James Setouchi

2025.3.23

井原西鶴2

 

 井原西鶴の読書会はR7年5月17日土曜午前に考えているが変更するかも知れない。テキスト未定。今回は基礎資料。(2025.3.25に加筆修正した。)

 

1 井原西鶴 (最も簡単に)1642(寛永19)~1693(元禄6)。江戸時代、元禄頃、大坂の俳諧師・小説家。

 本名平山藤五。大坂の富裕な商家に生まれたが家業は手代に譲った。母方の井原姓を名乗る。ペンネームは鶴永、西鵬、四千翁、二万翁、松風軒、松寿軒、松魂軒と多数。まずは談林派の俳諧師として大成功を収めた。矢数俳諧で有名。阿蘭陀(おらんだ)西鶴と呼ばれて興行的に成功。

「軽口にまかせてなけよほととぎす」

「大晦日(おほみそか)定めなき世のさだめ哉(かな)」

「神力誠を以て息の根留(とま)る大矢数(おほやかず)」

 その後小説家(浮世草子作家)に転身した。

  代表作は(ほかにもある。とにかく多作)

 (好色物)『好色一代男』『好色五人女』『好色一代女』

 (武家物)『男色大鑑』『武道伝来記』『武家義理物語』

 (町人物)『日本永代蔵』『世間胸算用』

 (その他)『西鶴諸国ばなし』『本朝二十不孝』

  没後に門人たちが刊行したのが『西鶴置土産』『西鶴織留(おりどめ)』『万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』などなど。

 辞世の句は「浮世の月見過しにけり末二年」。

 数え年52才で、人生50年という考え方から言えば2年余計に生きた、ということか。

 彼の諸作は、武家、町人、遊女、富豪、貧しい人、男色、ケチな人、贅沢な人などなど多種多様な人びとが出てくる。舞台も大坂、京、江戸、地方都市などなど多様。しかも社会(経済など)的背景などが書き込んである。多種多様な人間と社会を諸相においてとらえ、笑えるようで実は切実な人間の真実を描き込む。優れた観察と深い洞察があってはじめてできることだ。実に面白く、優れた文芸であり文学である。

 

2 どれから読んでも構わないが、とりあえず・・・

(1)『好色一代男』:1682年=天和2年刊。代表作なので通読すべきだが、冒頭とラストを見る。

(冒頭)

 世之介の父親は夢介と呼ばれた。生野銀山あたりの出身の大金持ち。世事を捨てて色の道だけに生きた人。有名な太夫を三人身請けした。そこから生まれたのが世之介。

 世之介は両親に寵愛された。七歳の時、おしっこをするときに女中を口説いたのが恋のはじめ。

 次第に色気づき、54歳までに関係した女性は3742人、男性は725人。これは日記で知られる。

・・・荒唐無稽な話だと冒頭から分かる。数字で語るのは元禄バブルの特徴か。同性愛(ここでは男色=衆道)が当たり前だったと分かる。前提として親のカネがあること。そのカネを使って社会改革をするでもなく、色道に使ってしまう。これが封建社会で、真に自由とは言えない。真の自由とは何か? でも西鶴はそこはいわない。階層格差社会ではある。太夫を3人も身請けするには大金がいる。大富豪が出現したのは事実。『伊勢』の「昔男」や『源氏』の光源氏のパロディ。54は『源氏』の巻数。善財童子は54人の聖者を尋ねる(『華厳経入法界品』)。なお『偐(にせ)紫田舎源氏』は江戸末期、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)。主役は足利光氏で、『源氏』のパロディ。

 

(それから)世之介は日本中を旅して女性に手を出し一時は苦労し、結局大坂(新町)や京(島原)や江戸(吉原)の遊女と大いに関係を持つ。

 

