James Setouchi

2025.3.21

丹羽文雄『蛇と鳩』  新興宗教を作る話     

 

1        丹羽文雄

 1906(明治37)年三重県四日市市生まれ。父は浄土真宗高田派の僧侶。家庭の事情で母が家を出た。文雄は幼少時得度した。県立富田中(現四日市高校)を経て大谷大学に行かず早稲田の第一高等学院から早稲田大学文学部国文科へ進む。尾崎一雄らを知る。卒業後一時僧職に就くが家出、上京、創作に専念した。昭和10年代には国策で漢口やソロモン海戦に従軍。昭和28年『蛇と鳩』で第1回野間文芸賞。昭和35年『水溜り』、昭和37~41年『一路』連載、昭和39年『汽笛』、昭和40~44年『親鸞』連載、昭和45年仏教伝道文化賞。2005(平成17)年没。(集英社日本文学全集の解説などを参照した。)

 

2 『蛇と鳩』1952(昭和27)年朝日新聞に連載。作者48歳。

 戦後にカネもうけのために新興宗教を作る話。作者は実家が浄土真宗の寺で、宗教に対しては格別の(愛憎からまる)思いがあるはずだが、ここでは、いかがわしい新興宗教を作ってカネもうけをする男、それを見つめる男、それに教祖として担ぎ上げられる男、その周囲の女たち、信者たちの姿を通して、戦後の社会風俗を描き、ひいては人間の業とも言うべき切なくもあやしげなものを描いていく。結構面白い

 

  舞台は東京が中心。時代は、1952(昭和27)年の立太子礼が作中に出てくるので、昭和27年とわかる。保安隊(陸上自衛隊の前身)が出てくることとも整合する。描写によれば、池袋や渋谷にはまだ戦後のごみごみしたマーケットや焼け跡があった。人びとは貧しく、戦争の傷跡も癒えていない。新興宗教が沢山登場した。

 

(登場人物)(なるべくネタバレしないように)

緒方:全編を見つめる男。古久根に学資を出して貰い東大を出たが古久根に書生のように使われている。古久根と同じ価値観ではない。長身。

古久根:新興宗教を作ってカネ儲けをしようとしている。やり手。緒方に、教祖にふさわしい男を捜してこいと命ずる。資金は、外国との麻薬取引で稼いだ。花瀬の会社の幹部。

三貴:古久根の妻。夫の女癖の悪さに怒る。

市瀬千恵:今は古久根の世話になっている若い女性。市瀬家は栃木で戦時中古久根家の世話をした。

サト:古久根の家の女中。

以久田吟子:女実業家。やり手。

花瀬供助:古久根と緒方の会社の社長。昔古久根の世話をした。

浅香:池袋のごみごみした町にいた祈祷師。緒方がスカウトし、古久根の作る新興宗教の「明主様」に収まる。

真鍋:緒方の友人。東大法学部卒。新興宗教・セピア教の信者。

三柳静代:浅香の信者。

林ツネさま:祈祷師。

 

(コメント)(かなりネタバレ)

 古久根は新興宗教を作ってカネ儲けをしようとしている。最初からその設定なので、この新興宗教・紫雲現世教の、信者獲得のあの手この手のノウハウを開陳し、それらがすべてインチキだという前提で話が進む。(他の新興宗教についても、沢山の名前が出てくるが、まじめな宗教も当然あると私は思います。あくまでも本作に描かれた、架空の新興宗教・紫雲現世教の話です。)他方、新興宗教も、戦後の辛い人びとの心の慰めにはなっている、と書いてある。古久根の動機は不純だが、そのために様々な新興宗教をリサーチし、今から作る新興宗教の教祖にふさわしい人物を見つけてくるように、古久根は緒方に命ずる。

 

 緒方のリサーチは、一種のフィールドワーク(宗教社会学、あるいは比較宗教学の)になっている。狂信者でもなく、古久根のやりかたに全面賛成でもない緒方は、新興宗教のやり方を比較考量し、その功罪を考察する。緒方は、途中で、人びとの真剣な信仰心の存在を認め、人間には深い精神の世界がある、それはカネを儲け人をアゴで使うだけの古久根の知らない世界だ、と感じる。

 

 教祖に選ばれたのは浅香。すでに祈祷師だったが、彼を聖なる特別な存在として演出し、宣伝する。宣伝方法も巧妙だ。今日の政治的プロパガンダや商品のコマーシャルもなどもこのようにやっている例が結構ありそうだ。そのうちに浅香自身が自分は真実に「明主さま」で人たすけをしているのだと思いこみ始める。

 

 信者たちはそれぞれに悩みがあり、信じやすく、奉仕的だ。善良なのだ。信じることで病も治り、話を聞いて貰え帰属する場所ができることでメンタルにも救われ、奉仕活動をすることで生きている意味を感じることもできる。新興宗教でなくても、政治団体などでもありうる話だ。フロム『自由からの逃走』参照。

 

   信者たちの姿を古久根は愚かな「馬鹿」どもだという目で見ている。古久根にとって自分の作った新興宗教はカネ儲けの手段でしかない。これは徹底している。だが、翻って考えてみると、カネを信じそのために奔走する古久根は、カネの亡者、カネの信者だ。良識ある人から見ればおかしなことだが、古久根はカネをご本尊として信仰しているといるのだ。本当の愚かな「馬鹿」は誰だったのか。・・・おや、今の日本でも同じことが・・・?

