続きもかなり長文なので
お時間のある時にどうぞ
話を戻して、ヨハンが琉を火事から助けた為、琉はヨハンに親しみを感じるが、ヨハンは人を信じられず友達を諦めて生きてきたので、琉を突き放そうとする。一見ぶっきらぼうに見えるヨハンだけど、見ず知らずの少年と琉を助けたのはヨハンの愛。最初に愛を示したのはヨハンです。
しかしボクシングの試合で再会し、友達になり、八百長を辞めると宣言したあと、ヨハンが池?に入水するシーンがあるんだけど、あれはプロテスタントにおける洗礼式(バプテズマ)で、信仰を新たに誓った人が、”良く”生まれ変わる為に入水します。(普通プロテスタントの牧師によってだけど、ヨハンは恐らく同性愛者で、同性愛はキリスト教において罪な為、牧師がいないのかな?)
ヨハンが日本に来て、琉のおじさんの13回忌に出席し、お墓で十字を切るシーンがありますが、十字を切るのはカトリックで、プロテスタントではありません。またキリスト教において(寿命を全うしての)死は神様の元へ帰ることであり、悲しいことではなく、死者を崇めたりする行為も罪なので、クリスチャンがお葬式に参列する場合に焼香を、お墓参りの際に線香を強要しないでください。
ヨハンが除隊後、慕っているバーの先輩が同性愛者である為に、その先輩をかばったヨハンが思わぬ形で同性愛者であると知らしめられてしまい、(先輩はそれを恐れて、ヨハンを守るために、決して手を上げてはいけないと言ったのでしょう。自分が殴られてもヨハンを守ろうとした先輩の献身のアガペー。)韓国はキリスト教率が高い為に、同性愛者が迫害に遭ってしまうようです。
ただこれも、会長が自分が八百長を主導して解任された腹いせに、リークしたのはお前だろうと、自分の罪から目を逸らすどころか、ヨハンに自分の罪をなすりつけ、アウティングという必要以上の制裁を与えてしまいます。人が人を裁くことも罪です。裁いていいのは神様だけです。ネットで人を裁くコメントを書きそうになったら、それがただの断罪ではなく建設的なアドバイスか、指殺人にならないか、気を付けましょう。
琉が見かねてヨハンに日本で一緒に住もうと言いますが、ヨハンが琉にだけはこんな姿を見られたくなかったと。この時琉が、ヨハンが同性愛者であると知ったか知らないかわからないけど(韓国語で落書きされてたから)、多分ヨハンは知られたくなかったし、知らせるつもりもなかったんだと思います。
ヨハンはクリスチャンだから、同性愛が罪だと認識しているから、琉への想いを告白せずに、一生伏せるつもりだったんだと思います。
でも琉が、ヨハンが暴力を振るってしまったのは、(自分の気持ちと先輩を)守りたかったんだろ?と。
琉は経済的に裕福なわけでも、自分の進路が安定しているわけでも、強力なコネがあるわけでも何でもないのに、ましてやクリスチャンでもないのに、ヨハンにおいでと言えるのが、なんか隣人愛を超えたアガペー(血の繋がった家族じゃない人を家族同様に愛する)かと。
琉の勤務先の介護施設で、問題視されている入居者さんが追い出されそうな時、家族の人に他の施設を探してくれと言い、家族はうちでは絶対に見れないと言い張るんですけど、身内とは何か
あんた、そこに愛(ストルゲー・家族愛)はあるんか?
なぜお母さんが迷惑をかけてしまっているか理解しようともせず、本来自分がすべき介護をしてもらっていることに感謝も示さず、それがどれだけ罪深いか認識せず。自分は誰に愛をもらって育ったのか。
(個人的には施設に入れること自体が悪いことだとは思っていません。)
家族に見放されてしまった人は、誰から愛をもらったらいいのか。これはヨハンや澄子にも投影されているけど、彼らは琉や琉の親という隣人からのアガペー(血の繋がった家族じゃない人を家族同様に愛する)から逆に家族愛(ストルゲー)を知ったのでは?
最後ヨハンの証(あかし)にもあるけど、クリスチャン生活はまるでボクシング選手のようで、別にお金がもらえるわけでも無いのに、何のために自分を律して、罪に抗(あらが)うトレーニングを積まなければならないのか。所詮私たちは罪人で、罪に抗(あらが)うことがこんなにもむずかしいのに、何を’良く’生きようとして足掻いているのか。
ヨハンは同性愛者をやめられないなら(そもそも気持ちで辞める辞めないが選べるものじゃないとも思うけど)クリスチャンを辞めてしまう方が”合理的”ですよね。でも自分の信仰や心を守る為に、敢えて茨の道を選ぶ。
悪魔というのは常に悪いタイミングで囁く(誘惑してくる)存在で、それはまるで免疫が弱っている時に風邪を引くように、ヨハンは最初はむしろ自ら望んで妹の学費のために始めた八百長なのに、そうやって正当化している自分の罪に気付いてしまったのでしょう。罪に気づいても、認めて悔い改めるのはまた勇気がいること。
今までの自分は傷つくのが怖くて諦めた人生を送ってきたけど、傷つくって、傷つく前に諦めるよりすごいこと。自分より他人を愛せるってすごいこと。
みんな人生それぞれどん底とか、うれしい時とかあって、どん底の時はなんで私だけって思うけど、他の人にもそれぞれ、その人にとってのどん底が来ることがドラマ中に描かれている。
ちなみに澄子と精一の結婚の証人をした際に、妊娠を告げられますが、婚前交渉も罪です。
出来ればどん底なんて一度も来てほしく無いけど、傷つくって、傷つく前に諦めるよりすごいこと。
澄子が死ぬなら結婚なんてするな、子供なんて作るなと怒りを爆発させますが、じゃぁ精一と出会わない方がよかったか?っていったら違いますよね。
喜びも悲しみも、分かち合え(る人がい)たらもっとうれしい。
でも実際どん底の人に手を差し伸べるって簡単なことでは無いし、それができることが本当のアガペー。
だからヨハンがここで澄子に一緒に住もうと言えるのが、日本に住んでいる外国人で何一つ安定していることなんてないのに、これから子育てという難関が待っているとわかっているのに、血の繋がった家族じゃない人を家族同様に愛するアガペーだなって。
ヨハンは同性愛者だから罪人かもしれないけど、それに抗(あらが)って、琉の幸せを願って、自分の気持ちを伝えずに、一緒に暮らしていても性の欲にも抗って、先に別れを宣言するなんて愛が深すぎる
アガペー過ぎる

