James Setouchi
2025.7.30
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』各種文庫にある。世界最高傑作。
追論
1 作者ドストエフスキー 1821~1881 19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。父はモスクワの慈善病院の医師。1846年の処女作『貧しき人びと』が絶賛を受けるが、’48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。この時持病の癲癇が悪化した。出獄すると『死の家の記録』等で復帰。’61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、『地下室の手記』を皮切りに『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』等、「現代の預言書」とまで呼ばれた文学を創造した。(新潮文庫カバーの作者紹介から。)
2 『カラマーゾフの兄弟』
世界最高傑作。父親フョードルを殺害したのは、誰なのか? 情熱的なミーチャ、冷静な無神論者イワン、いや、見方によってはロシア正教の敬虔な修道士アリョーシャこそがあやしいかもしれない…ミステリー仕立てで物語は展開される。ドストエフスキーは父親を農奴に殺害された経験を持つ。19世紀までの人類の思想をすべて検証し20~21世紀を予言した書物、あるいは1881年の皇帝暗殺を予言した書とも言われる。イワンの語る「大審問官」の問いに対しアリョーシャはどう答えるのか? 「大審問官」だけでも読む価値はある。
実は『カラマーゾフの兄弟』には続編が構想されていたとする説がある。「著者より」にはそう明記されている。いや、続編は要らない、これで十分完成された傑作だとする意見(小林秀雄など。小林は多分分かっていない)もある。もし続編があるとすればそれはどうなるのか? を考察しようとする試みもある。敬虔なるアリョーシャが神信仰を捨てて若者を集めてテロ(皇帝暗殺)を行うのか? あるいは、神の人アレクセイ伝説同様アリョーシャは敬虔な信仰に生き、そうではない誰かが暴力革命を行うのか? 静かな神信仰と、無神論的な社会工学と、どちらをとるべきか? 人間の真に生きるべき生き方はどこにあるのか? 魂の安らぎはどこにあるのか? ドストエフスキーの作品は深いところから私たちを揺さぶり、問いかけてくる。(江川卓や亀山郁夫の参考図書をお勧めする。)
3 主な登場人物(光文社文庫のしおりほかを参考にした。)
フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ:カラマーゾフ家の父親。地主。女好き。何者かに殺される。
ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ:長兄。先妻(アデライーダ)の子。情熱的。カテリーナに愛されるがグルー
シェニカに夢中になる。グルーシェニカを巡り父親と対立。ミーチャ。
イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ:次兄。後妻(ソフィア)の子。理性的。無神論者。「大審問官」の物語を語る。ロシア語のイワンとは、ギリシア語ではヨハネ。あの新約聖書のヨハネと同じ名前なのだ。
アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ:三男。イワンの同母弟。修道院にいた。アリョーシャ。ゾシマ長老の弟子。ロシアの伝承神の人アレクセイにちなむ。
パーヴェル・スメルジャコフ:カラマーゾフ家の下男で料理人。「神がかりの女」リザヴェータの子。召使いグリゴーリーとマルファに育てられる。イワンを尊敬。モスクワで料理を学び、そのころロシアのキリスト教の一派である去勢派に入ったか?
