James Setouchi

2025.5.10

 

5月の視角   2025(R7).5.10

 

5月1日 メーデー。労働者の団結を示す日。だが、別のメーデーもある。古くはローマ神話で春の女神マイアを祭る儀式に淵源を持ち、女王(メイ・クィーン)を選び柱(メイ・ポール)の周りを踊り回る五月祭(メイ・ディ)でもある。大学祭でも騒ぐ。フィッツジェラルドに『メイ・デイ』という短篇がある。

(なお、東大五月祭は本郷で5月下旬の週末にある。そこでメイ・クイーンを選んでいるかどうかは知らない。)

 

5月3日 憲法記念日。日本国憲法は1946(昭和21)年11月3日公布、翌5月3日施行。憲法記念日・日本国憲法については私は別のところで書いているのでそちらをご参照下さい。

 

5月4日 みどりの日。GWを連休にするために、5月4日を「国民の祝日」にしていたが、あるとき「みどりの日」という名称に変えた。みどりの日はそれまで4月29日(もと昭和天皇誕生日)だった。ところで、なぜ連休にするのか? 観光旅行客を増やすためだという見方があるが、真偽は・・? 観光旅行客がいれば、それに対応して働いている運転手、ホテルの人、食堂の人、お土産屋さんもいて、実は1億人が全員休んだり遊んだりしているわけではないのだが。

 

5月5日 こどもの日。子供を大事にしよう、というのは諸手(もろて)を挙げて賛成だ。但し・・もと端午(たんご)の節句、菖蒲(しょうぶ)の節句

 中国では奇数が重なるのはよいとされ、1月1日、3月3日、・・9月9日とすべてお祝いの日である。5月5日は戦国時代の屈原が投身自殺した日が5月5日で、これを供養した日だとの俗説もある。長江域で菖蒲(しょうぶ)を魔除けとして飾る、薬草風呂に入るなどの風習があるという。直感的には風習が先で、屈原の固有名詞は後からついたのでは? 日本人はコメ作りの文化を持って長江下流域から移住した人が沢山いたそうなので、その時にこの風習も持ってきたのだろうか? 旧暦の5月は新暦なら梅雨時だ。菖蒲は「根茎や葉をそのまま,あるいは刻んで布袋に入れて,煮だし汁を熱いうちに浴湯料として使用すると神経痛,リウマチ,不眠症,神経の疲れなどに効果がある。 ただし,煎液の服用では悪心や嘔吐を催すため,最近は用いられない。」と熊本大学薬学部薬用植物園のサイトに書いてあった。なお朝鮮半島にも菖蒲を使う風習があるとか。

 日本では古来宮中行事が存在し、鎌倉以降菖蒲が「尚武(しょうぶ)」=武を尚(とうと)ぶ、として男の子のお祝いになったという俗説がある。吹き流し(五色は五行説による)は室町時代からあるが、武者人形や鯉のぼりは江戸から。「鯉のぼり」の「いらかの波と雲の波・・」の歌は作詞者不明で大正2年(1913年)に尋常小学唱歌(5年生)に載った。(wiki)鯉が滝を登って竜になるのは男子は立身出世せよということ。同じ教科書には「水師営の会見」も載っていて、日露戦争後の帝国主義の色をはっきり感じる。(ちまき)は茅(ち)の葉で包んだのが本来。柏餅(かしわもち)も江戸から。柏は葉が落ちにくいので子孫繁栄の象徴とされたとか。(富士山かぐや姫ミュージアムのサイト他を参照した。)

 そう考えてくると、子供時代の疑問「子供の日はなぜ男の子のお祝いなのか? 女の子は子供ではないのか?」の謎が解けてくる。

 軍事政権(大きく言って鎌倉以降の)・軍国主義時代の男尊女卑思想・家父長制の産物だったのだ。女の子を差別・排除していること甚(はなは)だしい。(怒れ! 全ての女子!)中国から律令(男尊女卑思想がある)が入ってくる以前は女性もリーダーに普通になっていたのだが。今も、「嫁は家の子供を産め」式の発想は残存している。女性を(男性も)抑圧すること甚だしい。本当は結婚しない人がいていいし、子のいない人がいてもいい。最澄も空海も法然も日蓮も道元も結婚しなかった。宮沢賢治も。ゼノ修道士も。マザー・テレサも。聖フランチェスコも。聖ドミニクスも。聖カテリーナも。

