少し時系列を遡ると、僕が高校生の途中から住み始めてた実家は、元々僕の大叔母さんの家で都内のアクセスはとてもいいところだった。

 

大きな通りも近く密集した住宅地にも関わらず、僕の部屋の窓を開ければ家の横は植木屋さんの土地で、ほったらかして大きくなった木々がそびえ立ついい立地だった。

 

ベランダで半裸でねっころがっていても誰にも見られる事もないし、毎朝鳥が鳴き、動植物の棲家になっていて、時折たぬきやなんかも来ていた。

 

しかし僕が一回目のフィリピン渡航中にその家の主がなくなり、木々が切られた。

 

丸裸にされた土地の向こうには反対側の通りと住宅、僕は裸でベランダに寝っ転がれなくなった。鳥も獣も住む場所がなくなり、しばらく沢山のカラスたちが電柱をさまよい、大きめの蛇も道路を移動していたし、事実庭でも大きいのを見かけた。

 

それでもしばらくは切りっぱなしの幹の状態で放ってあったが、2回目のフィリピン渡航中に根っこも掘り起こされ、どうやら家が立ち並ぶと聞いた。

 

すっかり平らになった地面には防草シートが敷かれ、これから建つ家の区画がロープで区切られた。

 

うちの家業はカラーコンサルティングとはた織りで、カラーコンサルティングとは人に生まれ持って備わった似合う色「パーソナルカラー」を診断し、それをもとにはた織りをしてもらうというもの。

 

しかしそれには晴れた日の太陽光が一番必要で、室内の灯りは色が間違って見える事もあるし、人によっては曇りの日なんかは診断が難しい事もある。

 

そしてどうやら隣にはぴったり家が建つらしい。そしたらうちには確実に光が当たらなくなる。

 

そんなのいやだ。そもそも横の自然が無くなったことも受け入れ難いし、あの解放感がなくなるのなんて耐えられないと、当時の僕ら(両親と僕)はそんな被害者体験をしていた。

 

それと並行して僕は祖父母の家で暮らし、そこは実家のある所よりも自然が多かったりして少し氣分を変えていたが、実家に戻るとその事実に直面した。

 

土地を買って空き地にしておいた方がいいんじゃないかと言うアイディアもあった。でもそうこうしているうちに家は建ち始めた。法律では境界線から50cm離れていれば家を建てていいらしく、案の定ベランダから手を伸ばせば触れる距離だった。

 

しかも今の建築は、文字通り大工の魂は必要なく、アジア系の外国人労働者がやってきて、どんどん組み立てるプレハブ、しかも接着剤のような匂いがぷんぷんしてくる。これがシックハウスの原因とも聞くと怖くて窓も開けられない。

 

ついに一階の光は消えた。昼間でも夜のように暗く、とてもじゃないが仕事ができない。

 

とそんなタイミングで世界ではコロナが始まった。

 

僕らはあんまり一般メディアの情報を取り入れる方じゃないが、影響は大きかった。

 

そんな時母は「これからは農業が大切かもしれない」と山梨の農業体験に月に一度通う事になった。

 

そんなタイミングで母方のおじいちゃんが亡くなった。僕が人に暮らしで住んでいた家の主人だ。祖父母は前から老人ホームに入っており、祖母は認知症になっていたが、祖父は頭はしっかりしていた。

 

そして葬儀はその暗くなってしまった実家で静かに家族葬をした。これはコロナもあったし、外で面倒なことをするより家族だけで氣を使わず、良い会となった。旅立ちを祝う会だった。

 

さて葬儀を終えて母は農業研修で山梨の八ヶ岳に一泊二日で出かけた。

 

母は帰ってくるなり、いい家を見つけたから見に行こうと言うのだ。

 

面白そうだ!と思った僕は車を運転し父母と愛犬を乗せ八ヶ岳を目指した。

 

そこには木々の中にドームハウスが建っていた。敷地も広い。

 

連絡をとって内覧もさせてもらい、他にも数軒見に行ったがやはりあのドームだ。ここに住むのは面白い。実家がここだと言うだけでもワクワクする。

 

その後別々に暮らしていた姉も連れて家を見に行き、少し家の中で過ごしたり、庭に折り畳みテーブルを持って行ってお昼を食べたりした。

 

この時僕は海外の美大を受けているところで結果待ちだった。

 

ジャマイカの美大で、情報も少なく、連絡も催促しないと返事が返ってこなかったが、自分の作品をまとめたポートフォリオを送りzoomで面接もした。

 

もし受かったら僕はジャマイカで(あの憧れの土地)で生活。と思うとワクワクした。

 

そして実際受かったのだった。そして母たちもいよいよ山梨に引っ越してもいいなというところ。

 

結局コロナで世界中は脅かされ、渡航なども厳しくなり、国内でも学校や仕事はリモートになったりしていく中で、ジャマイカに行くこと、行ってもリモート(そんな設備が揃っているのだろうか疑問)という話で僕はそちらに行くのをやめ、両親と八ヶ岳に行く事にした。

 

内心東京の祖父母の家で1人で暮らすという選択肢も少し頭にあったが、一人暮らしというのは生活が極端になってしまうのを薄々感じていた。

 

というのも1人だと生活リズムは全て人で決められる分、後々人と合わせづらくなってしまうし、1人というのは考え方も自分の中だけで広がるのみだ。

 

祖父母の家で暮らしていた頃は一日一食か二食の食事。これはある種の健康法で胃を空っぽにする時間があると良いというもので、毎日三食取るのが当たり前と思っていたそれまでの僕を生きやすくしてくれたアイディアだった。

 

実際朝食を抜くと午前中めいいっぱい集中して過ごせるのだ。しかしこのメソッドと少し違うのかもしれない点は、夜の一食で結構いっぱい食べることだ。そしてお腹が一杯になると生き物は寝る。僕も完全に食べないと逆に冴えてしまって寝にくいので、食べて眠くなって寝るのが調子良かった。

 

朝起きる時間は遅くも早くもなく、自然に起きたところで1日を始めた。何にも縛られていないからね。予定がある日は目覚ましをかけて準備をした。

 

八ヶ岳のドームを初めて見に行ったのが春。梅雨に入ると今度は亡くなった祖父を追うように祖母も亡くなった。同じように東京の自宅で葬儀を行った。母はこれでもう東京にいなくてはいけない理由も無く、父もとっくに退職しているし僕も学生でもないのでいつでも引っ越せると。そして夏には越した。

 

まだ東京には家は残し、必要なものだけ持って行った。引っ越し屋も一度使った後は、僕も車を手に入れ、何度も東京を行き来しながら残ったものを整理整頓し、その都度家財を運んだ。そう僕の車は大きなバンだ。なんでも乗る。

 

それから僕の車がある生活も始まった。後ろで寝泊まりもできるし、それ以来家族や友人と様々なところにその車で行った。