James Setouchi 

2026.12.20 用 読書会資料

 

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』新潮文庫 村上春樹・訳

Truman Capote “Breakfast at Tiffany’s ”  アメリカ文学

 

1 トルーマン・カポーティ 1924~1984年

 本名トルーマン・ストレクファス・パーソンズ。ニューオーリンズ生まれ。幼くして両親が離婚。カポーティは養父の名前。高校卒業後自活し、様々な職業を経験、21歳の時短編『ミリアム』でオー・ヘンリー賞受賞。『遠い声、遠い部屋』(1948)が絶賛される。戯曲や映画のシナリオも書いた。『ティファニーで朝食を』(1958)はオードリー・ヘップバーン主演の映画となり大ヒットした(1)。『冷血』(1966)は実在の事件に材を取り、詳しく調査したのちノンフィクション・ノベルとして提示したもの。これもベストセラーとなり映画化された。また「ニュー・ジャーナリズム」流行の先駆けとなった。他に『叶えられた祈り』など。1957年には来日し三島由紀夫とも会った。晩年はアルコール中毒に苦しんだ。(集英社世界文学事典の宮本陽吉の解説を参考にした。)(この集英社世界文学事典は私どものような初心者には有益である。(高価だが)一冊常備しておくといいかもしれない。各図書館にはあるとは思うが・・)           (1:『ティファニーで朝食を』は映画と原作では随分違う。

 

2 『ティファニーで朝食を』村上春樹・訳 新潮文庫2008年

 同名の新潮文庫にはいくつかの中編・短編が入っている。その中の中編『ティファニーに朝食を』。「訳者あとがき」も有益。同名の映画(1961年公開)は有名で、主役のホリーをオードリー・ヘプバーンがつとめた。村上春樹は「トルーマン・カポーティはヘップバーンが映画に主演すると聞いて、少なからず不快感を表したと伝えられている。おそらくホリーの持っている型破りの奔放さや、性的開放性、潔いいかがわしさみたいなところが、この女優には本来備わっていないと思ったのだろう。」と記す。ではどんな女優ならホリーにふさわしいか、読者は考えて欲しいと村上春樹は述べている。私自身読みながらどうしてもヘップバーンの姿がちらついてしまった。意識的にヘップバーンじゃないんだぞと自分に言い聞かせがら読むことになる。語り手の「僕」の方も、映画のジョージ・ペパードのようなハンサムではなく、ホリーは「少年の面影を残した田舎出身の、センシティブなーそしていくぶん屈託のあるー青年の中に、中性的な要素や、落ち着きどころのない孤立性を認めるからこそ、それなりに心を許した友人となるのであって、・・」と記しており、なるほどと思った。

 1943年ころのニューヨークが舞台。当時は第1次大戦中でその記述が少し出てくるが、日本で1943年というと戦争で大変な時代なので、同じ時期にアメリカではこんなことをやっていたのかと思うと改めてアメリカと日本の違いを思い知らされる。語り手「僕」はまた駆け出しの若手作家の卵。ホリーという不思議な女性と出会い、一連の騒動が起きる。ホリーがいなくなって、「僕」もNYを去り、随分歳月が経った。あるとき昔の知人と会い、ホリーがアフリカで生きているらしいという未確認情報を伝えられる。そこから、ホリーがいた昔の日々を回想して語り起こしていく、という設定になっている。本書の出版は1958年なので、「僕」の語りの現在が1958年頃とすれば、1943年から15年経過したということになる。

 

(登場人物)1943年頃の時点での状況(なるべくネタバレしないように)

僕:語り手。作家志望の若者。狭い町の窮屈な暮らしから抜け出し(117頁)NYのイーストサイドの72丁目のブラウンストーンのアパートに住む。ホリーは「僕」のことを「フレッド」と呼ぶ。古川文望「ホリー・ゴライトリーと鳥籠」(Zephyr 32 41-55, 2020-06-10京都大学大学院英文学研究会)では、「僕」は同性愛者との考察がある。すると、窮屈な世界から飛び出したかったのは、ホリーだけでなく、語り手自身でもあったのではないか?との思索が生まれてくる。→(4)「その他」の第2点も参照。

ジョー・ベル:NYのレキシントン街でバーを経営している。「僕」とホリーの共通の知人。気むずかしく小柄な67歳。(その後のホリーの消息を「僕」に伝える。)