(補足)遊郭について

 例えば平安時代にも流浪し遊行する娼婦が存在した。彼らは歌や踊りに優れ場合によっては高級貴族とも交わった。江戸時代の遊郭の淵源は豊臣秀吉が遊女を一カ所に集めたことによると言われる。大坂の新町、京の島原、江戸の吉原が江戸時代の三大遊郭だ。それ以外にも各都市には遊郭があり、それとは別に無認可の売買春窟(くつ)(「岡場所」)があった。個人営業で暗がりの中、橋のたもとなどで客の袖を引く売買春もあった。男色(少年売買春)などもあった。『一代男』を読むと書いてある。なぜそうなるのか? 大きな理由は、当時の社会の貧富の差、貧困だろう。吉原に行き花魁(おいらん)に接することのできる客は大変な大富豪に限られる。しかも何日も通って散財してやっと煙草に火をつけさせて貰えるなど、ハードルがなかなか高かったと言う。吉原の中にも遊女のランクがあり料金も違ったという。吉原はお武家も商人もない、架空の名前で過ごし身分制度から自由な世界だった、とも言えるが、あくまでも大富豪でそこに入れる人たちだけの贅沢だった。その外では身分制は確乎としてあった。遊郭に入れない者は外で安価な買春を行う。売る側は、もちろん貧困ゆえだ。親に借金があり、遊郭に売られる。年季が明けるまで出られない。平均死亡年齢21~22歳だった(平均年齢ではないよ)というから驚きだ。性病もあれば過酷な労働による衰弱もあったろう。逃げ出そうとして拷問(折檻=せっかん)された例も。花魁は立ち居振る舞いや教養も要求される。見た目は華やかだ。だが見た目とは全く違う過酷な世界。「江戸の遊郭の文化」などといって褒められた者では決してない現実がある。

 

 明治以降はどうか? 永井荷風が出入りした玉乃井遊郭はどうか。戦後はどうか。1946年(昭和21年)にGHQが公娼廃止令を出したが、「赤線」「青線」という売買春エリアは戦後もずっとあった。「赤線」は特殊飲食店としての届け出をしているエリア、「青線」は無届けのエリア。1956年(昭和31年)の売春防止法でそれらは廃止された。同法の施行は1958年(昭和33年)。その後も非合法で営業している店があり、今日まで続いていると言われる。東南アジアから女性を連れてきて売春させる例が言われるが、貧困化した日本人が売春させられている例もありそうだ。いずれにせよ恐ろしいことだ。西鶴が現代に生きていたらそれらをも取材してハナシをつくるのではないか。西鶴は荒唐無稽な笑い話を書いているように見え、実は社会の矛盾や人間の生活の中での苦しみや悲しみをしっかり見据えて書いている。

 

(ラスト)

 世之介は大金を譲られて色町で散々使った。浮世に未練がなくなった。家族もない。これからどうとでもなれと、使い残した大金を東山に埋め、同志七人で語らって、船出することにした。好色丸という船に性愛の道具を山ほど積みこみ、いざ、女護の島に渡って「つかみ取りの女を見せん」と天和2年(1682年)10月に伊豆の国から船出して、行方しれずになってしまった。

・・・荒唐無稽なオチと言うべきか。全文を読まないとわからないが、どうして日本から出発したのだろう。この世の遊女はすべて見尽くした、とある。女護の島は実在するか。(しない。)アマゾネスの島とは違うようだ。海の彼方に異世界があるという発想のパロディ。同志七人は七福神と同じ数。

 

(2)『諸国ばなし』1682年=天和2年刊。その一つ1-3「大晦日(おほつごもり)はあはぬ算用」を。

 原田内助は浪人で横着者。江戸に住みかね品川(東海道53次の一つめ)に貧しく暮らす。年末に女房の兄・半井桃庵(神田明神の横丁の薬師=医者)から10両をもらった。内助は喜んで浪人仲間7人を集めた。皆布ではなく紙で羽織を作っているが昔の風儀を忘れない。10両の小判を見せてみなで酒宴となった。宴会が終わって見ると、1両足りない。内助は「私の記憶違いだった」と言う。客が上座から「身の潔白を示す」と帯を解いていく。3人目が「たまたま1両持っている。小柄を売ったのだ。自害した後で確認して欲しい」と言う。すると行燈(あんどん)の陰から「小判はここだ」と投げ出した者がある。今度はお内儀(かみ)が「重箱の蓋に就いていました」と言う。すると、さっきふえた1両は、誰の者か? 誰も名乗らない。朝になるので、内助が「庭に置いておくので、一人ずつ退出して、ご本人がお取り下さい」と言う。その後見ると、誰かが持って帰っていた。「あるじ即座の分別、座なれたる客のしこなし、かれこれ武士のつきあひ、格別ぞかし。」

