James Setouchi
2025.3.18
丹羽文雄『水溜り』『汽笛』
1 丹羽文雄
1906(明治37)年三重県四日市市生まれ。父は浄土真宗高田派の僧侶。家庭の事情で母が家を出た。文雄は幼少時得度した。県立富田中(現四日市高校)を経て大谷大学に行かず早稲田の第一高等学院から早稲田大学文学部国文科へ進む。尾崎一雄らを知る。卒業後一時僧職に就くが家出、上京、創作に専念した。昭和10年代には国策で漢口やソロモン海戦に従軍。昭和28年『蛇と鳩』で第1回野間文芸賞。昭和35年『水溜り』、昭和37~41年『一路』連載、昭和39年『汽笛』、昭和40~44年『親鸞』連載、昭和45年仏教伝道文化賞。2005(平成17)年没。(集英社日本文学全集の年譜他を参照した。)
2 『水溜り』1960(昭和35)年『群像』に発表。作者56歳。
短篇。表面的に読むと、戦後のあやしげな社会風俗を描いた小説かと見える。だがよく読むと、戦後(に限らないと思うが)社会で「水溜り」のように取り残された人びとの危うい状態を描いている、と私は思った。時代は工場の女工の月給が1万円足らず、パチンコや映画やレコードのある時代。本作発表の昭和35年より少し前の頃であろうか。
(登場人物)
田井:都会の若者。旋盤工。その父は工場の職長。母、弟、妹がいる。田井は夕食後映画に行ったりパチンコに行ったりしているうちに、二人の若い女性と出会う。そして・・
村子:若い女工。田井の職場仲間。痩せた女性。友人の百子とあるアルバイトをしている。
百子:村子の友人。肉感的な女性。
(コメント)(ネタバレ)(健全な青少年諸君は驚かないように)
村子と百子がやっているアルバイトは、何と、公園で通りすがりの男性を呼び止め、自分たちの下半身の写真を撮らせるというものだった。田井はそれにつきあうことになる。村子と百子が狙うのは、安全そうな家族連れの父親。会話で巧みに誘導し、金をせしめ、危険になる前に立ち退く。田井はそれを見て、感心する。知恵を使ってお金を稼ぎ、誰に迷惑をかけているわけでもない、と田井は考える。
だが、女性たちは稼いだ大金を好きな歌手のために惜しみなく使う。田井はこれを「ばかばかしい」と思いつつ「何となく心を打たれる」。田井は彼女たちを十分に批判できる目を持っていない。そういう田井に対して母親は心配する。語り手は、田井や女性たちを相対化し批判する視点を書き込んでいる。「田井=語り手」ではない。
本作をよく読めば、女性たちや田井のありかたを語り手は肯定してはいないことがわかる。むしろ、そのありかたの危うさを十分意識して書いていると見るべきだろう。
題の『水溜り』については、本文中に「水溜りは陽がてれば、乾いてしまう。じめじめした日がつづけば、水溜りはくさる。アルバイトは女たちにとっては水溜りに似ている。何が陽の役をつとめてくれるか。あるいは、水はくさるかもしれない。いつまでもきれいな水溜りでいられるはずがない。」とある。その含意はわかりにくいが、例えば、給料がよければ(あるいは夫に恵まれれば)アルバイトはしなくてすむ。景気が悪く給料が下がりいつまでもこのアルバイトをしていれば女性たちは堕落する。その中間にこのアルバイトは辛うじて成立している、という含意であろうか。
だがさらに、昭和30年代という、戦後の歴史の常識でいえば、社会全体が豊かになる途上で、取り残された貧しい女工たち、工員たちのことを「水溜り」と含意しているのかも知れない。戦前から貧富の差はあったが、戦後も焼け野原から出発して豊かになりつつあるとはいえ、まだ社会の片隅に残る「水溜り」のような場所に生きる「水溜り」のような人びと。それはもしかしたらもっと豊かになるかもしれないが、もしかしたら堕落して不幸になるかもしれない危険を持っている。しかも主体的能動的にこの仕事を選んでいるように見えて、実は受身で、社会の動静によって左右される存在だ。
