ソ連兵に性奴隷された日本人の従軍看護婦たちの悲劇 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

 

 

従軍慰安婦として日本軍に強制連行されて性奴隷にされたと言って、賠償金と謝罪を要求し続ける国や団体があります。

 

その一方、終戦後、ソ連兵の慰安婦になるのを拒み、集団自決した日本人看護婦たちがいました。

 

彼女たちは、なぜ、死ななければならなかったのでしょうか?

 

昭和20年8月8日、日ソ中立条約を破り、160万のソ連軍が、満州や蒙古、樺太、朝鮮などに侵略。

 

満洲国東部国境に近い、虎林の野戦病院で働いていた、日本人の従軍看護婦たち34人は、新京(長春)に避難しました。

 

昭和20年8月15日、終戦。すでにソ連軍に占領された新京(長春)で、従軍看護婦たち30名余りは、中国共産党の八路軍が管理する、通化路第八紅軍病院 への移動を命じられました。

 

年が明けた昭和21年春、長春第八病院で働いていた看護婦たちに一通の通知が届きました。

 

その通知には、新京(長春)から数キロ離れた城子溝にある、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所へ「看護婦三人、派遣勤務を命ず」とありました。

 

期間は一カ月。

 

満州や北朝鮮を占領していたソ連の命令には、拒むことはできません。

 

婦長の松岡喜身子さんは、軍医と相談の上、大島はなえさんら三人の看護婦を派遣しました。皆、二十代前半でした。

 

一週間後、さらに三人の派遣命令の通知が届きました。さらに一カ月後、新たに三人の派遣命令が届きました。

 

すでに、1ヶ月の派遣期限は過ぎていましたが、最初に派遣した看護婦3名は帰ってきませんでした。

 

昭和21年6月19日の夜、腕や足、体中に十一カ所もの銃創を受けた大島看護婦が一人で逃げ帰ってきました。

 

大島看護婦は、十一発もの銃創を受けて身体中が傷だらけとなり、背中は鉄条網をくぐり抜けたらしい擦過傷もありました。そして、うわ言のように言いました。

 

「婦長さん、看護婦を救護所にもう送らないで。私たちは最初からソ連兵の慰みものにされた。いやといえば、殺されてしまう。もうこれ以上送ってはいけません」と。

 

救護所の実情を報告しようと思い、命がけで抜け出して逃げ帰ってきた大島看護婦。遺言のように最後の報告をすませると、そのまま息を引き取ってしまいました。

 

翌日の6月20日、大島はなえさんのご遺体は、満洲の習慣に従い土葬にて手厚く葬られました。髪の毛と爪を残して。

 

その翌日の6月21日の朝、病院に出勤した松岡喜身子さんは、人事課長の張宇孝さんから言われました。

 

「今朝は、日本人看護婦は一人も出勤していない」と。

 

胸騒ぎがした松岡婦長は、看護婦たちが住む大部屋に駆け上がりドアをノックしたが返事はなく、中へ飛び込むと靴がきちんとそろえてありました。

 

22人の看護婦たちは、二列にきちんと並んで横になり、満州赤十字の制服姿で胸に手を当てて、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていました。

 

まるで眠っているようでしたが、よく見ると息をしていませんでした。

 

死んでいたのです。

 

看護婦たちは、終戦時に軍医から致死量の青酸カリをもらい、いざという時のために制帽のリボン裏に隠し持っていました。

 

二列になった床の中央に置かれた机の上に、前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が供えられていました。

 

そして22人連名の遺書が残されていました。

 

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遺書

                           22名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。

 

私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。

 

たとへ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。

 

その意味からも私どものなきがらは土葬としてこの満洲の土にしてください。

 

昭和21年6月21日 散華

新京 通化路第八紅軍病院

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「彼女たちの自殺は薬物(青酸カリ)によるものでした。それにまた彼女たちの汚れ物の一枚も残していないのも、日本女性の身嗜みと、一段と涙を誘うものがあります。

 

ボイラー係の満人からの話では、死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできて、これを目の前で燃やしてくれと言うので燃やしてあげたということです」

(元大本営参謀、戦後は明治薬科大学の理事長を務めた高橋正二氏の証言)

 

昭和27年ごろ、浪曲師の寛さんは、この話を題材にした『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業しました。

 

この浪曲を聞いた吉田亀治さんは、供養に役立ててほしいといって、公園墓地の提供を申し出ました。

 

吉田亀治さんは、戦時中、山下奉文陸軍大尉の副官をしていました。

 

昭和31年6月21日、自害した従軍看護婦たちを祭る、青葉慈蔵尊の開眼法要が、公園墓地「青葉園」にて営まれました。

 

五十年目の節目にあたる平成19年(2007年)6月21日の命日に、かつて婦長を務めた松岡喜身子さんは語りました。

 

「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね。

 

私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います。

 

私はこれからもあなたたちの分まで、看護の道を頑張りたいと思います」と。

 

今でも毎年6月21日の命日に、埼玉県さいたま市にある公園墓地「青葉園」の青葉慈蔵尊を前にして、墓前供養が行われています。

 

従軍慰安婦という戦時中にはなかった言葉を使い、強制連行されて性奴隷にされたと大きな声をあげて、謝罪と賠償金を要求し続ける国や団体があります。

 

その一方、日本人の従軍看護婦たちが、複数のソ連兵によって輪姦されて、婦女暴行(レイプ)を受けたために、梅毒にかかり、精神的にも苦痛を受けてしまったので、青酸カリで自害をした人たちがいました。

 

日本政府は、日本人従軍看護婦たちが、ソ連軍によって強制連行と性奴隷にされた事実に対して、ソ連(ロシア)に対して、謝罪や賠償金を要求したことは一度もありません。

 

また、生き残った日本人の従軍看護婦たちが、大きな声で非難声明を出したこともありません。

 

ただひたすらに、墓前に手を合わせて亡くなった方々を供養する日々を、ひっそりと送ってきました。

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