・・・「武士のつきあひ」が格別だとは? 浪人しても武士の交際の仕方を忘れていない。貧しくとも羽織の格好をする。礼儀正しくする。本人が悪くなくても疑われる事態で自害。但し名誉は大事で、あとで店で確認し名誉回復して欲しいと頼む。誰かが1両を投げ出し彼を救う。その1両を出した者は名乗らない。自分がしてあげた、と言わない。内助は互いにわからないように1人ずつ帰して、1両を本人に返した。これらの主人の分別と客のふるまいのすべてが「格別」な「武士のつきあひ」だ、と語り手は語る。

・・・だが、内助は他の人には横着をして、江戸に住めなくなるほどのひどい人。すると、仲間うちだけでいい交際をして、例えば町人相手だと非道なことをするということか。武士の交際は立派に見えるが、町人相手にはそれはしない、もしくは、互いに風儀をただして立派そうに見えるか所詮は外見と身内だけのもので、奇妙な珍しい人たちだな、という町人の視点で描いているか

・・・「花は桜木、人は武士」と言うほど武士の生き方が素晴らしいとされるのは、山鹿素行(士道論)や新渡戸稲造『武士道』からあとで、それまではそうではなかったかも? 

 

(補)(武士道について少し)

宮本武蔵:有名だが自分より弱い相手と戦って勝ち続け、有名になる。侍大将を夢見た? 江戸には時代おくれ。「遅れてきた戦闘者」と言うべきか。

忠臣蔵:作戦を練って相手の油断を突いて勝ち、できれば再就職を狙った? 忠臣と騒がれ、名誉の切腹。徳川綱吉の時代。

『葉隠』(山本常朝):計算してはいけない。遮二無二突入しなければならない。儒学不要。ケンカ武士道。実は譜代だからできることか。

『三河物語』(大久保彦左衛門):「御譜代の衆ハ、よくてもあしくても、御家之犬にて、罷出ざるに・・・」(三河武士たちは徳川家に対して犬のように忠実であり、主君から決して離れないという意味)(徳川記念財団の「コンクール in 岡崎 第19回「徳川家康公作文コンクール」」(令和4年)の「三河武士は面倒くさい⁉」(愛知教育大学附属岡崎中学校2年中原梨衣紗さんの作文)から。「三河武士の特徴として、「質実剛健」「一致団結」「忠誠心」といった言葉が並びます。」「三河武士は面倒くさかったと言われているんだよ。」「主君のために固い忠誠心を持ちながらも、時にははっきりと意見を言う、いわゆる完全なイエスマンではない家臣」とも中原さんは書いている。(・・岡崎ではこんな作文コンクールをやっている。)家康のキャッチフレーズ「厭離穢土、欣求浄土」も面白い。本来は浄土系の言葉のはずだが。

山鹿素行:儒学を学ぶ。為政者である以上人格も立派でないといけない。(士道)(和辻哲郎参照)

新渡戸稲造『武士道』:「義」を最重視。キリスト教的士道と言うべきか。

映画「ザ・ラスト・サムライ」:何をもって「サムライ」とするのか? 疑問。

サムライニッポン、サムライブルー:何をもって「サムライ」とするのか? 疑問。野球やサッカーの選手が殺人をしてはいけないよ。

 

*『諸国ばなし』の他のハナシは気持ちが悪い。

 

(3)『本朝二十不孝』1686刊 は、中国の『二十四孝』と比較できる。

(5-4 古き都を立ち出(いで)て雨)

 親不孝のハナシが続くが、本作のみ親孝行のハナシ。

 奈良の徳三郎は刀屋徳内のせがれ。小器用だが喧嘩好きの親不孝。一族から勘当され江戸へ。麹町の請人屋の九助をたより、まずは天秤棒をかついで大根の行商から始めた。昔は良かったと思うことしきり。さて貧しい家の少年に大根を与えさらに米や味噌を持っていくと、その家の親はもう餓死したと。徳三郎は哀れに思い一緒に弔ってやる。それから10日ほど毎日世話をするうち、信濃(長野)の田舎から少年の実父で立派な武士がやってきて、「養子にやった子だったがよくぞ孝行を尽くした、さあ、家に帰ろう」と少年を連れて帰る。徳三郎にはお礼で100両をくださった。徳三郎は日本橋通町に店を出して商売も成功、奈良の親を迎え、孝行を尽くし、人のために慈悲善根を尽くしてまっすぐに世渡りをした。家は栄え江戸に安住して悦びを重ねたことだ。

