James Setouchi
2025.8.6
『カラマーゾフの兄弟』追論3 第7~9編(光文社文庫の亀山訳を用いた。)
(1) 第7~9編に出てくる人物
わたし:全体の語り手。事件のあった町に住んでいる。
アレクセイ・カラマーゾフ:アリョーシャ。カラマーゾフ家の3男。敬虔なキリスト教信者で、ゾシマ長老に仕えている。厳密には修道僧ではない。
ゾシマ長老:ロシア正教の長老。高徳で人望がある。高齢で死亡。人々の期待した奇瑞はなく、死骸は腐臭をたてた。
パイーシー神父:ゾシマ長老に近い神父。
フェラポント神父:ゾシマのライバル。長老制を批判している。苦行を売り物にしている。悪魔が見えると称する。
ラキーチン:アリョーシャの友人の修道僧。出世志向。
オブドールスクからの修道僧:聖シリヴェストル寺院から来た遠来の客。フェラポント神父に影響を受ける。
サムソーノフ老人:グルーシェンカの後見人(パトロン)。
フェーニャ:サムソーノフ家の小女。その祖母が料理番マトリョーナ。
グルーシェニカ(アグラフェーナ):美女。フョードルとドミートリーの双方から言い寄られる。過去の恋人が忘れられない。
モローゾワ夫人:商家の未亡人。サムソーノフ老人の親戚筋。グルーシェニカを下宿させている。
カテリーナ:ドミートリーの婚約者。誇り高く教養ある女性。
ホフラコーワ夫人:上流階級の夫人。足の悪いリーズの母親。噂好き。悪人ではないが軽薄な人物で・・
リーズ:足の悪い少女。アリョーシャと愛し合う。
フョードル・カラマーゾフ:カラマーゾフ家の父親。好色な男。
ドミートリー・カラマーゾフ:カラマーゾフ家の長男。情熱的で破滅的な行動をするが魂は高潔な男。
イワン・カラマーゾフ:カラマーゾフ家の次男。カテリーナを愛しているが・・無神論者。
スメルジャコフ:カラマーゾフ家の下男。フョードルの子どもかも知れない。ロシア正教の異端の去勢派?
グルゴリー老人:カラマーゾフ家の下男。その妻がマルファ。
リャガーヴィ(グルストキン):不動産売買に長けた百姓。
ペルホーチン:ドミートリーの友人。若い役人。ドミートリーに金を貸し、また「事件」の証言者となる。
チモフェイ、アンドレイ:馭者。
トリフォーン・ボリースウィチ:旅籠(はたご)屋の主人。欲の深い男。
カルガーノフ:ハンサムな青年。ミウーソフの親戚。ミウーソフはカラマーゾフ家の親戚で西洋通の教養人。
マクシーモフ:地主。修道院と領地争いをしている。
ムシャロヴィチ:ポーランド人。小柄。グルーシェニカの昔の恋人。5年ぶりにグルーシェンカと再会するが・・
ヴルブレフスキー:ポーランド人。歯医者。長身。
ミハイル・マカーロフ:警察署長。娘、孫娘(二人)がある。
ニコライ・ネリュードフ:予審判事。イッポリート検事補を尊敬している。
イッポリート・キリーロヴィチ:検事補。検事と呼ばれている。34、5歳くらい。肺結核。心理分析の専門家。
アルヴィンスキー:行政監察医。
(2) ゾシマ長老の死とアリョーシャ
尊敬されていたゾシマ長老は、死に際して奇瑞(きずい)を示すことなく、普通に死に、腐臭をたてた。人々、特に反・ゾシマ派の人々は、してやったりとしてゾシマを批判する。アリョーシャは、「神が創った世界を認めない」とシニカルな心境に陥る。(第7編-2。光文社文庫亀山訳の第3巻47頁。)これはアリョーシャの信仰の危機だった。が、グルーシェニカとの交流を経て、アリョーシャは信仰に立ち戻る。アリョ-シャは「生涯変わらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。」(同109頁)とある。アリョーシャはここで修道院を出て俗界に入る。アリョーシャは何に覚醒し、これから何をするのであるか? 非常に興味深いところだ。アリョーシャは、聖書のキリストの最初の奇跡、ガリラヤのカナの婚礼での水をワインに変えた奇跡について、
①キリストは人間の悲しみではなくて、喜びを助けた、と解釈する。人間は悲しむ。人間は罪深い。だが、人間には喜びがある。人間の喜びを肯定しないセクト(フェラポント神父のような苦行タイプ)もあるが、ゾシマと同じくアリョ-シャは人間の生きる喜びを肯定する。
