何度も何度も歓声が出ました。
ペルシャ湾に入りイランのアバダン港近くに入ると海岸沿いに子供達が皆手を振って、日の丸を掲げた巨大なタンカーを追いかけてくる。極秘裏に航行していた日章丸だが、イラン国民にはすでに噂となり、熱狂的に極東の遠い国から来たタンカーをイランを救う救世主のように出迎えた。
イギリスによる長い経済封鎖の中で、必死に生き延びて来たイラン人にとって、本当に石油を買ってくれるタンカーが現れたので、まさに日章丸はイラン人にとって希望の星だったのです。
その後、世界の通信社がこの事実を伝え、イギリス外務省は日本に猛烈に抗議をしました。そして、出光氏は記者会見をし、次のように発言しました。
「出光興産がイランの石油購入を計画したのは、国際石油カルテルの壁を打ち破り、自由競争の石油市場を作りたいと考えたからに他なりません。メジャーの手を離れたイランとの貿易は、それを可能にすることになるでしょう。なお、イランの石油はイラン国民のものであり、イギリスの主張は通らないと考えております。」
「私は、出光興産のためにおこなったのではない。そんな小さなことのために、日章丸の55名の生命を賭ける事は出来ない。このことが、必ずや日本の将来のためになると信じたからこそ、彼らをイランに送ったのです。」
このように強い口調で語ったのち、記者たちから拍手が起こりました。
日章丸は石油を積んで日本に向けて出航しました。途中、イギリス海軍に拿捕されるか撃沈される危険もありましたが、それ以外に座礁する危険もありました。
東京地裁で裁判になりました。原告であるイギリス資本の石油メジャーであるアングロ・イラニアン社は、日章丸が積んだ石油は、我々のものであるから返却しろ、という主張です。
裁判は結局、出光興産の勝利に終わりました。
当時は、サンフランシスコ講和条約が発効して、日本が独立国として認められたばかりの時代でした。
そんな時代に、日本の1企業が大英帝国を相手に危険を顧みずに抵抗したのです。
しかし、今の日本では隣の大国の機嫌を損ねないように、穏便に事なかれ主義がまかり通っています。米国に次ぐ世界第二の経済大国と浮かれていた時代も終わり、いつの間にか、日本は卑屈な小国と成り果ててしまったようです。