 さらに言う、「一族の繁栄」と称して子孫を増やし自分の子孫だけで利権をせしめようとし親戚と争い弱者を踏みつけ他者を排除するのは、『大鏡』などで見ると本当に意地汚く、醜い。人間として立派とは言えない。武士もそう。戦乱の時代は本当に非人間的だ。鎌倉武士の殺し合いは「鎌倉殿の13人」ですっかり有名になった。信玄(に限らないが)の軍隊は略奪で有名だ。徳川・豊臣の大坂夏の陣では人さらいをして外国に売り飛ばすことが横行したのも有名だ。今の金持ちはどうかな? 親が子を大事に育てる心情は当然あっていいだろうが、政敵を陰謀にはめたり(平安貴族)、戦争で滅ぼして相手のものを奪ったり(武士たち)、非合法ではなくてもかなり悪徳なやりかたで他者の富を奪い蓄財し税金も「節税」したりして、それを子孫に「密輸」するのは、子供にとって、果たしていいことなのか? 彼らが子孫に残したものは、荘園、領地、家臣団、証券や預金だけではなく、そういう醜い思想と処世法も残しているわけだ。是か非か。ビル・ゲイツは私有財産を全て寄付するという。バフェットさんも金持ちだが人のために金を使う。オキシトシンが出過ぎると自分の子だけがかわいくて他を排除するようになる。「おれたち」「あいつら」と言って怒りの炎を目に宿しているとき、オキシトシンが出過ぎて目がくらみ、公正な判断力を失っているのだろう?

 柏餅はおいしいが、柏餅を見ながらそこまで考えませんか、みなさん?

 

5月10日 二葉亭四迷の命日。1909(明治42)年ベンガル湾上に死す。「日本近代文学」の出発点にいる人。『浮雲』『平凡』読んでみよう。彼は東京外語学校(ロシア語)に学んだ。ツルゲーネフを日本に紹介した。1909年は漱石が『それから』を書いた年だ。

 

5月第2日曜 母の日。南北戦争のあと、女性参政権運動のジュリア・ウォード・ハウが夫や息子を戦場に送りたくないと1870年に「母の日宣言」をした(wiki)。1907年にアンナ・ジャーヴィスが亡き母親の好きだった白いカーネーションを教会で配った(「ほいくる」のHPから)。(赤いカーネーションは健在の母に。)1914年にウイルソン大統領が5月第2日曜を「母の日」と定めた。

 日本では1931(昭和6)年に3月6日(香淳皇后=昭和天皇の后の誕生日、つまり地久節)を母の日とした。1932(昭和7)年5月8日に青山学院(キリスト教系)の人びとの働きかけで、日比谷公会堂で母の日大会をした(wiki)。昭和7年は五・一五事件(次項)の年でもあり、母の日と五・一五事件がほぼ同時期に起きていることに改めて驚く。戦後にアメリカにならって5月第2日曜が広がった。

 ・・明治以降、故郷に老親を残して自分は都会に出て働くシステムになった。田舎では夫が先に死ぬので独居女性(寡婦)が取り残される、というシステムになった。漱石『こころ』の田舎の「父」が死に、「母」(お光)は取り残される。都会の子供は申し訳ない気持ちはあるので母の日だけでもカーネーションの束を故郷に宅配で送る。聞いたことがあるだろう。だが、実際に世話をしてくれているのは、そばで暮らしている人(例えば「嫁」)だ。

鴎外『舞姫』でエリスが豊太郎と一緒に日本に行ったら、エリスの母はどうするのか。ステッチンの親戚のところに身を寄せるとあるが・・)