・・・徳三郎は変わった。才気があって喧嘩早く周囲に憎まれて奈良に地元を逐(お)われたが、江戸では変わった。彼を変えたのは、まずは親切な九助との出会い。次に天秤棒をかついで大根を売る生活。そういう辛抱の生活の中で鍛え直された。そういう辛抱の数年間があった方がいいということか。もともと才のある賢い人だったかも知れない。自分が辛かったので、他の人のつらさにも共感して、人助けをした。人助けをできるほどわずかな蓄えがあったのもよかった。そこから先は偶然だ。「この人を助けておけばあとでリターンが大きいから」という打算で助けたのではない。たまたま相手が大金持ちの子どもだっただけだ。でも、真面目に暮らせばいいこともある、という「成功体験」になっただろう。彼はその後、身を慎しむ。富裕になればたちまち身を持ち崩す人も多いが、彼はそうではなかった。貧しい時代の初心を忘れなかった。

 みんながこういう目にあうだろうか? 天秤棒を担ぐ人は多い。でもみんなの運命が劇的に好転するわけではない。彼は体力があった。天秤棒を担ぐうち体を壊す人もいるだろう。今の若者のブラック・ワークは改善しなければならない。失敗しても再チャレンジできる社会にする。

 

(補足)(少年が働く

林芙美子『放浪記』と佐多稲子『キャラメル工場から』では小学校6年くらいの年で働いている。 

椎名麟三『重き流れの中に』では少年は末端の鉄道員として働く。

西村賢太『苦役列車』は大変だった。破れかぶれの生き方だ。

砂川文次『ブラックボックス』はロードバイク便で働く若者。少年ではない。結構大変だ。

いとうみく『車夫』は浅草の人力車を引く少年。(未読)

曽野綾子『生贄の島』では沖縄の空襲下で女学生たちが従軍看護師として働く。

ディケンズ『デビッド・コパフィールド』も少年時代から働く。ディケンズの実体験に基づくだろう。

シュリーマン『古代への情熱』も少年時代から働く。自伝。

森村誠一『悪魔の飽食』もよく見ると731部隊は少年を働かせている。

 

(補足)(親孝行について

 モーゼの十戒にも「汝の父と母を敬え」とある。箴言1・8-9にも「わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。・・」とある。

 新約聖書のエフェソスの信徒への手紙(パウロ著?)6章1~4にも「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう』・・」とある。。

 イスラム教では。コーラン(クルアーン)17-24に「両親に孝行せよ」とある。

 孔子(儒教)は「孝」重視。生きている親を大事にするだけではなく、亡くなったあとも先祖祭りを大事にする。一般的な言い方では、帝舜はDVD親に対して孝養を尽くした。曾参(孔子の学団の継承者)は「孝」を大事にした。中江藤樹が「孝」を大事にした。母親のために仕官を辞めて(武士の身分を捨て)田舎に帰り刀を売って金に換えて母親を養った。

 仏教はどうか。諸々の経典に親孝行を説いている。アルボムッレ・スマナサーラ長老(テーラワーダ仏教)は「お釈迦さまは、まず子が親になすべきことを五つ挙げられています。お釈迦さまは「親孝行」という言葉の意味を、五つの項目で具体的に教えられたのです。・・・」と説く。仏教では、我々は生まれかわるので、全ての生きものが親であり子であることになる。空海『三教指帰』はまず仏になってから父母をも根本から救済する、とする。親鸞『歎異抄』で「父母の孝養のために念仏は申さず」とするのは、まずは儀式や呪術に頼らず念仏で阿弥陀如来に直結することが第一義ということだろうが、先祖祭りで当時の鎌倉武士が集まって団結しもめごとをおこしていた社会背景があるとも。 

 

(4)『男色大鑑(なんしょくおほかがみ)』(1687年=貞享4年)は武士の衆道(男色)の話と、若衆歌舞伎の男色の話とからなる。男色が当たり前だと分かる。

 