グリゴーリー:カラマーゾフ家の召使いの老人。頑固一徹な男。マルファはその妻。
ミウーソフ:フォードルの最初の妻アデライーダのいとこ。西欧の教養を持ったリベラル派。ドミートリーを育てる。
ヴォルホフ将軍の未亡人とポレーノフ:イワンとアリョーシャを育てる。
ゾシマ長老:修道院の長老。尊敬されている。若いころは決闘事件を起こしたこともある。
フェラポント神父:高徳の僧。ゾシマのライバル。
グルーシェニカ(アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ):妖艶な美人。フョードル、ドミートリー双方に愛される。
サムソーノフ:町の商人。グルーシェニカの後見人。
ムシャロヴィチ:グルーシェニカの元恋人。
カテリーナ・イワーノヴナ・ヴェルホフツェワ(カーチャ):ドミートリーの婚約者。知的な美人。巨額の財産を持つ。
リーズ(リーザ・ホフラコーワ):アリョーシャの婚約者。
ニコライ・ネリュードフ:予審判事。
イッポリート:検事補。
フェチュコーヴィチ:弁護士。
イリューシャ:スネギリョフ大尉の息子。肺病で死ぬ。
コーリャ・クラソートキン:自称社会主義者の少年。
スムーロフ:コーリャの友達。
カルタショフ:コーリャの友達。
ラキーチン:出世志向の神学生。アリョーシャの友人。
4 参考にすべき本
江川卓『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』、
亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』、
加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』など。
5『カラマーゾフの兄弟』追論1 第1~3編から(光文社文庫の亀山訳を用いた。)
(1)ここでは第2編の5「アーメン、アーメン」の、国家と教会の問題を取り上げよう。
イワンは教会的社会裁判の件について、国家からの教会の分離を全否定する趣旨の論文を書いた。これをめぐり議論が起きる。
イワンは「教会こそみずからの中に国家全体を含むべきであって、国家のなかの一部分を占めるだけであってはならない」と言う。・・つまり西欧的な政教分離の原則を否定している。
修道司祭のパイーシー神父が「まったくそのとおりです!」と言い放つ。
西欧帰りの教養人でリベラル派のミウーソフは「そんなもの、まぎれもない法皇全権論(ウリトラモンスタントストヴォ)じゃないですか!」と批判を叫ぶ。
ヨシフ神父はイワンの論敵の聖職者の論点を紹介する。「1、すべての社会的団体は、そのメンバーの市民的権利と政治的権利を支配する権力を手にすることはできないし、手にすべきでもない。2、刑法および民法上の権力は教会に属してはならず、それは神の施設としての、あるいは宗教的な目的をもつ人間の団体としての教会の本質と相容れない。3、教会はこの世の王国ではない。」・・このイワンの論敵の聖職者なる者がどういう存在かわからないが、西欧渡来の思想によって、教会の政治権力を制限し、政教分離的な主張をしている。
パイーシー神父が言う、「第3点は言葉遊びでもってのほかだ、天の王国は天にあるが、天に入るには、この地上に礎を置いてうち建てられた教会を通るより他にない」、と。・・私たちは、教会を仲介者として神とつながるのか、強化を仲介者としなくても神に直接つながれるのか、がここでは問われている。神と直接つながると称して狂信の陥る場合もある。これは大変だ。神との直接の生き生きとして交わりを失ったところで文字化(聖書の筆記)が生じたかも知れない(1世紀)。その後教会が確立し、聖伝を保持し、もしかしたら民衆の信仰を励まし、もしかしたら魔女狩りや十字軍を行ったかもしれない。宗教改革は聖伝を否定し、文献学は聖書をもばらばらに解体し、無神論者はニヒリズムに陥り、マルクスは「宗教はアヘンだ」と言い、対して信仰リバイバル運動が各地で起こった。内村鑑三は既成の教会を否定し無教会を唱え聖書研究を熱心に行い、さらには聖書の文字すら信用できない場合があるとし、「神おんみずからわが涙を拭い給う日」(黙示録21-4)を待望した。どう考えるか?
イワンは、「ローマの異教国家がキリスト教国家となったものの、相も変わらず異教国家であり続けた、教会は、古代の異教国家を、まるごと教会に変えてしまうという目的(神の提示した目的)を追求した、この地上のどんな国家もゆくゆくはすっかり教会に変わるべきだ、云々」、と述べる。・・つまりローマ帝国はキリスト教を国教化したがその実は異教国家のままだった、それでは全く足りなかった、未来において地上の国家が教会に変わる方向を目指すべきだ、とイワンは論ずる。
パイーシー神父が、「教会は国家に進化すべきだ、というのが今日のヨーロッパ各地で広く行き渡っている現象だ、だがロシア人の理解と希望に従うなら、国家の方が教会に変わらなければならない」、と言う。・・西欧では無神論化・世俗化が進んでいるが、それは反対だ、わがロシアでは世俗国家が教会に変わるべきだ、と言っている。
ミウーソフは、「教会が刑事事件の裁判をやり死刑判決まで下すようになるのか?」、と疑問を呈する。
イワンは、「教会は破門はするがいきなり死刑にしたりはしない」、と述べた上で、「破門された者はキリストからも離れることになるがどこへいけばいいのか?」 と問う。「現代では法律は犯してもキリストから離れはしないというケースがあり得るが、教会が国家になったとき、それはできなくなる」、と述べる。「犯罪に対しては教会は人間の再生、復活と救済という理想を目指すべきだ」、と述べる。
