James Setouchi
2025.3.8
石坂洋次郎『陽のあたる坂道』 これもラブコメ?
1 石坂洋次郎 1900(明治33)~1986(昭和61)。青森県弘前市生まれ。父は古物商。母親が行商をいて得た資金で洋次郎は高等教育を受けた。弘前中、一浪の後慶応大文学部(予科、本科)に学ぶ。卒論は『平家物語』。在学中に同郷の女性と結婚。大正14年『海を見に行く』。弘前高女、秋田県立横手高女、横手中学校などに教師として14年間勤務。教師をしながら説小説を書く。多く『三田文学』に発表。『若い人』がベストセラーに。昭和13年(38才)教師を退職して上京、文筆のみの生活に入る。戦時中は陸軍報道班としてフィリピンに行ったことも。戦後昭和21年『青い山脈』が大ベストセラーに。昭和31~32年『陽のあたる坂道』連載。昭和33年『若い川の流れ』。昭和39年三田文学会会長。昭和42年直木賞選考委員。1986(昭和61)年没。86才。作品多数。『青い山脈』『陽のあたる坂道』などは映画化された。(集英社日本文学全集の年譜等を参照した。)
2 『陽のあたる坂道』
1956~57(昭和31~32)年『読売新聞』に連載。作者は56~57才。
舞台は東京。平和で豊かな時代。若い世代の恋愛に加え、大人世代の恋愛と結婚も描く。面白く、明るく楽しい大衆小説で、これもラブコメと言うべきか。
但し貧富の差(階層格差)、人間の表面の美しさと内面の善良さ、大人世代の苦しみなども描き込んでおり、やや深い内容になっている。
十代の人にもお勧めできるが、十代の人は登場人物の若者に感情移入して読むだろう。若い時期に一度読み、シニアになって再読してみるといいだろう。ケンカのシーンは出てくるが、性的描写は出てこない。今日では使わない差別表現も出てくるから要注意。当時は差別表現と認識されていなかった。
(登場人物)(ややネタバレ)
倉本たか子:東京の小石川のアパートに住む大学3年生。国文科。青森の雑貨店の娘。金持ちの田代家に家庭教師として赴き・・・
田代玉吉:自由が丘近くの緑が丘に住む富裕層で神田の出版社の社長。実は女性にだらしない面がある。
田代みどり:玉吉の妻。莫大な資産を持つ富裕層の家付き娘。昔山川を愛した。キリスト教徒。
田代雄吉:医大生。ハンサムで女性にモテる。やさしく、すべてが美しいが、実は・・
田代信次:画家を目指す若者。田代家の問題児。たか子に無礼な言動を繰り返すがなぜか憎めない。
田代くみ子:高校2年生。足が少し悪い。信次と仲良し。くみ子の家庭教師としてたか子はやってきた。
高木トミ子:たか子の小石川のアパートに庶民階級のおばさん。待合の女中らしい。実は・・
高木民夫:トミ子の息子18才くらい。尾張町(今の銀座の一部)のナイトクラブで「ジミー小池」として歌っている。
高木:民夫の父親。(出てこない。)
山川先生:田代玉吉の親友。54才くらい。。独身。大学の学生主事。クリスチャン。大学のかつてみどりと愛し合っていたが・・
板前の清吉、番頭の弥五郎、踊りの師匠のよね子、待合の女中の花子、煙草屋の隠居の初子、年増の芸者の竹子:高木トミ子の仲間。
八代ゆき:弘前の病院の看護師。
山形医師:弘前の病院の整形外科の医師。
原田雪子:新橋、銀座あたりのバーのマダム。三十代。
塩沢博士:産婦人科の医師。
川上ゆり子:健五の従妹。田代雄吉が手を出してひどい目に遭わせた女性。もとモデル。
上島健五:町の不良。信次にからむが・・
(コメント)(ネタバレ)
子供たちについて先に整理しておく。田代家長男の田代雄吉は玉吉とみどりの子。次男の田代信次は玉吉がトミ子に生ませみどりが育てた。田代くみ子は雄吉とみどりの子。また、高木民夫は、トミ子と夫・高木の子。よってトミ子が腹を痛めて産んだ子は信次と民夫。信次と民夫は母が同じ異父兄弟。信次と雄吉・くみ子は父親が同じ異母兄弟。高木民夫と田代くみ子は義理の兄弟だが血縁はなく、結婚もできる。
田代家は外面は理想的な家庭に見えたが、実際には問題を多く抱え、それぞれに孤独だった。夫・玉吉の浮気癖。過去にトミ子に生ませた信次を引き取って育てている。夫が浮気をするのは妻・みどりが金持ち階級の家付き娘で夫にとって窮屈な存在だからだ。みどりは体裁を作ろうために真実にフタをする。信次を忍耐して育てたので立派でもある。雄吉はハンサムな医学生で理想的な若者に見え真実は冷酷な女たらしの悪人だ。問題は何でも弟の信次に押しつける。信次は家庭の問題児だが人を差別せず真実を見抜く。「妾の子」と言われることが劣等感であり唯一の弱点だ。くみ子は信次の美点を見抜いている。足が悪くややひがんでいる。
