鄭和の遠征とウバイド黄金について、面白い仮説を見出しました。
(わたしの大切な友人との合作説です)
明の宦官鄭和が、大船団を組んで東南アジアからアフリカまで広く遠征して明の国威を示し、
遠征先からの朝貢が始まりました。
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【鄭和】
もともとの名前は、馬三保。
この「馬」姓はマホメッドに由来するとのこと。
マホメッドは、ウバイドワンワールド側が、広がるカトリック覇道一神教が東側に広がらないために、
ストッパーとして送り出した人物とされている。
イスラム教が、他宗教におおらかで、戒律を重んじる、などはマニ教の影響が伺える。
元に近しい立場だったので、明になる時に捕らえられて宦官に。
しかし、その後、重用され、イスラム教徒だったこともあり、永楽帝の遠征軍を指揮。
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鄭和が陳氏と関わりがある、ということで、あの大船団の費用はウバイド黄金から出たのでは、
という予測を友人がしました。
鄭和の遠征先を見ると、東南アジアは國體に関係がありそうな場所が多いので、
確かに黄金の回収を目的にしたとすれば、納得がいく仮説です。
中東もメッカ辺りまで行き、アフリカ東海岸まで到達していて、なんとも壮大な遠征です。
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【鄭和の遠征】
第1次~第7次。
1405年~1433年。
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そこで、さらに予測したのが、
当時中東やアフリカに溢れていたであろう黄金の回収もやったのではないか、ということです。
鄭和の遠征より80年程前、マリのマンサ・ムーサ王がメッカ巡礼(1324年)に際し、
道すがら莫大な黄金を喜捨していったので、当時の黄金の価値が暴落したということが起きました。
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【マンサ・ムーサ】
マリ帝国の9代目の王。
在位1312年~1337年?
総資産が現在の価値で4000億ドルあったと言われる。
イスラム教徒で、1324年にメッカ巡礼を行う。
巡礼途中のカイロでの黄金の喜捨による金相場混乱を引き起こした。
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黄金の差配で、地域の発展と権力の調整を図っているウバイドワンワールドにとって、
黄金が自分たちの管轄外に多量に流れることは望まないはずです。
そのような状況下で、イスラム教徒の鄭和は、回収役として適任であったはずです。
あと、時期的に見てもう一つ仮説が浮かびました。
時期が大塔宮護良親王の子孫が、南朝武士などを連れて欧州に向かっていた時期と被ります。
落合莞爾氏は、大塔宮の子孫は東南アジア諸国で王となった、と言っていますので、
冊封体制下に入れて駆け出しの王朝を保護したのでは、と考えました。
この一行は、欧州に入っていく際、マラッカ海峡を通り、インドを進み、
ホルムズ海峡からペルシャ湾を航行して、
上陸後黒海沿岸トレビゾンドからヴェネツィアを経由して向かったようです。
あと、大塔宮勢が欧州に入るまでの航路と似ているので、
大塔宮勢の航路保証の地ならしか、護衛だったのではとも考えられそうです。
国内ウバイドと海外ウバイドの壮大な合作工作が鄭和の遠征の真相だったのかもしれません。