終戦後、日本軍は、朝鮮人による朝鮮半島の統一独立国家の建国の手助けをしました。 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

 

 

 

 

ある国の学校教育では、朝鮮戦争について次のように教えています。

 

昭和20年8月15日以降、満州国を統治していた日本陸軍(関東軍)が、南下して朝鮮半島に留まり、朝鮮人に対する虐殺、強姦、性奴隷、略奪の横暴を繰り広げていた。

 

そして、その極悪非道な日本軍に対して南北朝鮮軍が立ち上がり、ソ連軍、中国軍、米軍とともに戦い、独立を勝ち取った、と。

 

でも実際は、日本が引き揚げた後、朝鮮人による朝鮮半島の統治が滞りなく移行できるように、日本軍は色々な手配をしていたのです。

 

日本は8月15日の終戦の日を界にして、それまで朝鮮総督府を初め、主要な公共施設に掲げられていた日の丸をおろして、太極旗(韓国の国旗)を掲げるようにしました。

 

これは、朝鮮総督府にいた阿部信行陸軍大将と朝鮮軍司令官の上月良夫陸軍中将の指示によるものでした。

 

そして、朝鮮総督府の政務総監だった遠藤柳作が、朝鮮人たちから人望のあった呂運亭(ろ うんきょう)に、朝鮮建国準備委員会(建準)を設置するように要請しました。

 

朝鮮独立準備委員会(建準)が、日本軍が引き揚げた後の朝鮮総督府の行政を引き受けて、朝鮮半島の治安の維持をすることとなりました。

 

しかし、昭和20年8月24日、ソ連軍が朝鮮半島北部を侵略。

 

38度線が封鎖されてしまい、朝鮮半島を南北に自由に行き来することができなくなってしまいました。

 

このままの状態が長く続くと、朝鮮半島が南北に分断されたまま、統一国家として独立ができなくなってしまいます。

 

そこで、建国準備委員会(建準)は、急遽、昭和20年9月6日、京畿女子高講堂で約1千名余が参加して、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言しました。

 

この朝鮮人民共和国には、のちに北朝鮮の初代国家主席となる金日成も参加していました。

 

米国を主体とする連合国は、この朝鮮人民共和国の建国を承認しませんでした。

 

なぜなら、日本軍がこの建国に関わっているので、日本の傀儡政権ではないかと疑ったためです。

 

そして、9月7日、米軍は朝鮮半島の仁川港に上陸して、軍政を敷きました。

 

米軍が朝鮮半島に上陸する際、朝鮮総督府などに掲げられていた太極旗を一旦降ろさせて、日の丸を掲揚させました。

 

なぜでしょうか?

 

米軍を中心とする進駐軍は、日本が統治していた領土に対して駐留することができました。

 

しかし、すでに日本軍が引き揚げて、新たに太極旗が掲げられている朝鮮人民共和国が建国されているとなると、米軍が進駐する正当性がなくなってしまいます。

 

そこで、日の丸を再び掲げさせて、まだ朝鮮半島は日本統治領であるとした上で、米軍が進駐してきたのです。

 

昭和20年9月11日、軍政庁を発足させて「軍政庁が南朝鮮(38度線以南)における唯一の政府である」という布 告を発表。

 

軍政を敷いて米軍を中心とする進駐軍が南朝鮮を統治していきました。

 

朝鮮人民共和国は、「来年(昭和21年)3月に総選挙を実施して、独立しよ う!」と民衆に呼びかけていきました。

 

しかし、10月10日、米軍政庁長官が、「総選挙は軍政庁に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である」と、朝鮮人民共和国の正統性を否定する声明を発表。

 

朝鮮人民共和国は、米軍から解散するように要求されてしまい、あっけなく消滅してしまいました。

 

これにより、朝鮮人による朝鮮半島の統一独立国家の建設は、できなくなってしまったのです。

 

なぜ、米軍は朝鮮人民共和国を認めようとしなかったのでしょうか?

 

ポツダム宣言では、日本に対して朝鮮半島の放棄を要求していました。

 

そこで、日本軍は引き揚げの際、朝鮮人の手により独立国家を建国して統治していけるように、建国準備委員会(建準)の立ち上げを呂運亭(ろ うんきょう)に依頼して、朝鮮総督府の行政権を引き渡したのでした。

 

しかし、昭和20年2月に行われたヤルタ会談において、朝鮮半島については、米英ソが委託統治をしてから、独立させる、という密約がすでにあったのです。

 

そのため、日本軍の指導のもと立ち上がった建国準備委員会(建準)や、呂運亭(ろ うんきょう)は、日本の手先として認めることができませんでした。

 

呂運亭(ろ うんきょう)が主導して建国した朝鮮人民共和国も同様に、米軍にとっては邪魔な存在だったのです。

 

上海にある大韓民国臨時政府の金九大統領など首脳陣や、米国に滞在していた李承晩が相次いで朝鮮入りしました。

 

朝鮮人民共和国の初代大統領は李承晩、内相に金九の名前が連なっていました。また、人民委員には金日成の名前もありました。

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、彼らとともに朝鮮半島の統一独立国家を作っていきたかったのです。

 

しかし、李承晩や金九たちは、朝鮮人民共和国に合流することはありませんでした。

 

むしろ、朝鮮人民共和国を非難し続けました。

 

彼らにとって、日本の朝鮮総督府と手を組んで作った独立国家を認めることは、プライドが許さなかったのでしょう。

 

その後も、呂運亭(ろ うんきょう)は、朝鮮人民党を結成するなど、朝鮮独立に向けて諦めることなく、活発に活動していきました。

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、11回にもわたる暗殺未遂を受けてながらも生き延びましたが、ついに、昭和22年(1947年)7月19日、韓智根によって暗殺されてしまいました。

 

この呂運亭(ろ うんきょう)の暗殺は、共産主義者の朴憲永が指示したと言われてますが、のちの初代韓国大統領となる、李承晩が指示したという説もあります。

 

当初、昭和18年(1943年)11月、テヘランで行われた連合国首脳会議(テヘラン会議)では、朝鮮半島は「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」として連合国首脳は同意していました。

 

しかし、昭和23年(1948年)8月15日、李承晩が韓国の建国を宣言して、続く9月9日、金日成が北朝鮮の建国を宣言。

 

これにより、38度線が占領統治の境界線から国境となりました。

 

その後、スターリンと毛沢東の協力を取り付けた金日成は、昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮軍の戦車部隊を進軍させて、38度線を突破。

 

米軍を中心とする国連軍と、北朝鮮、中共連合軍との戦争が始まりました。(朝鮮戦争)

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、昭和20年8月の終戦間際に、日本の神道思想家である葦津珍彦に次のように語りました。

 

「朝鮮は形は独立するが、建国の人材に乏しく極東の弱小国にすぎない。この極東の状況は明白だし、この時こそ日韓両相扶け相和すべきの天機。私はその為に全力を尽くす」と主張」と。

 

終戦により日本軍が引き揚げた後も、日韓双方で協力しあって統一朝鮮の建国を進めていきたいと考えていました。

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、李承晩のような極端な反日思想はなく、むしろ、親日派として疑われてしまうような思想を持っていました。

 

もし、呂運亭(ろ うんきょう)が韓国の初代大統領であったなら、戦後の日韓関係は全く異なるものとなっていたことでしょう。

 

極悪非道な日本軍と南北朝鮮軍が戦って勝利し、独立を勝ち取った、という李承晩が行なった徹底した反日教育もなく、韓国人の日本に対する意識も友好的となっていたかもしれません。

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