ホリー・ゴライトリー:「僕」のアパートのすぐ下の階に住む若い女。20歳くらい。謎が多い。田舎出身で14才で家出してハリウッドにもいたようだ。男出入りが激しい。片付けが出来ない。猫を飼っている。木曜ごとに刑務所に出かけサリー・トマトという老人と面会している。「僕」のことを兄フレッドのようだとして、「フレッド」と呼ぶ。

I・Y・ユニオシ氏:アパートの最上階に住む写真家。カリフォルニア出身の日系人。ホリーがいつも夜中に鍵を借りに行くので怒っている。(のちに1956年にアフリカのトコクルに行き、ホリーの消息をジョー・ベルに伝えることになる。)本文では「ジャップ」と差別的に呼ばれている。

マダム・サファイア・スパネッラ:コロラトゥーラ歌手。アパートの住人。ホリーの家がうるさいと苦情を言う。(スパネッラはその後もこのアパートに住み続ける。)

シド・アーバッグ:ホリーを追ってきた男。ホリーに振られる男の一人。

フレッド:ホリーの話に出てくる、ホリーの兄。軍隊にいるらしい。

サリー・トマト:刑務所にいる老人。木曜ごとにホリーはそこを訪れ天気予報の伝言をする。

オショーネショー:サリー・トマトの弁護士と思われる紳士。

ホリーにお金を送ってくれる。

O・J・バーマン:ハリウッドの俳優エージェント。ホリーを見出し女優に育てようとするが逃げ出される。

ベニー・ポーラン:芸能界の(?)大物。ホリーと結婚したがったが振られた。

ラスティー・トローラー(ラザフォード):億万長者。何度も離婚歴がある。ホリーと交際しているが・・

マグ・ワイルドウッド:身長の高い女性。南部出身。ホリーと同居する。ブラジルの名門のホセと交際している。

ホセ・イバラ=イェーガー:ハンサムなブラジル人。母はドイツ人。政府関係の仕事をしているようだ。マグと交際していたが・・

シルドレッド・グロスマン:「僕」の学校時代のガリ勉の女の子。

 

(以下、ネタバレを含む)

NYに場違いな五十代の男ドク・ゴライトリー。テキサスのチューリップの馬医者で百姓。実はホリーの夫。フレッドとホリーが乞食同然だったのを引き取り、妻にして甘やかした。先妻との間に息子、娘がある。逃げ出したホリーを5年間探し続けてNYに来た。ホリーの本名はルラメー・バーンズだと「僕」に明かす。

マッケンドリック一家:不明。「僕」が幼い頃恋心を抱いた、とある。(118頁)

ドクター・ゴールドマン:ホセが伴ってきた医師。

ハニー・タッカー:不明。ホリーが話題にするふしだらな女。女優か。

ローズ・エレン・ウォード:同上。

ベニー・シャクレット:ラジオの脚本書き。ホリーがかつて交際したか。(33頁、128頁、154頁)

太った婦人警官:ホリーを殴って連行する。

クェインタンス・スミス:ホリーの出た部屋に入居した青年。騒々しく、目の周りにあざをこしらえる。

 

(コメント)完全ネタバレ

(1)時間軸に沿って並べ直そう

①    謎の女性ホリーは、もと夫のドク・ゴライトリー氏(テキサスの馬医者)の出現で、その正体が明らかになる。不幸な家庭の出身で、言わば路上生活者だったのを、兄のフレッドと共にゴライトリー氏に引き取られる。ゴライトリー氏には息子も娘もあったが14歳のホリーを妻にする。だが、ホリーはまもなく失踪する。その後についてはハリウッドのO・J・バーマン氏の説明がある。田舎娘だったが独特のものがあったので女優の卵として育てた。これから、と言うときにホリーは逃げ出した。こうしてホリーは、NYで、男たちを手玉にとっては貢がせる生活をする女として、「僕」の前に現われる。ホリーは大富豪のラスティ・トローラーをも手玉に取る。木曜だけは刑務所のサリー・トマト老人に会いに行く。

②ホリーはマグという同居人を見つける。マグはホセというハンサムなブラジル人の外交官(?)(名門らしい)と交際している。だが、気がつくと、ホリーがホセと交際し、マグは大富豪ラスティと結婚していた。そのころホリーの兄フレッドの戦死の報告が入り、ホリーは哀しみに沈む。

③ホリーはホセと結婚してブラジルに行く準備を進めるが、サリー・トマト老人が実はマフィアの親Bンだったことが発覚し、ホリーも逮捕される。同時にホリーはホセの子を流産。ホセはホリーとの破談を伝えブラジルに帰国する。ホリーは破れかぶれとなり、それでもブラジルに行こうとする。飼っていた名無しのネコを捨て、もう一度探そうとするが見つけられず、「私は怖くてしかたないのよ。ついにこんなことになってしまった。いつまでたっても同じことの繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ。・・」ホリーは

