皇居勤労奉仕団とは? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

皇居勤労奉仕団というものがあります。

 

皇居内を清掃するボランティア活動で4日間に渡り、だいたい15人から60名弱の団体で活動しています。これは戦後の昭和20年から始まり、今まで累計で100万人以上の人達が奉仕活動に携わってきました。

 

この皇居勤労奉仕は、戦後の荒廃時期に、東北の宮城県栗原郡の農村から青年達が、皇居の二重橋に雑草がおおい茂っていて荒れ果てているという話を聞いて、草むしりのお手伝いをしたい、と言って上京してきたことから始まりました。

 

事前に、二人の代表が皇居の門前を警備している皇宮警察官に相談に行きました。その連絡を受けた総務課長は即断で了諾します。

 

その後、昭和20年12月8日に宮城県から約60名の青年団が上京してきました。

当時は過酷な占領下で、極めて醜い状況の下にあるので、GHQがどのような措置を取るかわからない。皇室のために奉仕をするということで、GHQから逮捕されてしまう恐れもありました。

 

ある娘のうちでは、兄弟や両親と長い別れの水盃を交わして上京してきた人もいたそうです。

 

このような申し出をする方も、またそれを受ける方も命がけだったのです。

 

そのような決死の覚悟を決めて上京してきた奉仕団でしたが、GHQに拘束されることはなく、奉仕活動に取り組むことができました。

 

この話を聞いた昭和天皇は彼らと話をしたいと言い、奉仕活動をしている人達のところへ向かわれました。

 

正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石段の上にかすかに人の気配がするのでひょっと見上げると陛下がお立ちになってこちらをご覧になっておられる。

お付きの方が見えて陛下がお呼びだという。私は作業着のまま石段を登って御前に参りますと木下侍従次長さんのお取次で、いろいろと御下問を賜りました。

 

やがてご政務所へお帰りになりましたが、その後ろ姿を拝して、一同期せずして君が代を合唱しました。誰の目にも涙がいっぱいでした。(木下侍従次長「皇室と国民」より引用)

 

まさか昭和天皇が自ら奉仕団の元へきて、御言葉をかけられるとは、誰も想像すらしていませんでした。

 

陛下は宮城県の状況や列車の混雑状況、コメ作の状況などをお尋ねになられました。御会釈は30分ほど続きました。

 

そして、陛下は踵を返してその場を立ち去られました。

皆、感激のあまり胸がこみ上げてきて、誰からともなく、君が代の大合唱となりました。

 

そして、陛下は思わず立ち止まり、その君が代の合唱をじっと聞いていました。

その歌声は涙声となり嗚咽まじりとなりました。

 

それまで天皇陛下が、国民とそんなに身近に接するということはありえないことでした。

 

この奉仕団と天皇陛下との交流が、その後の国民と寄り添う皇室の原点だったのです。

この話が広まり、全国各地から奉仕団が結成されて、皇居に殺到するようになりました。

 

やがて、GHQが不信感を持つようになり調査をしましたが、背後に何も不審な組織もなく、ただ、純粋に皇室を思う国民の意思だとわかったのです。

 

このように国民から愛されている皇室は世界的に見ても稀です。

 

特に戦争に負けた、立憲君主制をとっていた国の君主は、滅びるのが常ですが、日本の

皇室の場合は、その逆で滅びるどころか国民から愛され続けているのです。

 

日本の君主制を破壊し、共産革命を起こすことを立党の精神として約100年前に作られた、日本○○党。戦争反対、平和、平和と表面上は国民受けするようなスローガンを掲げてます。

 

しかし、その実態はあくまで「打倒天皇制」なのです。

この立党の精神は、約100年間、決してブレることなく続いています。

 

この日本○○党は朝鮮総連とともに、破壊活動防止法に基づく調査対象団体として指定され、今でも公安当局の監視下に置かれています。

 

この破壊活動防止法は、あの地下鉄サリン事件を起こして日本中を震撼させた、オウム真理教に対してもその適用を見送られた法律です。

 

ですので、日本○○党はオウム真理教よりもはるかに、危険思想を持った暴力団体ということになります。

 

国民から愛されている歴史ある皇室を、このような危険思想を持った団代から守り、次世代に残していくことが、私たちの勤めではないでしょうか?