90年代から続く未完の日本の民主主義への不信感 長期の自公政権がもたらしたもの

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投票率の低下、不透明な政策決定過程など、民主主義の危機を示す現象が相次ぐ日本。政治学者・宇野重規氏は、90年代以降の長期にわたる自公連立政権を通して国民の政治参加は拡大したのか、政治権力に対する責任追及は強化されたのか、大いに検証されるべきだと語ります。危機の時代の「新しい民主主義」とは? 重版連発の新刊『民主主義とは何か』より特別公開します。

日本の民主主義は未完のプロジェクト

現代日本において、民主主義の未来はあるのでしょうか?
1990年代以降は、日本の政治制度を大きく転換する改革が続きました。
1994年の政治改革四法の成立による選挙制度改革、1998年の中央省庁等改革基本法に基づく内閣機能の強化と省庁再編による行政改革、そして1999年の地方分権一括法制定による地方分権改革が続きました。
もちろん、現状では、この大改革が結実し、日本の民主主義が大きくバージョンアップしたとはいえません。
そこには各領域での改革の間に相互の不整合があり、思わぬ結果を生み出したという側面があるかもしれません。
また、それぞれの改革についても、当事者たちの思惑から、本来の意図やねらいから乖離し、期待された効果を生み出していない可能性もあります。
ここでいえることは、公共的な議論による意思決定としての「政治」と、「参加と責任のシステム」としての民主主義を、いよいよ本格的に作動させる必要があるということです。
いずれにせよ、日本の民主主義を進化させるための政治改革は、いまだに完成することなく、未完のプロジェクトとして残されたままです。

自公連立政権がもたらしたもの

1990年代以降の政治改革により、連立政権の時代が到来したことは間違いありません。
現在までをみる限り、平成における日本の政治は、1993年に成立した非自民・非共産の八党派による細川護煕の連立政権、1994年から98年までの自民党・社会党・新党さきがけの連立政権、および2009年以降の民主党・社民党・国民新党の三党による連立政権を例外とすれば、そのほとんどの期間を自民党と公明党(および、一時期は自由党)による連立政権によって運営されています。
この期間を通じて、はたして国民の政治参加は拡大したのか、政治権力に対する責任追及が強化されたのか、大いに検証されるべきでしょう。

20代の投票率は30%台
現状は楽観を許しません。その顕著な表れは、投票率の低下です。
2015年6月、改正公職選挙法が成立し、選挙権年齢が18歳に引き下げられました。
日本で選挙権が拡大されるのは、完全普通選挙が導入された1945年以来のことですが、背景にあるのは若者の低投票率です。
世代別の投票率をみると、衆議院選挙における20代の投票率は30%台を推移しています。
少子高齢化の進行によって、全有権者における若者の割合が下がっていることに加え、その投票率が低いこともあって、若者の意見が政治的に代表されにくい状況が続いています。
若者と比べれば高齢世代の投票率は高いものの、それでも全体としての投票率は、国政選挙ですら、5割前後にとどまっています。
かつて安定して70%を超えていた時代を思えば、投票率の低下は明白です。

不信感がつのる日本の民主主義
2019年の参議院選挙を前に、特定非営利活動法人である言論NPOが行った世論調査(http://www.genron-npo.net/politics/archives/7292.html)によれば、「日本の代表制民主主義の仕組みを信頼しているか」という問いに対し、「信頼している」と回答した人は(「どちらかといえば信頼している」を含む)、32.5%に過ぎません。
実に3分の1の人しか、自らの選んだ代表による民主主義のあり方を評価していないことになります。
20代と30代はさらに深刻であり、現状の代議制民主主義を「信頼している」という人は、20.2%、14.2%にとどまります。
このような投票率、および代議制民主主義への信頼の低下の背景にあるものは複雑であり、ここで本格的に分析することはできません。
いずれにせよ、戦後日本の民主的政治体制の有効性について、根本的な疑念が拡大していることは間違いないでしょう。
日本の民主主義が危機的状況にあることは明らかです。

新たな民主主義の胎動
その一方、日本の民主主義の歴史を振り返れば、深刻化する社会の諸課題に対し、政治が有効に対応しきれないとき、不満が蓄積すると同時に、新たな民主主義への胎動が加速してきたことがわかります。
既成の代議制民主主義の回路が機能不全を起こすとき、「横議」と「横行」への模索が再び始まるのかもしれません。
人々は勝手に議論を交わし、組織や国境を超えた結集を求めるでしょう。そこに新たな「公論」の可能性を見出したとき、事態が大きく動き始めるはずです。
いまや旧来の価値観が大きく崩れ、それがまだどれだけ微かなものであれ、「不思議な明るさ」がみえ始めているのかもしれません。
その薄明のなかに、新たな民主主義の姿を見定めるべきです。

危機をどう乗り越えるか
この難局をいかに乗り越えていけるかが、今後の最大のテーマになるでしょう。
最終的に問われるのは、私たちの信念ではないでしょうか。厳しい時代においてこそ、人は何を信じるかを問われるのです。
第一に、「公開による透明性」です。
古代ギリシアで成立した「政治」とは、公共の議論を通じて意思決定を行うことへの信念でした。
力による強制でもなければ、利益による誘導でもなく、あくまで言葉を通じて説得し、納得した上で決定に従いたい。
これこそが、自由な人間にとって何より大切であるとする理念を、現代に生きる私たちもまた共にしています。
そのためにも、情報の公開やオープンデータはもちろん、政策決定過程をより透明度の高いものにしていく必要があります。
自分事、として考えること
第二に、「参加を通じての当事者意識」です。
私たちは、自分と関わりのないことには、いくら強制されても力を出せません。
これはまさに自分のなすべき仕事だ、自分たちにとってきわめて大切な事柄だと思えてはじめて、主体的に考え、自ら行動する動機が生じます。
逆に自分に深く関わることに対して無力であり、影響を及ぼすことができないという感覚ほど、人を苛むものはありません。
私たちは身の回りのことから、環境問題など人類全体の問題にまで、生き生きした当事者意識をもちたいと願っています。
民主主義とは、そのためにあるのです。

政治と責任
第三に、「判断に伴う責任」です。
政治においては責任の問題が不可避です。一つひとつの判断が社会や人類の将来に影響を与え、場合によっては多くの人々の暮らしや生死にかかわるだけに、政治的決定には責任が伴います。
といっても、責任を問われるのは、特別なリーダーだけではありません。ごく普通の人々が、自らの可能な範囲で公共の任務に携わり、責任を分わかちもつことが、民主主義にとって重要です。
責任を負担として捉えるのではなく、自分たちにとって大切なものを預かり、担っているという感覚として理解するならば、それはむしろ人間に生きがいと勇気を与えるのではないでしょうか。
個人は相互に自由かつ平等であり、それを可能にする政治・経済・社会の秩序を模索し続けるのが人間の存在理由です。
民主主義をどこまで信じることができるのか、それがいま、問われています。