サザエさん一家(フグ田マスオ君は磯野家に入り婿(むこ)のような状態)が年を取ったら、波平亡き後認知症になったフナの世話をサザエさんとマスオ君がする。)

(少し違うが、浅田次郎『母のいる里』も読んでみよう。)

オランウータンは母が子を7年くらい育てるそうだが、インドネシアでは、母と死別した孤児のオランウータンを人間が母親代わりになって育て、野性に帰る力をつけてやるとか。)

 「母の日」とは、「母」とは何か、「子」とは何か、「育ち」「学び」とは何か、家族とは何か、社会のあるべきあり方とは何か、を考える日でもある。)

 

5月15日 五・一五事件は1932(昭和7)年。海軍青年将校たちが中心になってテロを起こした。犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺された。犬養が「話せばわかる」と言ったのに対し実行犯の軍人は「問答無用」と言って射殺した話は有名。犯人たちは逮捕され裁判や軍法会議にかけられた。戦前の(明治以降の、もっと厳密には幕末の井伊大老暗殺以降の)日本はテロが連続し首相クラスが多数暗殺されている。テロはダメだよ。でも、当時政財界が(犬養は別として・・犬養を暗殺したことは完全に誤り。いや、暗殺はそもそも不可。話し合いで解決すべきだ。)当時政財界が腐敗し貧富の差が広がり苦しんでいた人が沢山いたことは事実。物も言えない人たちの悲しみや苦しみを、うまく吸い上げていい政治につなげる仕組みが必要ですな。「包摂(ほうせつ)」がキイワードですかな。

 

5月15日 葵祭(賀茂の祭り)。上賀茂神社、下鴨神社の祭り。平安装束をまとった人びとが練り歩く行列で有名。江戸時代に葵の葉を飾るようになった。『源氏物語』には、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の牛車が葵(あおい)の上の牛車においやられてしまうくだりがある。(愛人は正妻に負けて辛いのだ。辛いので生霊になって葵の上を襲う。)平安期には賀茂の祭りで行列があったことが分かる。賀茂神社には皇室出身の斎王(さいおう)がいて神に仕えていたが、昭和31年から斎王代が市民から選ばれるようになった。(京都観光Naviのサイトから。)

 

5月15日 神田明神例大祭。非常に古くは東京湾に入植した海洋民が神を祭った社が起源だそうだが、いつからか正確には分からない(伝承によれば三代将軍家光の時)が平将門を合祀した神田明神は関東一円の守り神でもあり江戸時代にも盛んに信仰を集めた。行列が江戸城に入って将軍家が上覧するほど格式が高く、江戸を挙げての祭りだった。(一部の神道家、山崎闇斎らは批判的だったが。)明治時代に国家神道のもとで平将門は朝敵、とされた。明治7年天皇が神田神社に立ち寄ることになり神社としては将門様を祭神からはずさざるを得なくなり、本殿から追い出され境内に末社を建ててもらって末社の位置に落っこちてしまった。神主も中世からの代々の柴崎氏に代わって平田篤胤子孫の一族が宮司になった。氏子たちは反感を持った。戦後もかなりたって1984年に神田神社の三の宮として将門様は復権を果たした。(鈴木一夫『江戸・もうひとつの風景 大江戸寺社繁盛記』読売新聞社、1998年)

 

5月21日 新暦1173年5月21日(承安3年4月1日)親鸞(しんらん)聖人は京都南郊の日野にお生まれになった、と西本願寺のサイトに書いてあった。「法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗」と分けて覚えているかもしれないが、親鸞は法然から分かれて別の分派を建てるつもりなどなかった。法然の教えを深く追究しただけだ。念仏に(仏の圧倒的な救済力の前に)あの派この派の違いなど消し飛ぶはず。

 なお、日野は鴨長明の隠棲(いんせい)した場所でもある。法然の弟子の禅寂(ぜんじゃく)が日野にいて、友人の鴨長明(法名は蓮胤=れんいん)を世話したと言う。当ブログの読書会の『方丈記』の記事を参照されたし。