・・ここでイワンは、ミウーソフの問いに答えて、教会がいきなり死刑にすることはない、と言っている。刑罰を与えて終わりではなく、人間の内面からの再生、復活、救済をめざすのが教会だからだ。これはイワンの主張で、神父たちの主張と同じであるように見える。
イワンはまた問うている、国家と教会が一体化したとき、双方から同時にはじかれる人はどこへ行けばよいのか? と。これは当然の問いだ。但し少しわからない。「世俗の国家が捨てた者をも教会は拾う」ならよくわかる。「破門されたら、今のように人間社会だけじゃなく、キリストからも離れなくてはならない・・」とイワンが言うのが少しわからない。「教会から離れた者も世俗の人間社会(国家)で生きている」のが我々(21世紀)の現実だ。イワンはどうして「今のように人間社会だけじゃなく」と言ったのだろうか? イワンは混乱しているのか、内心の懐疑を隠してあえて混乱した言い方をしたのか? 原訳、江川訳でもこの言葉は同じだった。このイワンの言葉に違和感を抱くということは、すでに私(JS)が西欧的な(ミウーソフと同じ)思考に囚われているということであろうか。
そこで長老は、「懲役刑では人間を矯正できない、人間を生まれ変わらせるものは、自分を意識することの中に現われるキリストの掟だ、国家による裁きで罰を受けている者を、せめて誰かは憐れんであげなくてはいけない、ルター派の国々では教会は国家の中にみずからを消滅させようとしている、ローマでは一千年にわたり教会にかわり国家が声高に喧伝されているため犯罪者自身教会の一員と自覚せず追放されたまま絶望にくれている、対してわがロシアでは、裁判制度に対して教会もあり、犯罪者を我が子のように扱う、今は異教的なこの社会が将来世界に冠たる単一の教会へと完全に変容する期待を抱きながら存立しているのだ」、と述べる。
・・この長老の意見は理解できる。作家がこれを正解としているかどうかは別として。長老はイワンの意見を引き取ってより丁寧に解説しているようにも見える。すると、今までのところ長老・神父とイワンは同じ立場、となる。果たしてそれでいいのだろうか? イワンは無神論と父親殺害の悪意を胸中に秘めて、長老達の前で平然と教会擁護論を述べている、ということなのか?
ミウーソフは、「地上の国家を排して、教会が国家の地位にのし上がるとは、超・法王全権主義だ」、と批判する。
パイーシー神父は、「ミウーソフの解釈は逆だ、教会が国家になるのではなく、国家が教会になるのだ、これがロシア教会の偉大な使命だ、この星は東方から輝き始めるのだ」、と宣言する。
ミウーソフは、「社会主義的なキリスト教ってのは怖ろしい」、と述べる。
・・・これらの議論は、教会(宗教)と国家との関係を議論している。西欧渡来の政教分離原則ではなく、地上の国家を教会の原理が包みこむ日が来る、という理想を長老や神父、またイワンは述べている。ローマとビザンツの違い、またルター派やそれ以降の神政政治の努力について、本当はどうであるのか私は詳細は知らないが、ここではロシアのサイドから見てローマやルター派以降の西欧思想がどうか、では我々ロシアの理想は何か、が論じられている。そもそもの出発点であるイワンは、おそらく、何かを胸中に隠しており、ここではまだ全てを語ってはいない。イワンの「大審問官」はもっと後で出てくる。あとで「大審問官」を開陳するイワンだからこそここでの発言や態度はなにやらあやしげに思えてくるのだ。
(なおロシア名イワンとはギリシア名ヨハネ、新約中ヨハネ文書と言えば、福音書、手紙、黙示録など、強烈な存在感を放つ文書類だ。ヨハネは一人ではなかろうが、ヨハネの名を冠するグループは、知識人で神学者のイメージがある。それをイワンは継承しているに違いない。)
ロシアの思想史をきちんと押さえるならともかく、素人としては、これらを読み触発され、では自分たちはどう考えようか? のヒントにすることができる。
古代以来宗教国家は多数ある。アショカ王に於ける仏教と国家の関係はどうだったか。ローマ帝国ではどうか。現代でもイスラム宗教国家がある。日本もかつて朝廷が仏教を奉じた。江戸時代には仏教儒教神道などが渾然一体となりつつ併存していたが、キリシタンを逆さに吊して拷問した。日蓮宗不受不施派を弾圧した。他にも弾圧されたセクトがある。明治帝国では国家神道があり、大本教ほかを弾圧、極めて不寛容な社会になってしまった。日蓮宗には国立戒壇を作るべきだとのセクトが今もある。今の日本は政教分離の原則でやっている。この議論ではキリスト教の教会と世俗国家の関係は問われるが、他の宗教との関係(つまり異教に対する寛容、共存)とのは出てこない。現代では複数の宗教同士の共存は必須である。
ホーソーン『緋文字』には、アメリカ草創期の熱心すぎるキリスト教徒たちの独善的で不寛容な社会が描かれる。フォークナーの描く南部アメリカにもそういう面がある。キリスト教と言ってもその地域・時代でのそれだが、独特な世俗倫理を吸収したキリスト教倫理が前面に出て不寛容になる。もしそこにキリストが出現したら、「自ら省みて罪なき者のみ、この女を石で打て」と人々に改悛・自省を迫るのではないか? オスマン帝国ではともかくもイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が併存した。今(2025年)のイスラエルはどうであろうか?
