日本を救った吉田茂 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

日本を救った吉田茂

 

 

吉田茂は、戦争反対論者で、特に旧日本陸軍を徹底的に嫌っていました。

太平洋戦争開戦後も、一貫して和平工作を進めていました。

 

吉田茂は、英国大使として英国に駐在していましたが、昭和14年に退官して日本に帰国しました。

戦争中は、戦争反対という意見を公にいうと、憲兵隊に捕まり、厳しい取り調べを受けました。そのあまりの厳しさに、獄中で死亡してしまう人も多数いました。

 

ただ、吉田茂は、その義理の父が牧野伸顕という皇室側近の人ということで、憲兵隊も簡単に連行することができませんでした。そこで憲兵隊と陸軍中野学校出身の諜報機関の工作員をそれぞれ別個に吉田茂の身辺に送り込み、書生として住み込みをしながら、大磯の別荘と東京の平河町の自宅の電話の盗聴から郵便物のチェックなど情報収集を行なっていました。

 

吉田茂とその反戦グループ(ヨハンセン)は、戦時中、常に監視されていたのです。

 

そして、昭和20年4月に、とうとう吉田茂も憲兵隊に連行されてしまいました。

 

玄関を激しく叩く音がしたので、玄関をあけると憲兵隊が4人いました。

書生として住み込んでいた工作員の一人、東輝次が「何の嫌疑ですか?」と尋ねると、そんなことは答えられない」と憲兵は言った。吉田は洗面を済ますと「心配しなくていいから、すぐ帰るから」と言い残して連行されて行きました。

 

吉田茂の逮捕は憲兵隊主導だったので、工作員の東輝次は全く予期していませんでした。

約40日後、吉田は証拠不十分で釈放されます。

 

連行の容疑は、近衛元首相が天皇に宛てた上奏分についてです。

吉田茂は、「日本は敗戦の道を辿っているが、敗戦となると共産革命が起きるだろう、その上で陸軍の指導者の中に意図していないにしても、共産主義者の策動に乗せられている者がいる」という内容の上奏文の下書きを近衛元首相から相談され、その補正をしました。

翌日の昭和20年2月14日、近衛元首相が天皇にそれを上奏したのですが、憲兵隊はその内容を知りたがったのです。

 

なぜかというと、憲兵隊は戦争をやめるべきという考えを持った人や和平工作をする人物を、徹底的に連行して、厳しく取り調べをしていたからです。

 

同年8月に終戦を迎え、戦後の内閣で吉田茂は外務大臣に就任し、その後総理大臣も兼務するようになります。

 

朝鮮戦争が起こり、日本を占領していたGHQも朝鮮戦争に介入していきました。

そのような時期に、米国のダレス国務長官顧問が日本の吉田首相に対して、再軍備をするように強硬に圧力をかけてきました。

 

米国主導の国連軍だけでは対応が不十分なので、日本に再軍備をさせて、日本兵を朝鮮半島に送り込もうとしたのです。

吉田茂はこの米国の圧力に屈せず、断固拒否の姿勢を貫きました。

 

戦勝国が敗戦国の兵隊を最前線に送り込んで、捨て石として次の戦争に動員させることは、歴史的によくあることです。

吉田は、日本が再軍備してしまったら、再び戦場に日本の若者を送り込むことになり、最前線で米軍の捨て石として多くの死傷者を出すことになってしまう、という危惧を持っていたのです。

 

吉田茂は、日本には憲法9条があるので、軍隊を持つことは憲法違反となってしまう、と言ってダレス国務長官顧問の強硬な圧力に対し、最後まで拒否しました。

結局、日本は再軍備することなく、警察予備隊を編成し、日本国内で武器製造などの後方支援をすることで妥協しました。

 

その後、吉田茂は、講和条約を結び独立するためにダレスとの交渉を続けます。

米国のワシントンに側近の白州次郎などを派遣して、日本が米国と講和するためのロビー活動をしました。

 

マッカーサーは当初、米軍基地は沖縄だけで十分と考えていました。なぜなら、沖縄には強力な米国空軍と核兵器が実戦配備されているので、日本本土に米軍基地は必要ないと考えていたからです。

 

しかし、1949年(昭和24年)にソ連も核実験に成功すると、相手が核で攻撃してきた場合、沖縄の米軍基地だけではリスクがあるので、日本全国に複数の基地が必要と考えるようになりました。

 

1949年に中国に共産国が誕生。1950年に朝鮮半島が戦争状態に入りました。

マッカーサーは講和後の日本の安全保障について、次のような提案を1950年6月にワシントンにしました。

「日本全土が防衛作戦のために潜在的基地とみなされるべきである」と。

 

これを受け米国国防省で、日本との講和交渉で示すべき安全保障協定の草案が作成されました。

そして、ダレスが日本との講和交渉の根本的課題について、次のような発言をしました。

「我々が望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保することである」と。

 

当時の米国は、朝鮮戦争やソ連や中国の共産国の脅威に対して、日本列島をその盾として米軍を日本全国に駐留しておきたいと考えていたのです。

 

吉田茂は、日本の主権回復後も米軍が引き続き日本全土に駐留するという、安全保障協定の提案を受け入れ、米国との単独講和を実現しました。

 

1951年9月にサンフランシスコにて講和条約が締結。それと同時に日米安全保障条約が締結されました。講和条約の調印式とは別に、安全保障条約の調印式には、他の閣僚や側近を連れず、吉田茂単身で行いました。

 

当時の日本国内では、講和による日本の主権回復ということだけ聞かされており、日米安保条約の詳細について、知っている人はあまりいませんでした。

吉田茂としては、後々、この日米安保条約について、日本国民から非難されることを予想し、他の閣僚にその責任を負わせたくないと考えて、単身で調印式に向かったのかもしれません。

 

昭和天皇がこの講和条約締結に伴い、退位する意向を側近に漏らしているという情報がありました。

吉田茂はこの講和条約が締結されるまで、天皇に何度も進捗状況を報告していましたが、日本の主権回復後もその任にとどまっていただくよう、それとなく伝えていました。

 

翌年の1952年4月に講和条約は発効。吉田茂は次のような声明を発表しました。

「この日を持って日本は主権を回復しました」

 

もし、朝鮮戦争時に米国の圧力に屈して再軍備をしていたら、多くの日本の若者が米軍の捨て石となり、朝鮮半島の戦場で死傷していたことでしょう。

もし、安全保障協定に反対し、主権回復後の米軍の駐留を認めなかったら、日本はまだGHQの占領下の状態であったかもしれません。

もし、米国の圧力に屈して再軍備をしていたら、軍事予算に多くの財政を割くことになるので、戦後の復興やその後の高度経済成長はなかったかもしれません。