そこに倉本たか子が家庭教師とやってきて、くみ子とともに成長。兄の雄吉と弟の信次の双方から求愛されるが、結局はみかけの雄吉ではなく心のある信次を選ぶ。田代家は一連の事件を経て変容する。玉吉と雄吉は女性たちにしてやられる。信次もくみ子もわだかまりから解放される。見かけの立派さにしがみつくみどりだけは置き去りの感があるが・・
実は田代玉吉とみどり夫人と山川の間にもかつて三角関係があった。みどりは山川を尊敬していたが「貴方は私にとって立派すぎる方だ」と山川を捨て玉吉と結婚。みどりは山川とも絶縁せず独身のまま自分のそばに置いておきたい。みどりがわがままな娘だとよくわかるエピソードだ。
たか子が雄吉でなく信次を選ぶとき(雄吉の正体を知らないまま)「貴方は私にとっては立派すぎるのですわ」と言う。
「貴方は私にとって立派すぎる」という同じ言葉が、二組のカップルにおける選択で使われているが、その結果は全く違う。
若い頃のみどりは、田代への恋情もあるが、山川というクリスチャンの人格が立派すぎるから窮屈だとして、世間的に出世する俗物の田代玉吉を選ぶ。結果としてみどりは富裕層の体裁を守る偽善的な家庭を築き、各自が孤独に陥ることになった。山川は文字通り立派な人格だ。
たか子は、信次への恋情もあるが、雄吉というハンサムな医学生が外面的に立派すぎるから窮屈だとして、堅苦しくない信次を選ぶ。信次は絵描きの卵であって世間的に通用しないかも知れないが、信次はこそ迷える子羊であって自分を必要としている、とたか子は考える。実は雄吉は冷酷な女たらしなのだがその正体を見抜かないままの発言だ。結果としてたか子は雄吉の偽善から解放される。信次と体裁にこだわらない信頼のある家庭を築くことだろう。
みどりの真の改悛(かいしゅん)と回心は描かれない。みどりは夫や雄吉のウソをたやすく見抜く眼力を持っているが、自分が上流階級の一家の体面を支えてきた自負がある。たか子の出現で一家の偽装が剥がれそうになり一時はたか子を馘首(かくしゅ=クビにする)しようかと考えるが、それでも馘首せずたか子を雇用し続けるのは、たか子によってもたらされる方向がくみ子をはじめとする一家のメンバーのためによいことだという予感があったのかも知れないが、しかしみどり自身の改悛と回心は描かれてはいない。もしかしたらみどりこそ最も救済を必要としている人間かも知れない。みどりが大事にしてきた外づらのよい雄吉のアイデンティティが崩壊し雄吉が家出してからのみどりの変容が大事だと私は思った。
(注:改悛・改心・後悔・反省などと回心はじつは違う。キリスト者なら知っている。)
富裕層のうわべだけをつくろう偽善・欺瞞的なあり方では互いが孤独になるばかりでそこに幸福はない、これに対して、誠意を持って本当のことを知り話し合ってこそ真の信頼関係は築ける、というメッセージが明確な小説だ。小石川のアパートにおける善良な庶民たちの人情味あふれる濃密な人間関係も好意的に描かれている。
「富裕層=偽善的で不孝、庶民階層=真実味があって幸福」という図式は、あまりにも単純だ。実際には富裕層で幸せな家族もあるだろうし、庶民階層で裏切りあって不幸になることもある。だがそうは書いていない。路上の不良の上島健五ですら根は善良だ。(信次がその善良さを引き出す。)民夫の実父の高木はDV夫でトミ子をひどい目に遭わせるが、トミ子はそれでも赤木は本気で自分を見てくれた、と言う(ここは私には納得しがたい部分であったが)。トミ子の友人で男や女に欺かれ逃げられた人びとも出てくるが、それらは深くは追究されない。富裕層は金はあるが欺瞞に満ち、庶民階層は楽しく裸の付き合いをする、という図式が明白だ。TVドラマにすれば庶民に人気が出るだろう。
階層差(貧富の差)はエリアの差とともに明確に書き込まれている。自由が丘近くの緑が丘に住む田代家は富裕層。田代玉吉は社長。妻は専業主婦でいわゆる良妻賢母。子供たちは医学生、絵描きの卵、女子高生。金銭的には恵まれているが、家庭の秘密があり、体裁を整えるために家族はそれぞれに孤独を抱えている。小石川に住む高木トミ子は庶民階層。戦時中幼い民夫を抱えて大陸を彷徨ったことも。しかし気の置けない仲間がいて楽しく暮らしている。その子民夫は進学する金がないので繁華街のナイトクラブで歌っている。地方出身のたか子はトミ子らと同じアパートに住む。(橋本健二『階級都市』(ちくま新書、2011年)も参照されたし。)
東京と地方の関係も少し書き込まれている。たか子の出身地は青森。雪が多い。弘前の病院にたか子の実家の雑貨屋から男衆が料理を届ける。病院の山形医師は、東京から来た医学生・田代雄吉と医者同士で話が通じる。この点は東京と地方は、差はあるが、共通する面もある。看護師の八代ゆきは東京の医学生の雄吉に夢中になる。雄吉は山形のことを「いやな田舎医者だな」と感じる。