(2)次に、不死に対する信仰と愛の関係について取り上げよう。
第2編5「アーメン、アーメン」の、上記に続く部分で、
ミウーソフは言う、イワンは「人間から不死に対する信仰を根絶してしまえば、たんに愛ばかりか、この世の生活を続けていくためのあらゆる生命力もたちまちのうちに涸れはててしまう」「そのときには、もう不道徳もなにも何ひとつなくなって、・・」と言っている。・・ここでは、不死に対する信仰がなくなれば、愛も道徳もなくなり、どんな悪事も平気になる、という見方を紹介している。イワンは一見敬虔なキリスト教徒と同じ立場に見えるが、そもそもイワンがこうした見方に関心を持つのは、イワンの根本に不信仰があるからだろう。不死への信仰、愛や道徳の必要性を、教会=国家が大きな虚構としてでも人々に提示して人々を安心させてやればいい、というイワンの思想につながる言辞だろう。
長老は、「こうした悩みを苦しむことができる最高の心をあなたに授けた造物主に、感謝なさることです・・」とイワンに語りかける。・・長老はあくまでもキリスト教徒の立場から語る。
第2編7「出世志向の神学生」では、
アリョーシャの友人で神学生のラキーチンが言う、「霊魂の不滅なんか信じていなくたって、善のために生きる力くらい、自分で自分のなかに見つけるもんなのさ! 自由への愛、平等への愛、兄弟愛の中にね・・・」・・・ラキーチンは神学生でありながらどうやら西欧渡来の新思想を知っているようだ。イワンとは別の立場で、不死、霊魂の不滅への信仰と、善とは別だ、人間には善の力が本来内在している、という人間観を語っている。
不死(霊魂不滅)と善(愛)の問題をどう考えるか。この世には、何も悪いことをしていないのに生まれてすぐ空襲で殺される、善や愛の人生を送った人がかえって理不尽に殺される、理不尽に殺されるときにあえて悪に走らず(善を行い)相手を許し(愛し)て死んでいくなどのケースが沢山ある。旧約のヨブもその一人(代表)だ。生まれてから死ぬまでの間で、言わば決算表のつじつまが合わないじゃないか、と考える人も結構いるだろう。「だったらソンしたくないからズルい人生送った人の勝ちよね」と言う人も。「こんな不幸に合うなんて、神も仏もあるものか」という嘆きを聞いたことのある人もあるだろう。但し不死(霊魂不滅)であれば事情はすっかり変わってくる。死後に貸借関係は清算されるばかりではなくそれ以上の報いがあると言えるからだ。聖書にある貧しいラザロと金持ち男の話(ルカ16-20~31)は好例だ。私はこれを中学の頃に読んでその内容が心に食い込んだ。(だから善と愛の行いを日々実践しているというわけでは全然ないのだが・・)ヨブの場合は、「我知る我を贖(あがな)う者は活(い)く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん、我この皮この身の朽(くち)果てん後われ肉を離れて神を見ん、我れ自(みずか)ら彼を見奉(たてまつ)らん、・・」との大いなる希望に入ったが故にヨブに満足と歓喜が臨んだ、何ら価値のない自分に、全く恩恵として幸福が与えられたことを認めるに至った、と内村鑑三は言う(『ヨブ記講演』、1920年=大正9年講演。岩波文庫にある)。厳密に見れば、死後に「あの世」のような場所に行くのか、この地上(神によって改造せられた地上)に「復活」「転生」するのか、などの問いはあるが、いずれにせよ、今生における死ですべて終わりではない、というロジックになっている。「死後の命」があれば(「不死」「霊魂不滅」であれば、)貸借決算表のつじつまは合うのだ。これを信ずるか信じないかは信ずる人次第による。「死後」「来世」「後生」「不滅の霊魂」などがあるかないかは近代西洋の自然科学の実証できることではないからだ。(「ある」とも実証できないが「ない」とも実証できない。)弱い人が勝手に要請した「アヘン」「奴隷道徳」に過ぎない、と言い切るのは、無神論という一つの立場でしかない。
