息子は今から大学で、野球の娘は今短大。
2人とも、高校野球を終えてからも野球を続けています。
息子の大学野球は、次の秋のリーグ戦が最後ということになりますが、彼はまだ、上のステージでやりたいとの気持ちが強く、結果はどうなるのか分かりませんが、そうできるよう、野球に取り組んでいます。
野球の娘もまた、今は短大のチームでやってますが、あわよくば、卒業後もどこかのクラブチームで野球を続けたいとの思いがあるようです。
これは僕にとって、とってもとっても嬉しいことであります。
▼ 僕は野球を嫌いになった
僕は小学生の頃、町内の子供会のソフトボールチームに入っていました。
というか、当時、僕の住んでいた地域では、ほとんどの小学生がそうしていました。
住んでいる町内の子供会のソフトボールチーム。
春から夏にかけて、その町内子供会チーム対抗の大会がいくつも開催されて、学校では
アイツのところに勝った
とか
アイツのところは強い
とか
次は勝つぜ
とか
そんな会話がたくさんされていました。
僕のいた町内のソフトボールチームは、僕の親父が一応、監督、という立場にいて、いろいろと面倒を見てくれていました。
監督というか、子供たちのお世話係みたいなもんですね。
それでも試合となると、オーダー組んだり、サインを出したり、監督さんらしいことはやっていました。
親父はとにかく怒らない人だったので、僕らはソフトボールをとても楽しくやることができました。
そんな親父の率いるチームでしたが、僕らは結構強くて、僕が6年生の時なんかは、2つの大会で優勝、ひとつで準優勝、ベスト4は数回と、開催される大会で、ほとんど上位まで勝ち上がるチームでした。
そんな楽しいソフトボールを卒業すると、中学では軟式野球部に入部です。
これも、その当時の僕の住んでる地域ではお決まりのパターンでした。
僕の通った中学は、市内ではめっぽう強くて、だいたい市内大会は優勝し、その後の地区大会で負けて、県大会には一歩及ばすということを繰り返していました。
顧問の先生もかなり熱心な野球大好きな先生でした。
でしたが、この先生は熱心なあまりというか、もともとそういう先生でして、今では完全にアウトなんだけど、昭和の教師の典型で、ゲンコツは当たり前、怒鳴り付けるは日常茶飯事という先生でした。
野球でも、とにかくエラーすればベンチから怒声を飛ばす。ベンチに戻って来ると鉄拳制裁。
それまで親父の下で、楽しいソフトボールをやってきた僕にとっては、ただただ
恐怖
でしかありませんでした。
あんなに怒られるなら試合なんか出たくないな、とか思っていたのだけど、2年生の秋からの自分たちの世代になると、そうもいかないわけです。
試合に出るようになります。
ミスすれば怒鳴られ、ゲンコツをもらいます。
試合に負ければ罰走。
面白いわけがありません。楽しいわけがありません。
僕は、野球をやることが怖くなっていました。
それでもなんとか3年生の中総体まで続けて引退。
僕らの世代も、これまでの例に漏れず、地区大会の一回戦で負けて、僕の中学野球は終わったのでした。
高校になると、また当然のように、野球部に入部しました。
中学の時、野球をやるのが怖くなっていたのだけど、当時は何も考えることなく、ごくごく自然に、高校でも野球部に入るという意識になっていました。
高校の指導者さんも、怒る人でした。
今思い返してみると、僕は高校時代、野球の技術などに関して、指導を受けたことは、ほとんどない記憶です。
僕が受けた指導で覚えているのは、ゴロを捕る時に「グラブを立てろ」ということと、バッティングの時に「バットを立てて構えろ」ということくらいかな。
なんのこっちゃ?っていう指導内容ですけど。
試合には使ってもらっていたけど、そのぶん、怒られることも多かった記憶です。
雨が降ると嬉しかったし、怪我をすると嬉しかった。
そんな気持ちの野球部員が、上手くなるはずありません。
僕はだんだん、野球が嫌いになっていきました。
▼ とにかく続けて欲しい
僕はそういう野球をやってきました。
とてもイヤでイヤで、野球を離れました。
でも子供には、そういう野球との別れ方をして欲しくないと、僕は思ってきましたし、今もそう思っています。
大人の作用で、簡単に子供を野球を嫌いにできます。
大人は子供にとって、そういう存在です。
僕は、大人に野球を嫌いにさせられてのだと、今でも思っています。
だから我が子には、そうなって欲しくない。
そのために僕は、これまでいろいろ考えて、「我が子と野球」に接しきました。
彼、彼女が、野球から離れる時が来るのならば、それは、自分の意思で、それを決めるのだと。
だから今もまだ、野球を続け、さらに上を目指して行こうとする彼、彼女が、僕はとても嬉しいのです。
以上でーす。