貧富の格差があり将来の見通しもない社会の中で、それでも彼や彼女たちは、うまく立ち回っているかに見え、実は受身の危うさがつきまとう。彼らには確乎とした志がない。社会正義への問いがない。人格完成の理想がない。真理探究の姿勢がない。彼らは折角稼いだカネを歌手のコンサートに投げ出す。そのカネで勉強をすればいいのにと私は思う。(人は好きなように生きてよいが、彼らのためには惜しいことだと思う。)彼らは、戦後の(戦前からそうだったと思うが)、他に流されやすい、志のない、空虚な日常を送る、大衆だ。但し作者はそれを糾弾しているわけではあるまい。そうでしかありえない大衆をそうであるとして描いているのだろうか。そこに菩薩の慈眼があるとすれば、それは何も言わず田井を見つめる母の眼に現わされているだろう。
おや、どこかで現代(令和初期)の社会とよく似ているような・・・
本作は他の小説とドッキングし新しい物語として映画化された。主演は倍賞千恵子。(未見)
参考:橋本健二『階級都市』:東京は階級差がビジュアルに見える都市だ、と書いてある。
3 『汽笛』1964(昭和39)年『新潮』に発表。作者60歳。
短篇。横浜が舞台。時代は昭和30年代か。発表が1964年つまり東京五輪の年であることに驚く。日本は東京五輪をやって国際社会の表舞台に踊り出た。その同じ時期に、しかし華やかな表舞台の裏側にはこのような冷え冷えとした生活があったのだと実感させる。
(登場人物)
圭介:大学を中退後下宿の大家のいく子に言われマッサージ店の監督のような仕事をしている。
紀子:圭介の妻。かつて喫茶店で働いた。美しい女性。
いく子:長い間芸者をしていたが、闇屋の大槻に落籍されこの下宿の大家となった。大槻の死後は兼ねて関係のあった橋本とよりを戻し、大家業のかたわらマッサージ店を経営。
大槻:闇屋。いく子を落籍し妾として囲うが、なくなった。この下宿をいく子に残した。
橋本:マッサージ師。いく子と腐れ縁。賭け事ばかりしている。
麗子、紅子、雪子:マッサージ店で働く女性たち。
(コメント)(ネタバレ)
いく子はマッサージ店と下宿を巧みに運用して金を稼ぐ。いく子は知恵の回る、俗世の成功者だ。いく子は美しい人妻・紀子に磨きをかけ客商売で売り出してやろうと考える。圭介は橋本の出入りする賭博場にいるところを警察に逮捕される。紀子は生活上の心配から、いく子の斡旋する店に住み込む。紀子はやがて環境に染められて堕落、高級娼婦となって大金を稼ぐ。数年後・・・堕落して健康を害した紀子と、行き場を失って落魄した圭介が再会し、汽笛の聞こえる横浜で心中死を遂げる。
いく子と大橋は「自分らとは関係のないひとの噂をしているようであった。」とある。いく子は「まあ仕方がないやね、でも・・・」と口ごもる。「いく子は、何かをのぞいたような気がした。」と語り手は結語する。
いく子は、他人に決定的な傷を負わせ追い詰めてしまったことに対して、わずかに戦慄(せんりつ)するのみで、深くは考えず、無責任だ。同時に、いく子は、世俗的な金儲けの賢(さか)しらはあるが、自分の仕掛けたことで圭介と紀子が心中死を遂(と)げるとまでは考えていなかった、いく子の世俗的な小賢(こざか)しい知恵では、ついに予測も対応もしえないことが確かにある、と語り手は言いたいのだろう。
「何か目にみえない大きなもの」「何か大きなもの」が人間世界の向こう側にはある、といく子は感じている。それはいい方にも作用するが、人間の賢しらを遥かに超えて想定外の結果をも生む。その「大いなるもの」の前では人間は無力で小さい。