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なぜ藤原道長は平安時代の最高権力者になったのか…

「さえない三男坊」を大出世させた女性の存在

 

<写真>、、、菊池容斎「前賢故実」巻之六より「藤原道長」

 

藤原道長はどんな人物だったのか。

歴史評論家の香原斗志さんは「5人兄弟の末っ子で、当初は出世を期待できない立場だった。だが、度重なる偶然を契機に、政治的嗅覚とセンスを発揮して平安貴族の頂点に立った」

という――。

 

なぜ「5人兄弟の末っ子」は貴族の頂点に立ったのか

 

藤原道長といえば、平安時代にひときわ大きな権力を握った貴族として、だれもが知る存在だ。

4人の娘を次々と天皇に嫁がせては、生まれた子を天皇にし、その「外祖父」として君臨して、この世のすべてを意のままにできるほどの権力を掌握した――。

 

小学校でも中学校でも、そのことを繰り返し教わるので、こうした道長のイメージは不動なのではないかと思われる。

 

だが、それにしては、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の第1回「約束の月」(1月7日放送)に描かれた道長(ドラマでは三郎)は冴えない三男坊で、兄からも疎まれ、出世する芽がどこにあるのかわからない。

 

事実、当初は道長の立場は、権力を握れるようなものでは到底なかったのだが、では、そんな道長がなぜ、栄華をきわめることになったのだろうか。

 

そもそも、道長の呼び名は「三郎」なのかという疑問がある。

当時は生まれた順に子供の名前を付けるのが一般的で、「三郎」といえば三男なのが一般的だ。

 

道長の場合、父の藤原兼家が嫡妻に生ませた男子としては、道隆、道兼に続いて3番目だが、道隆と道兼のあいだに道綱、道兼と道長のあいだに道義と、母親が異なる二人の兄がいたので、実際は五男だった。

 

この時代、母親がだれなのかは問わず、生まれた順に長男、次男と認識されていたことを思うと、三郎という名には少し違和感が残る。

 

しかし、違和感は本題ではない。

いくら摂政、関白を務め権勢を誇った父親の息子であっても、三男ではなかなか出世は覚束ないが、ましてや道長は五男だったのである。

 

道長が呼び捨ての対象だったワケ

 

ところで、道長の事績は主に三つの史料で確認することができる。

ひとつは道長自身が長徳4年(998)から治安元年(1021)まで書き記した『御堂関白記』である。

これは直筆の日記としては世界最古とされる自筆本14巻、および古写本12巻が伝わっていて、国宝に指定されていると同時に、平成25年(2013)にはユネスコの「記憶遺産」に登録された。

 

続いて、道長の側近でもあった藤原行成(ゆきなり)が記した『権記』も、正歴2年(991)から寛弘8年(1011)までのものが残っている。

さらに藤原実資(さねすけ)の日記である『小右記』にいたっては、天元5年(982)から長元5年(1032)までの50年におよぶ記録が伝わっている。

 

道長が史料に初登場するのは、まさに『小右記』の冒頭に近い天元5年の日記である。

五男とはいえ道長は、その当時に正二位右大臣で藤原氏のトップを走っていた公卿の息子だったから、天元3年(980)にはわずか15歳で従五位下に叙爵し、貴族になっていた。

 

しかし、実資は『小右記』に「右大臣(兼家)の子道長」と記している。「光る君へ」の時代考証も務める倉本一宏氏は、「前年に蔵人頭に補されたばかりで二十六歳の気鋭の実資にとっては、十七歳で兼家の五男に過ぎない道長などは、呼び捨ての対象だったのであろう」と記している(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。

 

兄二人との決定的な違い

 

そんな道長が大出世を遂げるのは長徳元年(995)以降だが、その前に、いざとなれば出世しうるだけのお膳立ては整った。

要因は寛和2年(986)、父の兼家が摂政に就任したことだった。

兼家は花山天皇を出家させ、次女の詮子(円融天皇の女御)が生んだ外孫の懐仁親王を一条天皇として即位させると、その摂政になったのだ。

 

それを機に道長も急速に昇進を遂げ、その年のうちに蔵人、少納言、左少将を歴任。

翌永延元年(987)には、左京大夫となって従三位に叙された。

 

三位以上は律令制下における太政官の最高幹部で公卿と呼ばれるが、道長はわずか21歳で公卿に列したのである。

この時点で、5年前に道長を呼び捨てにした実資を抜き去り、永延2年(988)には権中納言に就任している。

 

父が摂政に就任したとき、兄の道隆は35歳、道兼が27歳だった。

現代の感覚でいえば二人とも十分に若いが、当時は平均寿命もかなり短かった。

前出の倉本氏は、こうして道長が若くして出世できた理由について、「兄たちが兼家の雌伏期間中に青年期を過ごしたのに対して、道長は若年で父の全盛期を迎えることができ、末子であることがかえって有利に作用したことになる」と書く(前掲書)。

