「魂魄の塔」 碑文

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に結集させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たわる有様であった。
 この光景を痛喫した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
 そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長は之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に御夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と第1高等女学校の姫の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒達の名を刻んだ。
 続いて金城御夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族ために生涯を捧げ、正5位勲3等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した戦後直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。

    東京大学名誉教授 宇野精一


黙禱