ちなみにクリスチャンじゃない配偶者と一緒になることも罪です。
まぁある意味あの別れが、琉への告白といえばそうでもあるけど。でも琉がヨハンを引き留めないのも、愛する人が出来たから守りたいっていうヨハンの気持ちを尊重して、俺は?俺たちを置いていくのか?とか何もぶつけないのがまたアガペーなのか。
もうここは愛のぶつけ合い

ヨハンが、病気のこと琉に言えば絶対に介護するって言ってきかないだろうから、僕が彼に望む幸せはそれじゃないから言わなかったと
今まで何も望まず、期待せず、欲せず生きてきたけど、死ぬ前にもう一度彼の顔が見たい

やっぱりウンジュンとサンヨンは友情を超えた愛だったんじゃないかと・・・
最後に琉がヨハンに先にサランへって言って、ヨハンも琉に愛してるって
ここまで1回も出てこなかった言葉だけど、それまでに数えきれない愛が描かれてましたよね。
なんか’良き’クリスチャンとは何か、隣人愛とは何かを問われているようで深い。
琉の両親もクリスチャンじゃないのに澄子を実子同然に育ててきたアガペーすごいし、それを澄子の子供にまで。ヨハンが来たときも、法事に同席させるなんて家族同然の扱いだし、ヨハンは同性愛者だからクリスチャンとして失格だと断罪するのは簡単だけど、琉や澄子、叶宇への献身とアガペーは模範そのもの。
テギョンすごい演技上手いと思ったんだけど、わざと序盤下手くそにカタコト日本語喋って、だんだん上手にして、外国語で演技するのもそうだけどセリフ感情乗せるのすごくない?ALSの演技も。体重減らすの大変だったって言ってるけど
あんまりテギョンドラマ観て来なかったからすごいびっくりしました
橋爪駿輝監督(脚本も)がすごく若くてびっくりというかこんな深い作品だからもう仙人の域に達してるのかと思った
なにより日本におけるキリスト教信者は1%未満なのに、この脚本が日本人によって書かれたことも誇らしいです