そう言いながらタクシーに乗り、空港へ向かった。以上が1943年~44年頃に起きたことだ。

④その後は、1945年春にはブラジルからアルゼンチンに移動し金持ちの愛人になったようだ。「僕」は短篇が二つ売れた。ラスティとマグの夫妻は離婚がらみで訴訟。ネコは発見できた。・・それから数年。ホリーはアフリカを二人の男と訪れ、現地の木彫り師のモデルになったようだ。1956年のクリスマスにアフリカを訪れた日系人ユニオシ氏がその木彫りを見つけ、木彫りの顔がホリーそっくりだったので、話を聞き、写真を撮って、NYのジョー・ベルに見せた。ジョー・ベルが「僕」に知らせた。「僕」は今となっては随分昔となったホリーとの日々を思い出してここに記した。

 

(2)少し注釈を

ティファニー:高級宝石店。朝食屋さんではない。ティファニーのような上品で優雅な場所でゆったりと朝食を食べてみたい、というのはわかりますか? ホリーは貧しい田舎の出身で、セレブな世界に憧れたのだろう。映画でティファニー宝石店のウインドウを見ながら屋外で軽食をかじるシーンがあるが、本文にあったかしら?

・イーストサイド72丁目:「僕」のアパートのあるところ。セントラルパークの東。高級住宅街とされているが・・? 「僕」は実は金持ちの一族かもしれない。

・レキシントン・アヴェニュー:ジョー・ベルのバーのあるところ。映画『七年目の浮気』(1955年)でマリリン・モンローのスカートが浮き上がるシーンは、レキシントン街と51丁目の角で撮影しようとしたそうだ。(wiki)カポーティがそれを踏まえてこう書いたかどうかは知らない。

・戦争:第2次大戦。日米戦争も含む。「僕」は失職すると兵隊に取られそうだ。日系人のユニオシ氏は日米の挟間で大丈夫だったのだろうか?

アフリカの東アングリアのトコクル:不明。実在しない地名ではなかろうか。そこにホリーがいた痕跡があった。(なお、本作執筆前の1955年にはアジア・アフリカ会議(バンドン会議)がありアジア・アフリカの独立が加速していった。ユニオシ氏のアフリカ旅行は1956年12月。)

・黒人:ホセにも黒人落ちが混じっている。(127頁)ホセと旅をしたハバナのガイドは黒人の血が多い。(97頁)アフリカでは木彫師の黒人と寝床を共にする。(916頁)ホリーには黒人への偏見、差別はない。「ホリーの交際相手に黒人が多いことも,南部時代への反発と捉えることができる」と利根川真紀は言う。(「Capote のBreakfast at Tiffany’s における南部表象 : 映画を補助線として」。法政大学言語・文化センター『Journal for Research in Languages and Cultures / 言語と文化』2021,1,29)他方NYでは黒人の子供たちが「僕」の馬の尻をつつき(136頁)、馬が暴走し、それを止めようとしたホリーは流産してしまう。アメリカにおける黒人差別の難しいところを書き込んでいるとも言える。

・トゥエンティ・ワン:NYの高級レストラン。「僕」は一度親戚に連れられてそこに行った。

・『オクラホマ!』:1943年のブロードウェイのミュージカル。ホリーのお気に入り。

・シムノン:ジョージ・シムノン。推理小説作家。

・ピーナッツ・バター:軍隊が糧食として使ったので本土では足りなかったのだろう。

・ローン・レンジャー:有名な西部劇。ラジオドラマ。

・シンシン刑務所:NY州に実在する。NY市の北48キロメートル。

・デヴィッド・O・セルズニック:実在する映画プロデューサー。

・ファーザー・ディヴァイン:1876~1965。アフリカ系アメリカ人の説教師。国際平和ミッション運動の設立者。当時非常に人気があった。

いやったらしいアカ:ホリーが自己嫌悪に陥るときに感じる色。(65頁、115頁など)その意味はよくわからないが・・宮原千里「Breakfast at Tiffany’s―ホリー・ゴライトリーの色」(神奈川大学人文学会『PLUSi』13号、2017年3月15日)に考察がある。