さて、現代の無神論者の皆さんの中には、「人間には本来善への志向が備わっている」と人間への信頼を持つ人(孟子の性善説のような)もあれば、「人間には本来善への志向があるなどというのもまた形而上学でしかない、法や刑罰や利益誘導で統制するしかない」と人間不信の立場の人(荀子や韓非子のような)もあるだろう。どう考えればいいだろうか?
大災害の時に突如としてオキシトシンが大量に発動して、「助けに行かなきゃ! いてもたってもいられない」と感じボランティアに駆けつける人が急激に増えるのはなぜか? 人間の遺伝子の中に、何か利他的なものが始めから埋め込まれていて、それを育てながら人類は何万年も生きてきた、ということは、ありそうだ。
他方、オキシトシンが暴走すると「オレタチ・ヤツラ」という枠組が強くなりすぎて、共同体同士が敵対し戦争を始める。(「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と国民を「あんな人たち」呼ばわりした首相も・・・!)
さらに翻って考えてみると、そういう戦争や紛争を見て「これはだめだ、いったん落ち着こう」と言い出す人が必ず出てくる。冷静になり争いをやめ共に生きようとする平和共存DNAのようなものも、人間には本来埋め込まれている、と私は思うのだが、どうだろうか? 私は科学者ではない。経験的に、きっとそうだろうと思うだけだ。
同じように、自由・平等・兄弟愛のDNAのようなものもあるかもしれない。いや、あるに違いない。(狩猟採集民は平等に獲物を分けた。)
競争や闘争や戦争を人間の本性であるかのように言う思想は、文明国家、日本なら好戦的ヤマト朝廷、武家の軍事政権、産業革命と資本主義、帝国主義戦争、新自由主義などの風潮の中で、後天的に刷り込まれ助長されたものではないか? そう、現代では、五輪や各種競技会で「勝て勝て」と言い、市場経済のバトルの報道に日々さらされているうちに、頭に血が上って、妙なものが助長されているのだ。また日本史や世界史の授業で「勝った者中心史観」「征服者中心史観」「政治闘争中心史観」「王朝交代史観」を刷り込まれているかも知れない。ためしに、五輪もインタハイもニュースの株式市況もない時代・社会で人々がどんな価値観・気質を持って過ごしていたか、見てみるといい。平安時代に仏教の世界観を学んだ若者や江戸時代に儒学の世界観を学んだ若者はどうだったか。(新渡戸稲造は『武士道』の中で、武士道は滅ぶ、人間には深いところに「愛」の本能がある、と言っている。)アレクセイ・カラマーゾフはそういう若者だと言ってもいい。西欧近代渡来の新思潮(無神論や拝金主義、優勝劣敗の競争主義、孤立主義などなど)に汚染されず、敬虔な信仰に生きる若者として、少なくともここまででは描かれている。第二部(後編)でどう描かれるか、乞うご期待というところだったのだが。
(古代ギリシア人は、よく知らないが、競争が大好きだったかもしれない。オリンピックだけでなく、芝居のコンテストもあったとか。古代ユダヤ人も、共同体内部では仲良くするが、異邦人をむやみに差別・攻撃する。そうではない事例も書いてあるが。貧しい人や異邦人の寄留者のために落ち穂を残せ(レビ23-22)(注)とも。今のイスラエルはここを思い出して欲しい。)
(注)「あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」レビ23-22