記憶のレシピ | じゅんちゃんのぢゃむブログ

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いろいろ・時に 作る旬Jamや料理

毎回 身内にお惣菜を作って届ける役目の私

献立を考える中で ふと昔 昔 親父さんの母さん "ばぁーちゃん"
が作った "おいなりさん"を思い出しました(´∀`)。○。

それは一枚入りとかで売っている 三角お揚げ(田舎の肉厚めな)に 人参、ごぼう、こんにゃく、椎茸、フキやぜんまい、ピンク色のスマキ(外側が優しいピンク色で中は真っ白な直径が10円玉くらいの11cm長さの棒状のかまぼこ屋の練物。高知のスマキです それとセットでSNSで一時期バズったキューリ丸々一本突っ込んで輪切り提供する😁竹輪がソウルフード)のみじん切りが
入った 五目以上の柚子酢の効いた五目寿司を
甘く煮たその三角お揚げに
思いっきりパンパンに詰められていた "巨大なおいなりさん"
でした。

それが1人一個づつなのでしょう 大きなお皿にどーん!と。
周りの大皿には タタキ、茹で玉、なんかの煮物(巨大なおいなりさんのインパクトで記憶には残ってません😓)おそうめん‥といろいろ。

けして京都でいただく様な お上品な一口おいなりさんではありません。

"ばーちゃん""じーちゃん"この私だったので週末は小一の時は既に1人 近くの高校前のバスに乗り 祖父母宅に泊まりに行っておりました。祖父母宅は田舎の停留所前だったので。

バスに5分乗るだけでもかなりの確率で車酔いをしてしまって
着いた頃に😰グッタリ‥それでも毎週行くほどの じーちゃんばーちゃん子でした。


日曜の夜 親父さんと母が車で迎えに来る時に みんなで食卓を囲んでがお約束。そのお約束の夏バージョンに必ず その 巨大なおいなりさん が登場していた様な気がします。

親父さんの実家は その頃、お米農家でしたので朝は早く お昼など片手間に食べられる その巨大なおいなりさん が誕生したのかもしれません。

確かにそれ一個で 茶碗二杯はありそうな五目寿司の量‥

他におかずなんか不要です
私は弟と半分に切って分けて食べていました。他のものは入りませんでした‥

ばーちゃんは 小洒落たものは
作った記憶はありませんが
毎夜 全ての片付けが済んだら
必ず マイペットを垂らしたお湯バケツで床 を ピカピカに拭いていました。

(なので うちの親父さんらは
朝昼晩の3回は掃除機をかけ、
拭き掃除などしたり
また 領収書や取説などの大事なものまで処分する ゴミ一つ無い

今でいうミニマリストだったのか??な 家の中に最低限しか物が無い スッキリした旅館の様な実家なんだな‥と 思います。)



その ばーちゃんが作っていた
"巨大おいなりさん"を今年のお盆にウケ狙いで作ってみようかなぁ〜と。

一方、母上の方のおばあちゃんは 桂浜のレストラン(昔は広い食堂)で料理を作っていた人。
娘夫婦が営んでいた仕出し屋で皿鉢もお盆と年末には手伝っていました。

ですから 肉が食べられなかった
母上は幼少期には "工夫して
魚をすり潰し豆腐と作った
魚のハンバーグとかも食べてた"というくらい 料理方法には 困らない 祖母でした。

父方の ばーちゃんは甘い甘い人
母方のばーちゃんは 礼節や躾に厳しい人でしたが人生の先輩でもあり いろんな悩み相談ができました。(大正元年生まれで、戦争で夫を亡くし、戦後は子ども達を女手一つで3人を育てた 生粋のハチキン。上3人とはぐっと歳が離れてて、、上3人が社会人になり再婚で生まれた一番下が母上でした)


子どもって甘い方へ懐きますよね(笑)もれなく私もそうでした 小3までは。小4から地域のスポーツクラブ(ミニバスケ)を始めたので 行かなくなりましたが 逆に父方の ばーちゃん達から うちの母が私をよこさないのでは となったくらい 申し訳なかったです😓そうとは知らずバスケ三昧だったんで‥


そんな 祖母たちの作ってくれた
それぞれの手料理を思い出す時

ばーちゃんの味は比較的、再現しやすいのですが
料理人だった祖母の方は調味料も白醤油だとか いろいろあり
なかなか再現するのはハードル高しで‥酢物や汁物、茶碗蒸しはマスターしましたが‥鯖の姿寿司や田舎寿司(握り寿司の上が椎茸やみょうが、筍寿司、こんにゃく寿司等の郷土料理)
は まだまだです。継承してなく無理なので 鯖のバッテラ寿司に
落ちついています😅

昨年 郷土料理のレシピの載っている高知の本を購入しました。


やっぱりまだまだ。私は
"巨大おいなりさん"で許してもらおうと思うに至りました😅


私が年末造る おせち代わりの
皿鉢は今どき 完全に私のレシピで我流です。