 

突如、政権が転がり込んできた

 

それでも道長は、権力を握れる立場にいたわけではない。

父の兼家は病気が進行し、正暦元年(990)5月8日、関白の座を長男の道隆に譲って7月2日に死去。

同じ年の正月に道隆は、長女の定子を一条天皇に入内させ、強引に中宮に立てていた。

 

つまり、道長の長兄の道隆は、自分が天皇の外祖父として権力を掌握し続ける体制づくりに余念がなかったのである。

しかも、正暦5年(994)には長男でまだ21歳の伊周(これちか)を、3人の頭越しに内大臣に就け、後継者に定めた。

29歳になっていた道長はまだ権大納言で、甥っ子に追い抜かれてしまった。

 

そこに襲いかかったのは疫病だった。

正暦4年(993)ごろから九州で流行しはじめた疫病は、疱瘡(ほうそう)(天然痘)ではないかといわれる。

 

正暦5年に全国に広がると、平安京では人口の半分が死亡したという。

当時はウイルスの知識がないのはもちろんのこと、治療法もわからないまま、感染症は猖獗(しょうけつ)をきわめた。

 

それでも参議以上の公卿には死者が出なかったが、翌長徳元年(995)になると事情が変化した。

関白の道隆が4月10日に死ぬと、関白職を継いだ弟の右大臣道兼も5月8日に死去。

ほかにも道長の上位にいた人たちは、道隆の長男の伊周を除いてみな亡くなった。

こうして政権の座のほうから、道長のもとに転がり込んできたのである。

 

出世の大きな助けになった姉の存在

 

関白だった兄の道隆と道兼が相次いで死去したのを受け、一条天皇は5月11日、道長を内覧に任じている。

内覧とは文字どおりに、太政官が天皇に上げた文書や天皇が下す文書を事前に内覧する役。さすがに権大納言で大臣でもない道長を、いきなり関白にすることはできず、実質的な仕事内容は関白と変わらない内覧という地位に就任させたようだ。

 

棚からぼた餅だが、道長の出世が危うかった場面もあった。

疫病に冒された道隆は、関白職を長男の伊周に譲りたかったようで、そうなっていれば世代交代が一挙に進み、道長の出る幕はなかったかもしれない。

しかし、一条天皇が道兼を選んだために、道兼の死後に道長にお鉢が回る余地が生まれた。

 

それでも道兼の死後、政権を伊周に担当させる手もあっただろうが、前出の倉本氏は「世代交代を阻止し、同母兄弟間の権力継承を望んだ詮子の意向がはたらいたのであろう」と記し(前掲書)、その理由を概ね次のように説明している。

 

道隆と道兼は詮子よりかなり年上だが、道長は年下で晩婚だったので、詮子は長いあいだ一緒にいて、ほかの兄弟よりも親しみを感じていた。

したがって、道長が政権を握ることができたのは、「藤原詮子の後押しがあったからだとも言われています」(倉本一宏『平安貴族とは何か』NHK出版新書)。

 

次々とライバルが消えていく

 

その結果、内覧になっただけでなく、6月19日には、内大臣の伊周より下位の権大納言から上位の右大臣に出世した。

さらには太政官一上(いちのかみ)と氏長者(うじのちょうじゃ)にもなった。

一上とは太政官のトップで、公卿の会議に出席できない関白と違って、会議を主宰できる。

 

つまり道長は、関白になれなかったばかりに、内覧として天皇の文書を読んで助言し、公卿たちも議論を主導できるという、むしろ都合のいい立場を獲得し、絶大な権力を掌握したのである。

 

おまけに、翌長徳2年(996)には伊周と、道隆の四男の隆家が、長徳の変という事件を経て左遷されている。

要は、花山法皇が伊周、道隆と遭遇した際に乱闘騒ぎになり、花山の従者が殺されたという事件だった。

道長の最大の政敵、伊周はこうして自滅した。

 

しかし、道長はまだ満足しなかった。

自分の娘を天皇の后にし、その妃が生んだ皇子を天皇として即位させて、はじめて権力は盤石になると知っていた。

だから、長女の彰子の入内を急ぎ、長保元年(999)、すでに兄の道隆の娘である定子が妃となっている一条天皇のもとに、数え12歳にすぎない彰子を入内させた。

 

そのことが道長のわが世の春を準備したことはいうまでもない。

道長に政治的嗅覚とセンスがあったのはまちがいないが、それが発揮されるにあたっては、すでに述べたような偶然が、強く作用したのである。

 

香原 斗志(かはら・とし) 

歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。

早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。

日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。

著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。

ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。

関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。 ----------

<記事引用>