「光る君へ」が話題!紫式部と清少納言、、 | ・・・ 瀬戸の夕凪 ・・・

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【「光る君へ」が話題!紫式部と清少納言、知られざる本当の関係】「憧れと嫉妬」の歴史秘話 共通点も多いが、性格は対極だった

 

<写真>、、、1000年の時を経て読み継がれる「源氏物語」

作者の紫式部(画像/アフロ)

 

“大河らしからぬ”大胆なシーンが話題になっているNHK大河ドラマ「光る君へ」。

まひろ(紫式部)と藤原道長の恋模様や、政治闘争とともに注目されるのが紫式部“最大のライバル”といわれている「枕草子」の作者、清少納言との関係だ。

 

 お互いを想い合うのに、別々の道を歩き始めようとするまひろと道長──切ない運命が描かれるなかで、鮮烈な登場を果たしたのがファーストサマーウイカ(33才)演じる清少納言だ。

 

 放送前にウイカが「清少納言は、聡明で勝気、あけすけだけどウイットに富んだ辛口ブロガーの第一人者、という印象です」と語っていたとおり、初登場の第6話(2月11日放送)終了後には、

「期待通り!」

「バチバチ来た〜」

「いきなりのマウント、さすが」

と、視聴者もその“火花を散らす関係”に大満足の様子。

 

 「源氏物語」と「枕草子」という平安時代を代表する文学作品を残した2人は、ライバル関係にあったとされているが、「ライバル関係どころか、そもそも面識がなかった可能性が高い」と話すのは、歴史作家の河合敦さんだ。

 

 「実は2人が宮中で働いていた時期は重なっていません。

清少納言は中宮定子に仕えていましたが、定子が1001年に亡くなったため、辞めざるを得なくなって宮中を去ります。 

 

 一方、紫式部が道長の娘・彰子の女官として仕えたのは1004年前後ではないかといわれている。

 

 諸説ありますが、宮仕えの時期が何年かズレていたことはたしかです」(河合さん・以下同)

 

「清少納言ときたら得意顔でとんでもない人」

 

 それでも2人が「ライバル」といわれ続けてきたのはなぜなのか。

その答えは紫式部が書き残した「紫式部日記」にある。

 「紫式部日記 」(角川ソフィア文庫/山本淳子編訳)を読み解くと、こんな一節があります。

 

 “清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。

さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは”。

 

 現代語では、“それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。

あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、よく見ればまだまだ足りない点だらけです。

彼女のように、人との違い、つまり個性ばかりに奔りたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ「変」というだけになってしまうものです”と、悪しざまで非常に厳しい批判です」

 

 面識もないはずの相手をこれだけ“罵倒”する紫式部だが、実は境遇は清少納言とよく似通っていると河合さんは続ける。

「まずは身分。

どちらも受領という下級貴族の家の生まれで、父親の地位はあまり高くなかった。

受領はいまでいう県知事のような役職で、貴族のなかでは下っ端の方にあたります」

 

 結婚生活に恵まれなかったという点も同じだという。

「清少納言は16、17才頃に結婚したものの、10年くらいで離婚しています。

性格の不一致なのか理由は定かではありませんが、あまり幸せな結婚生活ではなかったのでしょう。

離別後、自ら積極的に宮仕えをしたようです。

 

 一方、紫式部は結婚が遅く、20代後半になって、20才ほども年上の男性と結婚しました。しかし3年ほどで夫が疫病(感染症)か何かで亡くなってしまう。

それから「源氏物語」を書き始め、その評判を聞いた道長に請われて、彰子の教育係のような形で宮中に招かれました」

 

紫式部についたあだ名は「ガリ勉」

 

 かように共通点の多い2人だが、性格は対極だった。

「清少納言は明るく積極的。

自由にズバズバものを言うタイプで、自分の教養を隠そうとはしなかった。

強気で明るく、自分が一番じゃなきゃ嫌だという性格ですが、社交的で宮中に出入りする役人の男性たちからの人気も高く、彼らと即興で漢詩のやりとりなどもしていました。

 

 宮仕えをする女性が軽んじられる当時、清少納言は「枕草子」のなかで、“宮仕えする女の悪口を言う男は、本当に憎たらしい”といったことを書いていて、陰口などにも毅然とした態度を貫いていたことが読み取れます」

 

 かたや紫式部は、「紫式部日記」の内容から、かなり内向的で暗い性格だったことがうかがえる。

「清少納言とは対照的に、悲観的で他人からの評判ばかり気にするような、繊細な人だったようです」

 

 宮中では同僚から、いじめを受けていたという。

「彰子には20人くらいの女房がいましたが、彼女が“鳴り物入り”で道長にスカウトされてきたことから、あまりいい感じを持たれていなかった。

一緒に働く女房に無視されたりして、一度実家に帰ってしまったこともありました。

 

 同じ牛車に乗った身分の高い女房に“嫌なヤツと乗ったわ”とボソッと言われたり、天皇が“「源氏物語」を書けるような人に「日本書紀」という歴史書の講義をしてほしい”と言ったことから、“日本紀の御局”というあだ名をつけられたりしました。

それについても日記にグチグチと書き連ねています」

 

 “日本紀の御局”とは、今風にいえば“ガリ勉”といった嫌み。

こうした陰口を叩かれないよう、紫式部は「一」という漢字すら書けないふりをして教養を隠すなど、目立たないよう努めていたという。

漢詩に興味を持った彰子に、中国の詩人・白楽天の「新楽府(しんがふ)」をレクチャーしてほしいと頼まれたときも、ほかの女房たちに気づかれないように、こっそり2人きりで講義したそうです

 

 そんな紫式部にとって清少納言は、たとえ面識はなくても「意識せざるをえない相手」だったのだ。

「日記のなかで清少納言を批判すると同時に、自分を卑下することも長々と綴っています。

清少納言をひどくこき下ろしたのも、“本当は清少納言のように、他人の目を気にせず、自分をさらけ出してみたい”という羨望の気持ちからなのかもしれません。

 

 紫式部が宮中で働き始めた頃も、まだまだ清少納言の人気が非常に高く、宮中での噂が絶えなかったのでしょう。

それを聞いた紫式部が、清少納言に嫉妬したのではないかと思います」

 

 すなわち、「源氏物語」という世界に誇るべき作品が生まれたのも、清少納言という存在があったからとも言える。

いつの世も、高め合う相手がいてこそ、“光る自分”になれるのかもしれない。

※女性セブン2024年4月4日日号

<記事引用>