・『嵐が丘』:イギリスのエミリー・ブロンテの有名な小説。ホリーは映画しか見ていなかったので「僕」との喧嘩のきっかけになる。ホリーは教養がないがプライドは高い。

・テキサスのチューリップ:ドク・ゴライトリーの住む土地。チューリップという地名があるかどうか知らない。

カラス:テキサス時代にドク・ゴライトリーが飼っていたカラス。ホリーが失踪した後、「ルラメー、ルラメー」(ルラメーはホリーの本名)と叫んだ。・・村上春樹『海辺のカフカ』にカフカ少年の分身のような「カラスと呼ばれる少年」が出てくる。村上はカポーティからヒントを得たのかもしれない。

ブラジル:ポルトガルの植民地だったが当時はすでに独立し、アメリカ資本が入っている。ヴァルガス大統領の独裁時代。第2次大戦では連合国側で参戦した。(なお変遷を経てヴァルガスは保守派に追い詰められて1954年に自死、本書執筆当時はクビシェッキ政権で新首都ブラジリア建設、外資導入などを行った。)(「世界史の窓」ほかから)

・リンガフォン:語学学習教材。ホリーはリンガフォンでポルトガル語をマスターしようと努力している。ホリーは一面努力家でもある。

・ジャーナル・アメリカン、デイリー・ニュース、デイリー・ミラー:アメリカの新聞。後二者はタブロイド紙。実在する。(wiki)

・スパニッシュ・ハーレム:NYのマンハッタンの北東部にありヒスパニックが多く住むハーレム。高級住宅街のアッパー・イースト・サイドに隣接。

ネコ:ホリーはネコを飼うが名前をつけない。支配被支配ではなく自由独立対等な関係でいたいからだ。ブラジルに旅立つ日、ネコを逃がすが、ホリーは後悔する(167頁)。あとで「僕」はネコが金持ちに飼われて幸福に暮らしているのを見る。同じようにホリーも幸福でいてほしいと祈る(170頁)。・・村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』でも、妻とネコの失踪がパラレルに描かれる。村上はカポーティからヒントを得たのかもしれない。)

アルゼンチン:第2次大戦では親枢軸国派と親連合国派が対立、1943~44年頃は政変が続いた。ペロン大佐が政権を握り労働者の権利を認める改革を行った。1945年3月にドイツと日本に宣戦布告。(本書執筆当時は、1955年にペロン政権がクーデターで倒れ暴力と混乱の時代になった。)(「世界史の窓」ほかから。)ホリーに1945年春に「ブラジルはぞっとするようなところだったけど、ブエノスアイレスは最高」と言わせた作者の意図は何だろうか?

 

(3)自由と束縛

 ホリーは束縛が嫌いだ。鳥かごを見ると小鳥の束縛を連想していやになるほどだ。

ホリーは幼少時貧しく放浪し(1930年代後半と思われる。スタインベック『怒りの葡萄』に描かれた時代だ)、ドク・ゴライトリー氏に引き取られるが逃げだし、ハリウッドでバーマン氏の世話になるがまた逃げ出す。ホリーは一つところに定住して暮らすことのない、漂泊の自由人だ

反面それは寂しく不安な生活でもあるので、ホセとブラジルで結婚生活を始めようとするが、今度は全てを失う。

このような、自由の反面不安定で寂しい暮らしをどう考えるか? あなたは同様にしたいと思うか?  

若くて魅力的で金持ちの男を手玉に取る能力があるからできることで、妊娠すれば、また年を取れば、たちまちそんな生活は不可能になる、とは常識的に判断できる。

男性遍歴が盛んで有名な女性に宇野千代(あの梶井基次郎をも手玉に取った)と瀬戸内寂聴(最後は出家した)がある。小野小町はどうだったか? 虚構では西鶴『好色一代女』など。どう考えるか? 女性遍歴が盛んで有名な男は、光源氏好色一代男=世之介カサノヴァドン・フアン。実在する男性では、・・実に沢山いて、枚挙にいとまがないほどだ。(まじめで浮気をしない男性や女性もいます。念のため。)

異性遍歴を度外視しても、尾崎豊の歌う主人公は大人の社会の作る束縛がいやで犯行ばかりし15歳の夜にバイクを盗んで走り出したそうだが、是か非か?(犯罪です。この意味では非に決まっているが。)走り出した後にどのような暮らしが待っているのだろうか? 勝海舟の父親の勝小吉は下町の貧乏な御家人だが若い頃に家出をして旅の途中崖から落ちて死にかかったという。その後帰ってきてしがない御家人暮らしに甘んじたが、地元の言わば顔役だったとか。(勝小吉『夢酔独言』、子母沢寛『父子鷹』など。前者は自伝、後者は小説。)坂口安吾も新潟の有力者の家に生まれエリート中学に行くがわざわざドロップ・アウトしてみせた。家庭の安定に縛られたくない、とあちこちで書いている。是か非か。太宰治も実家が地元のだったのがいやだった。宮沢賢治は父親と対立し家出して文京区菊坂(かつて樋口一葉も住んだあたり)で住み込みのバイト生活をしたが妹の看病のために帰郷。家郷を出て自分の理想なり欲求なりの実現を目指して頑張る、しかし完全に人間は自由ではあり得ない、どこかで大人の世界(ルール)と妥協するしかない、その上で力量があれば少しでも社会を改善できる、そういうことか?