(5)『日本永代蔵』1688刊(『世間胸算用』よりも前に出した)から 1-3「浪風(なみかぜ)静かに神通丸」は大坂の北浜の米市場が出てくる。日本史の時間に文言としてはならうが、その雰囲気がよくわかる。

 泉州の唐金屋は大富豪で神通丸という船で米を運んで儲けた。北浜の米市には大量の米が積まれ相場を読んでは売買する。数千軒の問屋があり蔵の白壁が輝いている。米俵を載せた馬、船、働く若者たちで活気がある。大富豪の中には商いをやめ金融業になった者もある。近隣の百姓の子が、最初は丁稚奉公からはじめ、しだいに手代見習に出世するが、主人のカネを懐に入れ落ちぶれる者もある。大坂の大富豪は三代も続いた者ではなく多くは成り上がって上流階級の風采を身につけたのだ。奉公先の主人の育て方にも左右される。ある女は貧しかったがこぼれた米を帚で掃いて集め商売とした。息子をも9歳から遊ばせずカネ儲けをさせた。息子は両替屋になって成功、旦那旦那と言われるようになったが、貧しい時代のことを忘れず戒めとし続けた。

・・・このハナシは人間の努力を肯定してはいる。

 大坂の北浜の雰囲気が分かって面白いが、カネカネカネの世界で、読んでいて嬉しくはない。イエスは「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われた。(『世間胸算用』5-2の「才覚の軸すだれ」の主張とは逆の例が出てくる。いや、逆ではない、9歳くらいから仕事をさせるのであってそれまでは遊んでいると考えられるから。・・・? )

 

 (補足)(カネの世を相対化するものは?

 このカネカネカネの世界に普遍的教養への志向はない。世界への貢献の志がない本居宣長上田秋成は商家だが学問(国学)に励んだ。家業をおろそかにしていることへの劣等感はあったかも。渋沢栄一は『論語と算盤(そろばん)』で商人は儒学を勉強し倫理観を確立すべきだ、と言った。江戸末期には富裕な農民や商人が儒学を勉強し、場合によっては尊攘運動の志士となった。緒方洪庵は蘭学塾を開いて俊秀を育てた。大村益次郎や福沢諭吉が育った。洪庵自身が医術で献身的に全国に奉仕した。カネカネカネの世界ではない。でも武家(または準・武家の医師)で原資があったからできたことかも?

 都の普遍的教養への憧れ(コンプレックス)を持ち続けると、子供を都に遊学させ高学歴にしたいと思うようになる。それで身代を使い果たすことも。(高村光太郎の妻・長沼智恵子の福島の実家を見よ。宮沢賢治とその妹・トシの花巻の実家を見よ。田舎の金持ちで、子供を都会に遊学させた。)

 学問でなくスポーツでも同様。子供に沢山カネを入れて都会の私大に入れスポーツをさせるが・・? 

 芸事はどうか。上流階級の社交に使うためにお茶、お花、お習字の類いを学ぶ。それを学んだ者だけが「教養人」だと思い込み、学んでない者を差別し排除する。そんなやつは「教養」があるとは言えない。「教養」の意味の考察が足りないのだ。「教養」とは何か? ぜひ勉強し直してみて下さい。自分の誇る「文化」「文明」「教養」なるものを使って他を差別・排除する者を、キリストなら「それは違う」「偶像崇拝だ」「あなたは、神のことを考えず、自分の事を優先している」と批判するだろう。(釈尊はもちろん。)

(ヒント)

 中世の「アルス・リベルテ」とは。ドイツ貴族(田舎の成り上がり)の「教養」とは。ヘルダーヘーゲルはどう言っているか。旧制高校や帝大の「大正教養主義」とは。アメリカの民主社会における一般教育科目とそれを取り入れた戦後の日本の大学の「一般教養」とは。自称セレブマダムたちのお上品な「教養」とは。社会に適応するだけでなく社会を変革していく力を持つ「教養」とは。

