一つ売れ残っていた百合の球根を小庭の隅に埋めておきました。
どんな種類の百合なのかを覚えていませんが、白い花が咲いてます。

 


芽が出て、伸びる伸びる。
わたくしの身長を超えて、まあチビなので参考にはなりませんが、何処まで伸びる? と時々水や肥料をやっていると、つぼみが三つ。
一つずつ開き始めてます。

 


多分梅雨明けはまだなのでしょうが、お日様燦燦の朝、白くきれいです。

写真が下手で百合の美しさが伝わらない、そんなお叱りは受けない、という一席。

「魂魄の塔」 碑文

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に結集させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たわる有様であった。
 この光景を痛喫した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
 そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長は之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に御夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と第1高等女学校の姫の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒達の名を刻んだ。
 続いて金城御夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族ために生涯を捧げ、正5位勲3等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した戦後直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。

    東京大学名誉教授 宇野精一


黙禱

毎年、茗荷茗荷と連呼している。

 


昨年より背は低いが広く出てきているような気がする。
なんとか今年こそ喰らってやろうと、日々注意深く根元を観察。

ついでに、山椒の写真。

やっぱり縦にならない。

ちなみに左側が上。

 

昨年買ってきた山椒を庭に植替えて半年ほど。
だいぶ伸びてきています。
葉っぱを集めて山椒味噌煮するには少々足りないね。
もっと大きくなってから。

今年もアゲハがやってきて卵を産み、幼虫の餌になるのだろうが、まあそれはそれでいいでしょう。
わたくしが食わぬのだから、揚羽蝶の餌になればそれでよし。

虫が葉を喰い鳥が実を啄めば、我が小庭も何かの役に立っているのでしょう。

だが、茗荷だけはひと様の腹に入れてやろうと今年も企んでいる、という一席。