 

(4)その他

・どうして1950年代後半の現在から1943~45年頃の過去を回想する形にしたのだろうか? 「僕」にとって過去を回想することはどういう意味があるのだろうか?(村上春樹の『ノルウェイの森』も現在から過去を回想するスタイル。漱石の『こころ』も現在を語り、過去に遡る。『こころ』の場合、語り手(若い「私」)は過去を再確認することで新しい時代を生きようとしている。

・「出版当時、賛否両論だった作品の政治性をいち早く見抜き、評価したのはイーハブ・H・ハッサン(Ihab H. Hassan)である。ハッサンは、冷戦下の体制順応の時代にあって、「飼いならされることがないゆえに安住の地を見出せない自由への愛("wild and homeless love of freedom")」を具現する新しいヒロインとして小説の主人公ホリー・ゴーライトリーの登場を歓迎している。」村山瑞穂「『ティファニーで朝食を』の映画化にみる冷戦期アメリカの文化イデオロギー : 日系アメリカ人I・Y・ユニオシの改変を中心に」(『愛知県立大学外国語学部紀要  言語・文学編』 愛知県立大学外国語学部 編 (39) 2007

)という指摘があり、示唆的だ。

・利根川真紀は「Capote のBreakfast at Tiffany’s における南部表象 : 映画を補助線として」(法政大学言語・文化センター『Journal for Research in Languages and Cultures / 言語と文化』2021,1,29)で次のように言う。「Tison Pughによれば,コード化されて描かれているゲイ男性として,語り手やバーテンダーのJoeBellだけでなく,ホリーのアパートの次の入居者Quaintance Smithがいる(Pugh,“Holly”94-96; Pugh“Capote’s Breakfast”52-53)。 こ の 他,“play house with a nice fatherly truck driver”(Capote 42)とホリーから勧められる Rusty Trawler も この中に加えてもよいだろう(Fahy 105-06)。もともと「ティファニーで朝食を」というフレーズ自体に,ジェンダー観やセクシュアリティの規範からの自由への希求が込められていることにも注目しておきたい。Gerald Clarke が紹介しているエピソードによると,第二次大戦中にニューヨークでゲイの男性同士が満ち足りた朝を迎えた時に,どこでも朝食を食べたい場所を挙げるように言われて,地方出身の男性が答えたのが,Let’s have breakfast at Tiffany’s(Clarke 314)だったという。」・・なるほど。

・一度出てくるだけで二度目の登場のない固有名詞が何人か出てくる。なぜ彼や彼女の名前は必要なのだろうか? カポーティは知り合いの名前をもじって遊んでいるのだろうか?

・村上春樹の訳で、村上春樹の世界になっているような気がした。またNYの都会的な雰囲気が好きな人には嬉しい小説だろう。だが、アメリカには南部もあれば中央部もあれば西海岸もある。アメリカには大都会もあるが田舎もあれば無人の地もある。本作でNYに集う人びとも南部出身や西海岸出身だったりする。

・村上春樹によれば、カポーティは1948年の『遠い声、遠い部屋』で有名になった。1958年の『ティファニーで朝食を』では新しい文体を創出した。その後書くべき内容に苦しみ1965年の『冷血』でノンフィクション・ノヴェルという新境地を開いた。

 

 

参考1

 『誕生日の子どもたち』村上春樹・訳 文春文庫2009年

 短編集。『おじいさんの思い出』(早くに書いていたと思われるが死後に「発見」され出版された)『無頭の鷹』(1946)『誕生日の子どもたち』(1949)『クリスマスの思い出』(1956)『感謝祭の客』(1967)『あるクリスマス』(1982)(年代は巻末の村上春樹の解説による。)

 いくつか触れてみる。(ネタバレあり)

 

(1)『無頭の鷹』The Headless Hawk(1946)