(参考)カール・ヒルティ『幸福論』、竹内洋『教養主義の没落』、吉見俊哉『文系学部「廃止」の衝撃』、浜尾実『心美しい女の子のしつけ』(今ならフェニズムの観点から批判されるだろうか? だが、「心美しい子ども(男女とも)のしつけ」と題を変えて考えてみましょう。)『気品ある生き方のすすめ』(浜尾実は現在の天皇陛下の教育係。)

 

(6)『世間胸算用』1692年=元禄5年刊

(5-2「才覚の軸すだれ」)

 町人の子の知恵才覚とまっとうな生き方とは? が描かれる。実は結構まっとうな倫理観が描かれる。

 習字屋の師匠に向かい、「自分の子は筆の軸をあつめて簾をこしらえ小金を稼いだ、将来が楽しみだ」と自慢する親があった。師匠は言った、「そんな風に気の付く子は金持ちにならない。もっとすごい子もいる。他の子が捨てた紙屑(かみくず)を拾って伸ばし屏風屋に売ってもうけた子。紙の不足した子に利息をつけて貸した子。これらは親のせち賢い気分を真似ただけで、自然と出る本人の知恵ではない。ある子は、親の言いつけを守り手習いに精を出した。そういう子は将来家業に専心するので金持ちになる。家業を変えてうまくいく例は稀だ。貴方の子も感心しない。子供はまずは子供らしく遊び、知恵の付く頃に身を固めるのがよい。」結果を見ると、軸簾の子は草履の裏に気をつけるアイデアを出したが流行らなかった。紙屑の子は松脂(まつやに)塗りの土器を売り出したがかえって貧しくなっている。手習いに精を出した子はその後油が凍らない油樽(あぶらだる)工夫を編み出し金持ちになった。松脂塗りの土器と油が凍らない樽と、人の知恵は随分違うものだ。

・・・親の家業をまじめに継げる人が大成する、と言う。目移りする人はダメダ、と。だがそれは江戸時代というあまり変化のない時代だからこそ言えることで、変化のめまぐるしい現代では通用しない、と言ったらどうなる? 子供時分は花をむしり凧揚げをして遊べと言っている。「よく遊び、よく学べ」と言うが、幼少時の遊びの中で培われるものがあるのであって、幼少時からカネ儲けに従事するべきではない(少年労働は不可)、現代なら早期英才教育と称して(将来により有利なポジションにつくための)奇妙な塾通いなどをするな、ということか。だがいつまでも遊んでいていいとは書いていない。ある年齢になったら身を固め家業に精を出せ、と。ある年齢になったら家業に精を出さねばならぬのだろうか? いつまでも学生の人がいてもいいと私は思う(修行僧はどうですか)が、そこはこの習字屋のお師匠さんの思想(価値観、考え方)なのだろう。笑い話に見え、案外まっとうな倫理観を語っているようだが? それはまた当時の人びとの生活感覚でもあったか? 家業に精を出さずアイデアを出しては没落する人も元禄バブルの時代にはあったかもしれない。家業がある人はいい。でも家業のない人は? すると家業のある層にとっては、「家業専念」の倫理観を再生産するハナシ、ということか?(現代で言えば、親が医者なので子にも医者を目指させるとか、親がスポーツ選手なので子にもスポーツをさせるとか。)当時識字率はすでに相当高かったとは思う(よく知らない)が、字の読めない層は読者ではなかったかも? 

 

(補足)(子ども時分から金儲けをしたかどうか?)

 孫正義は子供時分から金儲けの発想がすごかったと言われる。高校を中退してアメリカに行った。松下幸之助は4歳の時親が没落し9才で自転車屋さんに丁稚奉公に出てそこで仕込まれたと言う。(本作の手習い修行にあたるのか?)シュリーマンは貧しく14歳で中等学校を中退、小僧、船員、配達員などをしながら勉強し貿易商になって大金持ちになったが、専門的な歴史教育を受けていないので、のちに遺跡を発掘するときに専門家と対立することになったと言われる。孔子は幼いとき父親が亡くなり貧しかったのであらゆるアルバイトをした。様々な世事に詳しいが、それが君子のやるべき最大事とは考えなかった。15歳で学問に志しあらゆる機会を捉えて学び続けた。釈尊は王家の出身だったが家出して修行した。(父王が見守り隊をつけていたとの見方も。)

 

(2-4「門柱も皆かりの世」)