キリスト教に関連する表現が少しある。山川は堅苦しくないクリスチャン。田代家もクリスチャンでみどりは家で讃美歌を歌う。山川は田代みどりを見ると「白く塗った墓」に似たパリサイ人(マタイ23-27)を連想する。山川の目に、みどりは偽善者なのだ。(弘前の病院でたか子の見た死者の足が白い、という描写がある。本作では「白」は「死」に近い。)山川は自分と田代玉吉の関係をキリストとユダになぞらえる。キリストはユダの人柄を知りつつ遠ざけなかった。たか子は迷える一匹の羊のそばに行くと言う。たか子にとって信次がそれだ。だが、これらの思索はそれ以上は深まっていないように感じる。当時流行のキリスト教の言葉を借りただけか。(マタイ23-27「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。23-28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」)
禁欲主義のふりをするのがパリサイ人で、禁欲主義から解放されてゆったりと過ごすのが非パリサイ人、という解釈もあり得る。だが、本作ではそうはなっていない。虚偽で体裁を繕う富裕層のみどりがパリサイ人だとして山川によって批判される。清貧な禁欲主義のふりをしても、禁欲主義から解放されたふりをして金と体裁の奴隷になっても、神から離れ偽善に陥っていることに変わりはない。せめてここへの言及が欲しかった。信次はキリスト教の教義を振り回したりしないが、偽善を見抜き真心で誰とでも仲良く付き合うことができる、気持ちの良い青年だ。
なお本作も映画やTVになった。
(補足)『陽のあたる坂道』ではなく『青い山脈』の話だが、かつて西尾幹二は「『青い山脈』再考」(『新潮』1997.7)で①女性上位への懸念(けねん)、②アメリカへの迎合(げいごう)意識、③国家意識の欠如、個人主義偏重への懸念、④戦後民主主義と作品の賞味期限切れ、という観点から『青い山脈』を批判したという(千葉慶「『青い山脈』的なるものゆくえー「戦後民主主義」の限界と可能性に関するジェンダー史的考察」(『ジェンダー史学』13巻(2017))。この西尾の言う①~④は、『陽の当たる坂道』についても、共通する特徴があるだろう。但し、西尾はこれらを批判したが、私は、『陽のあたる坂道』について、西尾とは反対のことを言っておこう。
『陽のあたる坂道』は①女性上位とまでは言えない。対等・平等であることは女性を下位に見て隷属させるのに比べかるかにいいことだ、②アメリカ迎合とは言えない、軍国主義時代に比べアメリカから民主主義(フランクに話し合ってより良い社会を築いていこうとする)が入ってきたことは良かった、③全体主義=国家主義偏重から脱して良かった。もっと個人は尊重されるべきだ、国家のために生きかつ死ねという思想(すべての価値の源泉を国家に置く思想)は偏っている、④戦後民主主義も作品も賞味期限切れではない、むしろ民主主義の理想は理想として掲げ続けそこへ向けてたゆまぬ努力を続けていくべきものであって、たやすく民主主義を否定したり戦前に回帰したりすべきではない、かつ本作も今(2025年)読んでも結構面白く、考えさせてくれるものがある、いまだ民主主義の理想は十分実現できたとは言えない、話し合わず閣議決定で決めてしまう内閣があったではないか、言論・思想・信教・学術研究の自由を踏みにじるケースもいまだあるではないか、諸外国にも民主主義が踏みにじられている場面があるではないか、日本はそうなってはいけない、と反論しておこう。
(補足2)
その後の彼らは・・?(書いていないが)
倉本たか子は国文科を出て国語教師になるかもしれない。信次と恋愛結婚し売れない絵描きの信次と生活するかもしれない。信次と別れて青森に帰る可能性もある。
田代くみ子はまだこどもだから将来は分からない。ジャズシンガーの民夫と恋愛結婚し自分も音楽をするか、バーを経営するか? あるいは民夫と別れて結局富裕層に嫁入りするか?
弘前の八代ゆきは看護師を続ける。医師と結婚し病院長夫人となり経営に苦労するか、あるいは?
銀座の原田雪子はバアで働く。社交が好きだから結婚しても今の仕事は手放さないと言うシーンがある。だが年を取り金持ちと結婚すれば引退するかも知れない。川上ゆり子も同様か。
高木トミ子とその友人たちはすでに年をとっており生活のためにいやおうなく働かざるを得ない。
田代雄吉はこれに懲りて行いを改めるだろうか。懲りずに同じことをするだろうか。医師にはなるだろう。
田代玉吉は少しは懲りたので大人しくなるのでは? 社長の座は降りられない。
田代みどりは、大事にしてきた雄吉がダメージを喰らったので、母のみどりもダメージを喰らうはずだ。だが、どう変容するかはわからない。体裁よりも内面を重視する生き方になるか、今までのままか。
山川は独身のままか、原田雪子と結婚するか、あるいは?