②また、カナの婚礼の席が貧しい人々のものだったことにアリョーシャは注目する。貧しい人たちの中にキリストは入っていった。アリョーシャがこれから為すことも、貧しい人々のためになる何かであることが示唆されている、と私は思う。
途中に「一本のネギ」の話が出てくる。これは芥川の「蜘蛛の糸」と同じ話で、ロシアの民話にある。
(3) ドミートリー(ミーチャ)のグルーシェニカ(アグラフェーナ)への狂熱の恋
これには長大なページを割いているが、略。特に馬車で乗り付けて多くの人とパーティーをして散財するところは、一種の「カーニバル」を描いているが、今の私には興味の無いことだ。若い頃は、こんな嫉妬深く面倒くさい恋愛はしたくないものだ、カテリーナと一緒になればいいではないか、と思ったものだ。今(結論も知ってしまってるわけだが)読むと、ドミートリーはバランスの悪い男ではあるが実は高潔な魂を持ち純情な男であることは、確かだと思える。それをグルーシェニカは見抜いたから、グルーシェンカも高潔な魂を持った女性だと言える。グルーシェニカはアリョーシャの魂の純良さを愛し、俗物ラキーチンを退ける。世俗的な判断(地位や財産や世間体を重視する)で言えば、ドミートリーはカテリーナ(すでに婚約者でもある)と一緒になればよかったのに、と(ここのところを読むだけだと)思う人は多いだろう。だが、カテリーナにも欺瞞がある(ドミートリーはそれに気付いている)。ロシアの貴族・上流階級の欺瞞ではなく、世間から蔑まれたグルーシェンカとドミートリーの中に、アリョーシャに通じる高潔で純良な魂がある、と作家は書いているのだろう。(それでも、捨てられるカテリーナはかわいそうだ、とここでは思う。もちろんカテリーナがドミートリーと結婚して幸せになれるとは思えないのだが・・ではイワンとなら幸せになれるかというとそれも・・?)
(4) ドミートリー(ミーチャ)は果たして父親を殺したのか?
第9章で展開される検事補や予審判事の取り調べは、事柄の真実そのものを見る事ができず、予断に基づいて言葉で事件の外枠のみを描写し、結果として冤罪(えんざい)を生む、という一つの例として読むこともできる。特にドミートリーのように、情熱的で言動の振幅が大きく、内面の良心に忠実であるがゆえに自己処罰欲求の強い人間、の場合は。(世の中には反省能力を欠き自分が有利になるように巧みに嘘を言う人もある。ドミートリーはそうではない。むしろ、アリョーシャの「人間はすべての人間に対して罪がある」という感性・思考回路に近似したものをドミートリーは持っている。人間の裁判で有利になるように発言する人と、神の前に良心を持って立つ人の違いと言ってもよい。)周囲の証言者たちは、悪意はなくとも予断に基づいて証言する。間違った証言が積み上げられ、真実は見失われ、冤罪が構成される。では誰が真犯人なのか? ネタバレになるので省略。
(大岡昇平の『事件』という小説も参照。)
松原繁生氏(京大大学院博士課程。若者ではなく、すでに多くのことを成し遂げてこられたシニアの方)に「『カラマーゾフの兄弟』はなぜ「誤審」で終わっているのか」(Slavica Kiotoensia vol.1(2021))という論文があり、興味深い。松原氏は「『カラマーゾフの兄弟』では、父親殺しの真犯人ではない長男ミーチャに20年の厳刑が科されているのに対し、『罪と罰』では、二人を斧で斬殺したラスコーリニコフに 8年という寛大な判決が言い渡されている。この量刑の差が持つ意味についてよく考えてみたい。」と問題提起されている。
(5) とりあえずの結論
アリョーシャの変容と、ドミートリーの強熱の恋と、ひどい誤審・冤罪に向かう伏線が、この三つの編では並んでいる。どう関連するのだろうか? アリョーシャとグルーシェニカとドミートリーの共通点は、高潔で純良な魂にある。人間の目には見えにくいが、神の目には明らかだ。
人間の法廷で「罪在り」とされても神の法廷では「無罪」、ということはある。人間の法廷で「無罪」でも神の法廷では「有罪」ということがあるのと同じだ。その逆説を作家は書き込みたかったのかもしれない。