退院直後は、しばらくは疲れやすい体質になっていた

 

まだ十分ヘモグロビンが足りていなかったんだろう

 

前から習っていた施術の勉強にも久しぶりに参加した

 

受講生同士、体を貸しながら練習をする

 

いつもなら、やってもらうと気持ちがいいので体を開け放つところだが、いつもと感覚が違う

 

施術を受けているというより、体をいじくりまわされている感覚だった

 

やめてほしい、体が拒否反応を示している、知っている人だったのにも関わらずだ

 

きっと入院中、次は何をされるか、どうなるのか、と警戒していた後遺症だった

 

身も心もダメージを受けていた、そんな事実にも驚いた

 

しかし、その後はタンザニアでの日本人メンバー達が沖縄でトークイベントをするので来ないかとお誘いをもらい

 

松本空港から福岡、そこから那覇と移動し、一週間ほど向こうで元気に過すことが出来るほど回復した

 

さて今日こそ結論を出そう

 

前回の一応の納得地点では、1と2の生活を3にしていこう、というところだった

 

しかしまだまだ向き合い掘り下げる必要があったのだろう

 

意識でわからないなら体で教えてやろうではないか

 

ということでマラリアは発症したと言っていい

 

 

 

だが何故形而上は「それ」を教えようとしたのか

 

そこには、このシリーズで載せた本で序盤に取り上げている

「単一性と両極性」の関係にある

 

「単一性」とはなにか

 

「相反する二つの極が区別されずに存在する、全てを包含する単一がある。この単一を宇宙と呼び、一切がこの中にあると定義づける」

 

要するに善や悪、コインの表裏、ポジティブとネガティブ、両極が同時に存在している状態だ

 

ここには時間や形などの制約はない、目に見える領域だけだはないからだ、形而上もここに含まれる

 

全てが有って、そして無いところでもある、仏教で言うところの無

 

「前略 けれども単一性は、言葉による描写や思考の分析からするりと逃れてしまう。何故なら、ものごとを認識するにはふたつの極が要るからである。主体と客体、認識するものとされるものなければ認識はできない。」

 

意味が分かりづらいのは仕方がない、二つの極を一つにしようとしても、限りなく近いところまでしか到達しないからである、最終的には認識というものがなくなるからだ

 

「両極性」

 

「ここで体験可能な領域に目を戻してみよう。私たちは両極的な意識を持っているため、世界がふたつの極を持ったものに見える。実際には、両極的なのは世界でなく私たちの意識である。

 

呼吸を例にとってみよう。呼と吸がたえずくり返されて、一定のリズムをつくっているのが呼吸である。リズムとはまさにふたつの極のたえまない入れ替わりであり、あらゆる生命の原型でもある。

 

生命はリズムなので、リズムを壊せば命を壊すことになる。息を呼か(吐か)なければ、吸うことができなくなる。

 

吸気は呼気に依存しており、呼気は吸気に依存している。」

 

ここでルビンの壺が例えに出てくる

 

「ここでいうふたつの極とは、全面vs背面、つまり顔vsトロフィーである。どちらを見るかは、黒を背景にするか、白を背景にするかで決まってくる。トロフィーと横顔というふたつの要素は、絵のなかではひとつなのに、見る人に選択を迫る。トロフィーを見るか、それとも横顔を見るか。ふたつの要素を交互に見ることはできても、同時にしかも平等に見ることはむずかしい。」

 

これが単一と両極だ

 

両極性はお互いに依存しあって単一になっている、左脳と右脳もそうである

 

そしてここから言いたいのが、両極のバランスが取れていない状態は不完全な状態

 

何かが欠けている、つまり体でいえば不健康、病気なんだ

 

単一でいることは健康

 

健康になるためには、欠けたものをなくしたり追いやったりするものではなく、克服し完全な状態に戻すこと、それが本来の治療だ

 

善と悪

 

この両極で世界を認識することが多いはずだ

 

無論自分もそうだった(もしくは、まだそう)

 

今回のケースでいえば、シンプルで昔から営まれている原始的な生活と、一見便利だが複雑な文明生活

 

その二つの間に板挟みにあい、ギャップを感じ、そして偏ったわけだ

 

認めたくはないが、文明は悪だと思ったのかもしれない

 

今思えば文明を更に細分化したところに、悪の要素を感じたと言った方がよい(なので文明という表現は間違っている)

 

一度意識はそれに向き合おうとしたが、ただの無関心に戻ったかもしれない

 

タクシーに乗り、空港に向かい、飛行機に乗って、あの日本に帰る

 

その時だった、、、

 

意識でわからないなら体で教えてやる

 

マラリアは血液の中で、うごめいた

 

一個前のブログに載せていた、感染症と戦争の比喩でいうと、敵が国境を超え攻め入ってきた状態だ

 

寒気に襲われ、眠気、だるさを引き起こした

 

飛行中は熱も出て下痢もした

 

しかし横にもなれない

 

体は病原体と戦うため発熱を生み出す

 

その間、意識は飛行中の飛行機という、最も不自由な環境に身を置かれている状況を目の当たりにしている

 

発熱によって毒素が放散され始めたであろう、体温は一度上がるごとに新陳代謝が二倍になるという

 

だから実は発熱とは健康な証拠なのだ、健康=正常な反応を起こせる体

 

もちろん心身ともに辛いのだが、、、

 

 

成田に着いた時ひとまず落ち着いていた、ここではある意味、意識化においても葛藤を沈静化できていたのかもしれない

 

しかし実家に戻ると熱は再び上がった

 

冷蔵庫に入ったものは食べられない、そんな思いも自然に根付いていた

 