 一読してよくわからなかった。各種解説などで少しわかったかもしれない程度。DJという女性はどこか病院などを抜け出してきたのだろう。デストロネリという男を恐れており、周囲の男がデストロネリに見えてしまう。彼女の描く絵の鷹と女には頭がない。ヴィンセントはNYの画廊に勤める男だが、DJとの出会いにより自分が封印してきた過去を直視せざるを得ない。ヴィンセントは何人もの友人や恋人と出会いながら、結局は彼らを切り捨てながら生きてきたのだ。それは自己自身切り捨てることでもあった。ヴィンセントはこの事実を想起するのがいやで、DJの絵を切り刻みDJを追い出す。だが、出ていったはずのDJがヴィンセントに対しストーカーのようにつけ回す・・・ヴィンセントは自分の内面にある歪みを忘れ去ることができない・・

 この話は村上春樹が高校時代に読んで夢中になったそうだ。私にはそうでもなかった。村上春樹は上田秋成が好きだと言う。『騎士団長殺し』などでもわかるように、ホラーが好きなのだろう。この話は一種のホラーなのだろう。

 

 

(2)『誕生日の子どもたち』Children on Their Birthdays(1949)

 これは面白い。ミス・ボビットという少女が実に面白い。学校など行かず、大人顔負けの賢い言動をする。プリーチャーという少年はビリー・ボブをいじめ、相手の目に土を塗り込む、悪い奴だ。最後はミス・ボビットは悲劇的な死を遂げる。ミス・ボビットは生育歴で苦しみ、彼女の頭の中にある場所(そこでは「何もかもが美しくて、たとえば誕生日の子どもたちのようなところ」)に彼女の真の居場所があるが、そこから現実につなげてうまく生きていくことができる。彼女は悪魔とも契約したと自称する。彼女の表に現われた言動は巧みで面白いが、その奥には大変な悲しみがあったに違いない。

 

(3)『感謝祭の客』The Thanksgiving Visitor(1967)

 これも面白い。幼いボビーは小学2年生でアラバマ州の田舎に年上のいとこたちと住んでいる。その一人スック(60代)がボビーの親友だ。同学年だが12歳のオッドがボビーをひどくいじめる。感謝祭の日、スックがあえてオッドをパーティに招待し、事件が起きる・・(ここではあえて書かない。)

 オッドはなぜボビーをいじめるのか。オッドには家庭的な苦しみがあった。子どもの世界は決して無垢ではない。いじめもある。だがいじめっ子のオッドもまた家庭のことで傷ついていたのだ。スックの叡智で事態が動く。しかしやがてオッドはこの土地を去り、ボビーは寄宿舎へ、スックもなくなる。ボビーがスックと過ごした幼い日々は尊い美しい日々だった。

 カポーティの自伝的な作品には同じようなシチュエーション、同じようなキャラクターが出てくる。実在のモデルがあるのだろう。

 

(補足)

 1946年発表、とはどういうことか。日本は戦争をして焼け野原になった時期だ。カポーティは家庭的には苦労したが、戦争ではどうだったのか。サリンジャー(1919生まれ)は戦争で苦しんだ。カポーティ(1924生まれ)はどうなのか。

 

 

 

参考2

 『遠い声 遠い部屋』河野一郎・訳 新潮文庫2014年

 カポーティの処女長編。1948年刊行。カポーティはこれを22歳で書いている。芥川『羅生門』や大江『芽むしり仔撃ち』も22~23歳頃の作品なので、カポーティも早熟の天才と言うべきか。河野一郎によれば、「無類の美しさ」「無類の知性」と絶賛する声と、「アル中的作品」「支離滅裂」と批判する声とがあった。

 (ややネタバレ)

ジョエル12歳は母親が死に、生き別れていた父親を訪ねてニュー・オーリンズから一人旅をする。見知らぬ場所、見知らぬ大人たち。辿り着いた場所はスカイリズ・ランディングは、田舎で、謎の場所だった。ミス・エイミイという中年の叔母さん以外に謎の婦人がいる。エイミイのいとこのランドルフさんも不思議な人物だ。ジョエルが父親のことを訪ねると皆言葉を濁す。父親は本当にいるのだろうか、それとも・・・? ジョエルは不安になる。

 同じ家にズーという黒人の少女とその父親だという超高齢のジーザス・フィーヴァーが住んでいる。ジョエルはズーと姉妹のように仲良くなる。近所に白人の双子の姉妹、フローラベルアイダベルがいる。フローラベルは南部の上流階級の婦人のような話し方をする。アイダベルは赤毛で男の子のようにきかん気で周囲から問題児だとみなされている。ジョエルはアイダベルと仲良くなる。森の奥には謎の廃墟、クラウド・ホテルがある。そこには恐ろしい言い伝えがあり、謎の隠者リトル・サンシャインが住んでいる。幼いジョエルにとって世界は謎に満ちている。ジョエルは空想の世界に逃げ込む。そして・・

