我が家の小庭に百合が咲いたと日記に書いた。

 


10年程前から好きな花になりました。
それまでは朝顔桔梗トルコキキョウなんて花が好きでしたね。

思い出した百合の話。
多分2013年。お仕事で河南省鄭州市に行った。
用意された宿舎に入ると、電気をつける前に、強い百合の香りに気がつきました。
テーブルの真ん中に百合の花束。

 


百合と言えば、山梔子や藤と並んで香りの強い花。そんなイメージがあります。
5月6月頃でしょうかね、藤棚の下を通ると酔いそうなほどの香りが振ってくる。
スタッフが気を利かせて飾ってくれた百合の香りは部屋を満たしてました。

その後、仕事が終わって部屋に戻ると、不思議なことに一つずつ花が落ちている。
1日一つ散っていく。

もう一つ思い出したこと。
愛知県知多のお寺に行った折、道中田の畦に小さな百合が咲いておりました。

 

 

こんなところに咲く百合は、球根を埋め込んで丹精されたものではなくて、毎年花をつけているんだろうなと思って桜や梅の花を見るのと違った気持ちで眺め写真を撮ってました。

Macの中を探してみたら写真が出てきた。

我が家の百合も一つ一つ花が落ちてます。
放っておくと来年もまた咲くのだろうか、野に咲く百合を見たから、このままでいいのかなと期待だけしている、という一席。

一つ売れ残っていた百合の球根を小庭の隅に埋めておきました。
どんな種類の百合なのかを覚えていませんが、白い花が咲いてます。

 


芽が出て、伸びる伸びる。
わたくしの身長を超えて、まあチビなので参考にはなりませんが、何処まで伸びる? と時々水や肥料をやっていると、つぼみが三つ。
一つずつ開き始めてます。

 


多分梅雨明けはまだなのでしょうが、お日様燦燦の朝、白くきれいです。

写真が下手で百合の美しさが伝わらない、そんなお叱りは受けない、という一席。

「魂魄の塔」 碑文

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に結集させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たわる有様であった。
 この光景を痛喫した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
 そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長は之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に御夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と第1高等女学校の姫の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒達の名を刻んだ。
 続いて金城御夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族ために生涯を捧げ、正5位勲3等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した戦後直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。

    東京大学名誉教授 宇野精一


黙禱