 

 新興宗教を作る話に、男女の話をからめる。古久根と妻と吟子。緒方と千恵。浅香と女信者。祈祷師は暗い密室で女性にマッサージをするので、性的過ちを犯しやすい。この点を語り手(作家・丹羽文雄、と言うべきか)はエロティクにではなく、冷たく描写する。解説の竹西寛子は「冷え冷えと」と評する。人間の愚かな愛欲、煩悩は、業のようにつきまとい、それで人が幸せになれるわけではないのに、人はその道に踏み込み、不幸になる。作家はそう言いたげだ。ここは恋愛に憧れる若者が読んでも分からないかもしれない。シニアの方ならおわかりになるだろう。親鸞聖人は「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとく・らん)、愛欲の広海に沈没し・・」と言われた(『教行信証』)。男女の関係だけではない。貪(むさぼ)り、名利(名誉と利益)、勝ち負け(修羅=しゅら=の心)などなど、人間がとらわれる欲望・煩悩は多い。わかっていても絡め取られるのだ。恐ろしいことだ。しかも時代社会の趨勢がそれを後押しする。

 

 最後に破局とドンデン返しが訪れる。ここではネタバレしない。

 

 本作には、多くの新興宗教や既成宗教の名が出てくる。戦後社会を生きた人にはいずれも周知の名前だが、今の若い人には初耳かもしれない。オウム以降「宗教は怖い」になってしまっているが、戦後は「貧・病・争」に苦しむ人が多く、宗教が人びとの救いになってきたこともまた事実だ。中には怪しげな宗教があったことも。

 

 信教の自由、精神の自由は尊重されなければならない。但しカルトの罠に陥ってはならない。そのためには?

 

 なお、本作は映画化された。(未見)

 『一路』という自伝的小説があって読み応えがありそうだが、その辺では売っていないようだ。

 

(参考)

島薗・釈・若松ら『徹底討論! 問われる宗教と〝カルト〟』(NHK出版新書、2023)は現代のトップの宗教学者・宗教者6人の対談で非常に有益。

毎日新聞社特別報道部宗教取材班『宗教を現代に問う』(角川文庫1989)は少し昔の本だが面白かった。日本の新興宗教は世界に布教している。オウムは出てこない。

島田裕己『日本の10大新宗教』『教養としての日本宗教事件史』は読みやすく知識が増える。

礫川(こいしかわ)全次『日本人は本当に無宗教なのか』も面白い。

髙橋和巳(かずみ)『邪宗門』(小説)は大本教を思わせるが、あくまでも虚構。本作のひのもと救霊会がイコール大本教ではない。

泉秀樹・加藤宗哉『率直に聞こうあなたはなぜ神など信じるか』は有名人との対話で、面白い。

内村鑑三『基督(キリスト)教問答』は内村鑑三のキリスト教理解を知るのに便利。迫力がある。『代表的日本人』も必読。

三浦綾子『塩狩峠』(小説)の前半にはキリスト教と日本の道徳との比較があって面白い。『愛の鬼才』(伝記小説)は札幌の西村久蔵を描く。

紀一義(きのかずよし)『高僧列伝』は有名なお坊さんの列伝で、入門用によい。

高瀬広居『仏音』(朝日文庫)は既成仏教諸宗の高僧が語る。これもなるほどと思った。

椎名麟三『重き流れの中に』(小説)もお薦め。

村上春樹『約束された場所で ポスト・アンダーグラウンド』はオウム信者にインタビューしている。

ニーチェ『キリスト教は邪教です』は、キリスト教世界に育ったニーチェがキリスト教に対するルサンチマン(怨恨感情)をぶちまけて書いている印象。私見だが、キリスト以来2000年の中で、護教的な思想、改革思想、異端思想、反キリスト教思想などなどが様々に出てきた。その一つではあるがその一つにすぎないと言えば言えるのでは? ニーチェを取り巻いていた環境をキリストその人が見たら、私はそんなことは教えていない、と言うかもしれない。

五野井郁夫・池田香代子『山上徹也と日本の失われた30年』(集英社インターナショナル、2023)は、統一教会問題に発する決定的な貧困を、しかそれだけではなくロスト・ジェネレーションや新自由主義の問題として大きく捉える。宗教問題は社会問題でもあるので、広く捉えることは大事である。

 

 紹介したい本は他にも沢山あるが、これくらいにしておこう。聖書、仏典、コーラン(クルアーン)を、解説も参照しながら舐めるように読むのは、いいと思う。よい師匠や友人があれば語り合うとよい。芥川賞の『ゲーテは全てを言った』の鈴木結生は、幼少時から聖書を読んでは話し合う機会を持っていたそうだ。彼の聖書理解は結構いいと思う。なお、聖書などは速読でなく「遅読」すべき本。十代から始めて何十年もかけて読むのだが、それでもまだ読み切れないし、読んでも尽きない味わいがある。