(本格ネタバレ)

 ジョエルの父親はいるにはいたが、昔ランドルフさんたちが若気の至りで犯した過ちで重い病の床にあった。ランドルフさんは女装癖があり同性愛者だった。老人のジーザス・フィーヴァーが亡くなりズーは北部へと旅立つが、悪い大人たちの暴力によって傷つけられて帰ってくる。アイダベルとジョエルは二人で家出しようとするがジョエルが病に倒れている間にアイダベルと引き裂かれる。ジョエルは高熱の中で妄想を見る。ジョエルはランドルフさんと森の奥のクラウド・ホテルへとリトル・サンシャインを訪れる。ジョエルは自分は一体誰なのか? という問いに始まり、「ぼくはぼくなのさ」という自覚に至る。完璧な父親を求めても得られない。大人たちもそれぞれに傷ついている。それでも何とか生きている。外界の暴力に脅えていたばかりの幼いジョエルが、自分や他人の弱さを引き受けて立ち上がる、大人への第一歩がここにある。ジョエルは他の人に(例えば昔いじめたいとこのルイーズに)優しくしてやろう、と決意する

(コメント)

(1)

 幼いジョエルが子ども時代と決別し大人になる瞬間を書いた作品、と言われるが、大人になってもそこが暴力的な世界であることに変わりはない。それでもジョエルは立ち上がり、人生を引き受ける。子どもの無垢にこだわるのは、例えば大江健三郎がそうだ。大江は自身無垢の世界を有しつつ、大人として成熟し、他者を生かす存在となった。

 子どもは無垢で美しいか? については議論がある。「子ども」「童心」を発見したのは近代のある時期だという。西欧ではルソー『エミール』がある。日本では鈴木三重吉の『赤い鳥』がある。子どもにもいじめがある、とはリアルな現実だが、これも、大人の世界の歪みの反映だとも言える。人性は本来悪であるから人為的に礼楽を学ぶべきだ、と荀子は言った。人性は本来善だからあなたも頑張れ、と孟子・朱子・王陽明らは言う。但し学問は要らない、と言い始めると独善に陥る。ある種の神道は、人間は本来「清く明らけく直き心」を有しているとするが、ここでも他者理解(学問)を欠いた自己肯定は独善に陥る。キリスト教は傲慢を戒める。仏教で「本来仏性を持つ」と言えば励みになるが「だから修業は要らない」と独善に陥ることもある。他力浄土門は罪の自覚から出発する。

子どもは無垢で美しい、と声高に言いたくなるのは、子どもを傷つける大人の世界が残酷だからではなかろうか。作者・カポーティは、繊細な感受性を持ち人一倍傷つきながら過ごしてきたのではなかろうか。

(2

 カポーティは同性愛者だった。本作にも同性愛・トランスジェンダーが出てくる。本作のラストは、同性愛者のラドクリフさんの呼びかけにジョエルが応えようとしているとも読める。活発な少女アイダベルは男の子のようであり、家出先で出会ったミス・ウィスティーリアに恋をする(ようにジョエルには見える)。ジョエルは冒頭近くで声変わり前のソプラノの声で歌う。異性愛はズーの例でわかるように極めて暴力的で恐ろしい。しかしキリスト教道徳の強い世界でカポーティは生きづらかっただろう。カポーティは後年同性愛者であることを逆手にとってマスコミに露出するが、内心はどうであっただろうか。

 日本では、江戸時代の井原西鶴の『好色一代男』『男色大鑑』を読めば、当時同性愛は至極普通だったと実感できる。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』にも学生寮で薩摩出身の男たちが同性愛にしのんでくるので困った、と書いてある。明治以降に西欧近代・キリスト教道徳の影響で、同性愛は日陰の存在となった。有名なのは折口信夫三島由紀夫。今日やっと明治以降の迷妄・偏見を脱し「私はLGBTQです」という発言が「私は関東の出身です」というのとあまり変わらず受け止められるようになりつつある。(なりつつあるのであって、まだ偏見を持った人もいる。)

西欧のキリスト教道徳の世界では、長く同性愛者は苦しんできたはずだ。ジッドプルーストらが同性愛で有名だ。旧約聖書の「同性愛の町、ソドムは神によって滅ぼされた」という話が人口に膾炙している。だが・・・