そうタンザニアでは、ほぼ食べるものはその日に獲れたもの

 

冷蔵庫に入れたものは生命力が下がるという話を聞いて、真に受けた

 

他にも湧き上がるものは沢山あった

 

もちろん楽しい思い出がいっぱいだが感覚が過敏になってしまった

 

 

少し話を戻すと善悪だが、良いもの良いもの、と「善」に偏るのは、実は「悪」を追いやってしまう

 

すると支え合っていたバランスが崩れてしまう

 

人間の真の生きる目的とは単一性を目指すことだ、真なる統合といってもいいし

 

単語を変えれば、テーゼ、アンチテーゼときて、ジンテーゼになることだ

 

無論、単一に近づきたいか、そうでないかは個人の自由だ

 

しかし自分を司る形而上は、ここで、このタイミングで向き合わせたのだ

 

「悪」(悪と言わずとも何においても両極の片方という認識で良い)

 

これを超える、克服すること、そこに真の目指すべき道がある

 

具体的に、今回で言うところの文明だったり、先進というものを超えていくために、現実で目に見える形で与えられたものとはなんだったのか

 

それは搬送された入院先

 

東京、新宿の高層病院、窓からは見渡す限りのビル、ビル、ビル

 

そのコンクリートジャングルに閉じ込められ、お湯が飲みたいと言えば、電子レンジでチンして下さいと言われる有様

 

外にだって出れない、大きな窓の外は暖かいのか寒いのかもわからない

 

流行病の影響で面会は無し、別の階にだって行けない

 

人々に与えられた娯楽はテレビ、しかも有料だ

 

そして週に一度のケータリングコンビニ販売、

 

抗がん剤で髪の毛が抜けてしまったであろう女性に対面した

 

全てが矛盾だらけだった、これでもかってぐらい

 

でも、そんなことを感じながらも薬を投与し輸血もして、文明の、先進国の、西洋医療の恩恵をたっぷり受けて復活したのだ

 

治りたかった、もう自分の力だけだはダメだとわかった

 

数日して、もう辛くはなかった、むしろ生まれ変わった気分だった

 

これからも全力で生きていこう、という活力を取り戻した

 

病院食だってたっぷり食べてやった、足りないと言って増量もしてもらった

 

他の入院患者さんとも時折接する機会があった

 

自分の髪の毛に興味を持ってくれて、思い出話もしてくれた

 

みんな良い人たちだ、ここでいう「良い」というのは、人間性を感じるところだ

 

一様に生きる活力がある、コンクリートジャングルでも生き延びる力がある

 

入院を缶詰状態ととって、やりかけていた仕事を済ませ

 

毎日誰かと電話をした、便利な世の中だ、そして自分には仲間が沢山いる、それを実感することが出来た、みんな待っている

 

窓からは遥か先に桜が見える、春の到来だ、見ているだけでも風や香りを感じることが出来る

 

自分の中には全てあるのだ

 

「葛藤に立ち向かうのも健康なのだ」

 

両極を経験しなくては本当の意味でどちらも知ることはできない

 

昔から知っていた、悪いことを経験しといた方が後で役に立つって

 

加害者になることで本当の悪いってことが何なのかも知れるし、悪いことをした人のことを理解出来るってもんだ

 

そしてそれがあって初めて「善」というものを認識できるんだ

 

両極を通らずしてたどり着けるゴールはない

 

失敗と成功もそうだ、失敗なくして完全な成功はない

 

だが行くところはそのどちらかだけ、ではなくどちらも包み込んだ状態だ

 

もちろん、そこで選択は必ず必要になってくる、意識を持ってして選ばないといけない

 

何をするのかではなく、どうやるか、やって進むしかないんだ、やり方を変え、視点を変え

 

滞るのは感染症でいうところの慢性化だ

 

まとめよう

 

両親がイスラエルツアーに出かけた

 

帰国の予定日のすぐ後にタンザニアへの出発を控えていた

 

愛犬の子守と留守番を任された

 

しかし帰国間際に父親はPCRに引っかかってしまう

 

おいおい、と思ったが母だけでも戻ってくるなら良いとしよう

 

だが今度は母が乗り換えのイスタンブールでPCRに引っかかった

 

追い打ちだ、両方とも予定日には帰れないことは決まった

 

やむなく自分の出発日を延長した

 

でもそれよりも母の状況が大変らしい

 

まず熱が出た、ホテルでは英語も通じず、水をくれと言ってもビールを持ってくる始末だ

 

食べ物も口に合わず、ろくに食べられない

 

数日後に母の元に駆けつけた父の体調は平気だが、この状況に参っているようだった

 

しかもスーツケースはまだイスラエル

 

母とは部屋も別だし、彼女のために日本食を調達しに出かける

 

切羽詰まっている、こちらにも、その雰囲気が伝わってくる

 

母は自分がマラリアで入院中に、心配より淡々と自分のやるべきことをやる、できる事をする、あとは運命だと悟った

 

自分もそうだ、こちらからできることは限られている、自分の機嫌をキープして家も綺麗した

 

一週間がたった、やっとPCRの陰性が出たと、もうチケットを取って一刻も帰りたいと、そう連絡してきた

 

陰性は英語でネガティブ、陽性はポジティブという

 

いつもポジティブに生きようと努めてきた、人間誰しもそうだろう

 

でも今回ばかりはネガティブ(陰性)にならないといけない、帰れない

 

だから言った「ネガティブになるのも大事だね」って

 

バランスさ、受け取り方で変わる

 

要するにどっちの極だろうと自分が居心地のいいように過ごせればいいんだ

 

界をなくせばいい、ど真ん中で俯瞰すればいい、それが目指すとこだ