 

5月27日 日本海海戦の日。旧海軍記念日。(海上自衛隊の日は4月26日、海上保安の日は5月12日。)日露戦争で、ロシアのバルチック艦隊がバルト海→インド洋→東アジアへとやってきて、対馬(つしま)海峡を超えて大日本帝国連合艦隊と戦い、日本が大勝、ロシア艦隊は多く海に沈んだ。これは司馬遼太郎『坂の上の雲』を読んで多くの人が知っている。

①     大艦巨砲主義で勝てると思い込み戦艦大和や武蔵を(血税を大量に投入して)つくったが、すでに真珠湾(1941)を見れば明らかなように航空機戦の時代になっていた。戦争も技術革新で変化する。日本は過去の成功体験にしがみついたのがいけなかった、とはしばしば言われるところ。

②     日露戦争は祖国防衛戦争ではなく植民地の取り合いだった、また不可避の戦争ではなく外交交渉で避けられたのにわざわざやってしまった、というのがどうやら正しい見方のようだ。最近の研究ではそうなっている。祖国防衛戦争で不可避だったとする司馬史観は誤り

③     日露戦争は、イギリスの代理で日本が戦わせられた戦争だった。イギリスの世界戦略にうまく乗せられたのだ。それは幕末の薩長グラバー商会(武器商人)との関係あたりから始まっているに違いない。今はどうかな。

④     ロシアの兵隊のイワンやピョートルやアレクセイやドミートリイは寒いロシアの出身だが、暑いインド洋を経てはるばる東アジアまでやってきて、わけもわからず島瀬火薬で舟と体をめちゃめちゃに破壊され血を流しながらツシマの海に沈んだ。恐ろしいことだ。海は栄養豊富になりプランクトンが沸(わ)く。その死体やプランクトンを日本海の魚が餌(えさ)にして食べただろう・・・すると山口県や島根県ではタイやイワシが沸(わ)いたであろうか? 金子みすゞ(1903~1930)は「朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮(おおばいわし)の/大漁だ。/浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の/鰮(いわし)のとむらい/するだろう。」と歌った。漁師たちがイワシの大漁を祝っているとき、イワシたちは大量死をしているので、海中では何万のイワシの弔いをしているにちがいない、と金子みすゞは気がついて歌う。日露戦争で勝った勝ったと戦勝パレードをしているが、海底にはイワンやピョートルやアレクセイやドミートリイらロシア兵の死体が大量に沈み、水底の弔(とむら)いをしているかもしれない。金子みすゞは日露戦争を直接歌ったわけではないのかも知れないが、どこかで日本海海戦と金子みすゞ(山口県の長門(ながと)市仙崎=日本海側の出身)の詩とが呼応しているような気になってくる。

 戦争で死ぬのは動員された貧しい人びと(および空襲にさらされ右往左往する庶民)。戦争でもうけるのは武器産業の株主や社長や社員、また植民地を手に入れて金儲(かねもう)けをしようという連中。ロシアでは、もはや帝政ツアーの横暴に従いたくはない、と社会主義革命が起きた。(その成否、当否は別として。)大日本帝国では革命は起きず、巨大な戦艦を揃(そろ)え「日英米」などといばってみても、実際には国民の多くは貧しく、貧しい女工さんは(男性もだが)工場で過労死する、暮らしていけないから大陸に満蒙(まんもう)開拓団などで出て行く、国内では血盟団(けつめいだん)事件、二・二六事件などテロが続発する。これが大日本帝国の実態だった。挙げ句の果てに日本列島は焼け野原。人びとは塗炭(とたん)の苦しみを舐(な)めた。

 改めて聞こう、日本海開戦記念日、旧海軍記念日で、一体何を祝っているのか? 我々は何を学ばなければならないのか? では、今のあの国やその国で軍事パレードにコストを費(つい)やし国民生活が窮乏している国の(民の)将来は、どうなるのであるか? 孟子(もうし)がいたら憤激し悲嘆し警告するであろうな。