 新約聖書ユダの手紙1章7創世記19ソドムの滅びの所をよく読むと、男色ゆえに滅ぼされたとは限らない、それを男色ゆえとしてしまったのはアウグスティヌス『神の国』であり、これが後世の解釈を決定してしまった、という学説がある。(辻学「「ソドムの罪」は同性愛か」(『関西学院大学キリスト教学研究』1999. 2. 5-18)など。)イスラーム教学でも、ゲイを広言しLGBTQのための活動をしているイマームたちも存在する。(青柳かおる「イスラームの同性愛における新たな潮流̶̶ ゲイのムスリムたちの解釈と活動 ̶̶」比較宗教思想研究 第21輯、新潟大学大学院現代社会文化研究科比較宗教思想研究プロジェクト、2021年3月など。)

 但し、カポーティ文学=男色者の苦しみの文学、と一義的に還元してしまうのもおかしい。カポーティ=南部の文学、と一義的に還元してしまうのがおかしいのと同様に。カポーティはカポーティだ。子どもの傷つきやすい心から見た世界を描き、そこから何とか大人への一歩を踏み出そうとした、本作は22歳のカポーティにとってそういう作品だったのではなかろうか。その後の彼の生涯は依然苦しくバランスを欠いたように見えるけれども・・・

(3)

全体に不気味な雰囲気が漂っている。スカイリズ・ランディングの屋敷が沈むのは、ポーのアシャー館の崩壊のイメージが重なる、と河野一郎は言う。ポー、ホーソーン、メルヴィルとつづく暗黒ロマン主義の系譜にあるということだろうか。

 

 

参考3

 『冷血』

 私は元来残虐な話は好きではない。が、村上春樹や大江健三郎もカポーティを薦めていた(と思う)。アメリカ文学では避けて通れない作家だ。最近ある方から『冷血』が凄まじい、という話を聞き、有名な作品なのでこのさい読んでおこうかと購入して読み始めた。

 この作品は、1959年にカンザス州で起こった一家惨殺事件に取材し小説化している。

 殺害シーンは残虐で、読んでいられない。平穏な地方都市のクリスチャン名士一家を、賊が襲う。読者はハラハラしながら読み進め、ついにその場面が来る。作者の構成はうまく、読者を引きずり込む。

 だが、この小説はそれだけではない。捜査官たちの追跡と犯人たちの逃亡とが交互に描かれ、両者はいつ遭遇するのか? もハラハラするポイントだ。その過程で、犯人たちの生い立ち、家族や、捜査官たちの家族についても描かれていく。

 (ネタバレだが)犯人たちはついに逮捕され、裁判が始まる。拘置所の中や他の受刑者の様子が描かれる。全体に筆力があり、一気に読ませる。

 この小説で作家は何が言いたかったのだろうか? 犯人たちの異常な言動だろうか。その生じた所以であるアメリカ社会のひずみだろうか。それとも単なるエンタテイメントの刑事・犯罪ものと見るべきか? 訳者の佐々田雅子は、ここに描きこまれているのは家族の物語でもある、とする。被害者一家、加害者の家族、捜査官の家族、周辺の人々の家族など。カポーティ自身は家族に恵まれず育ったので、家族の物語を紡いでみたかったのだろうか。

 私は、この小説にはもう一人の主人公がいると感じた。それは、神だ。舞台は「バイブルベルト」(福音主義の影響の強いエリア)の西のはずれ。被害者の一家は敬虔なメソジストだ。周囲も「敬虔な」クリスチャンぞろいだ。日曜なのに教会に来ないことから異常が発覚する。犯人も事件後聖書の文句や賛美歌を口にする。この残虐な事件の後で!? 裁判でもキリスト教精神により死刑は不可とする意見があった。「敬虔な」クリスチャンたちの作る社会。絶えず神のイメージがちらつく。だが、そこで不幸な生い立ちの犯罪者が生まれ、残虐な事件が起きる。神は何をしているのか? ドストエフスキーなら対極に修道士を配し神学論争をするだろう。我々はすでに「神無き時代」に突入したと作者は異議申し立てをしたいのか? 私はこの作品でこのような感想を持った。                            

 

(アメリカ文学)ポー、エマソン、ソロー、ストウ、ホーソン、メルヴィル、ホイットマン、エリオット、M・トゥエイン、オー・ヘンリー、エリオット、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、バック、フォークナー、スタインベック、カポーティ、ミラー、サリンジャー、メイラー、アップダイク、オブライエン、カーヴァーなどなどがある。アメリカ文学に影響を受けた日本の作家も多数。