 冒頭の、年末に集金係を撃退する方法が衝撃(大爆笑)だ。ここだけでも読むと面白い。

 当時はつけ払いで買い物をし、年末には支払いをしないといけない。だが、集金にきた者に対し「出せぬものは出せぬ」と脅して撃退する者がある。その手口を知り抜いてしっかりと大金を取り立てる者がある。もっとうまいやり方があるよと教える者がある。

・・・カネのない世界でいかに借金を踏み倒して(またはそこからカネを取り立てて)生き延びるか。笑い話だが、悲惨なハナシでもある。当時の庶民の置かれていた現実が見える。

 

 暉峻康隆(てるおかやすたか)(早大)(小学館日本古典文学全集の解説)によれば、西鶴は初期には美的・道徳的な批評眼が旺盛で教訓と娯楽(説話)を提供しようとしていた。が、「銀(かね)が銀をもうける世の中」(人間の努力ではどうにもならない。生まれつきの大資本家だけが肥え太る)の現実を見た挙げ句、資本がなくみじめで滑稽な生き方を強いられている中下層町人の運命を描写することになった(『万の文反故』『世間胸算用』)。典型的な主人公を登場させず無名の大衆の集団として描写するのも、貧しい人びとの存在を悲しむゆえだ。大略このように暉峻康隆は言う。面白い指摘だ。言われてみれば確かにそうで、西鶴は、貧しい人びとの苦しみを、笑いを交えながら描くが、その実態を非常によく見つめ、愚かしくも悲しくつらいものとして涙を持って見つめている、と思う。そこが魅力だ。

 一方に大富豪がいる。例えば堺辺りに住み、手堅く金貸しをしている。遊里に狂えば直ちに没落する。だがそうではなく手堅く財産を守ると言う。彼らはその後どうなったのだろうか? 

 

3 大阪関連の作家など

井原西鶴:大坂生まれ。『好色一代男』『武家義理物語』『世間胸算用』『日本永代蔵』

松尾芭蕉:伊賀生まれ。江戸で暮らし、諸国を旅し、最後は大坂で死んだ。

上田秋成:大坂生まれ。『雨月物語』『春雨物語』(本居宣長と同時代)

福沢諭吉:大坂生まれ。啓蒙家。『学問ノススメ』『福翁自伝』など。

与謝野晶子:1878堺の商家の娘。『乱れ髪』

谷崎潤一郎:1886東京生まれ。関西に移住し『春琴抄』『細雪(ささめゆき)』などを書いた。

今東光:1898~1977。生まれは大阪ではないが、大阪の河内の寺の住職を長年務め、河内を舞台にした作品を多く発表した。『闘鶏』ほか。

川端康成:1899大阪生まれ、一高から東京帝大へ。ノーベル文学賞。『伊豆の踊子』『雪国』ほか。

三好達治:1900大阪生まれ。詩人。詩集『測量船』

梶井基次郎:1901大阪生まれ、京都の三高から東京帝大へ。『檸檬』ほか。

丸山真男:1914大阪生まれ。政治学者、思想家。『日本の思想』『日本政治思想史研究』

司馬遼太郎:1923大阪生まれ。『燃えよ剣』『竜馬伝』『坂の上の雲』ほか。

山崎豊子:1924大阪生まれ。『白い巨塔』『大地の子』『沈まぬ太陽』

田辺聖子:1928大阪生まれ。『むかし、あけぼの』は『枕草子』を小説化した。『新源氏物語』もある。

手塚治虫:1928豊中生まれ。マンガ家。『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』

開高健:1930大阪生まれ。『裸の王様』など。

小松左京:1931大阪生まれ。『日本沈没』

小田実:1932大阪生まれ。旅行記『何でも見てやろう』

筒井康隆:1834大阪生まれ。『時をかける少女』『文学部唯野教授』

眉村卓:1934大阪生まれ。『なぞの転校生』

梁石日:1936大阪生まれ。『血と骨』など。

宮本輝:1947神戸生まれ。大阪にもいた。『泥の川』『道頓堀川』など。

髙村薫:1953大阪生まれ。『レディー・ジョーカー』『太陽を曳く馬』『土の記』

東野圭吾:1958大阪の生まれ。『天空の蜂』『流星の絆』