James Setouchi

2025.3.5

 

 石坂洋次郎『海を見に行く』 学生結婚をした青春

 

1 石坂洋次郎 1900(明治33)~1986(昭和61)。青森県弘前市生まれ。父は古物商。母親が行商をいて得た資金で洋次郎は高等教育を受けた。弘前中、一浪の後慶応大文学部(予科、本科)に学ぶ。卒論は『平家物語』。在学中に同郷の女性と結婚。大正14年『海を見に行く』。弘前高女、秋田県立横手高女、横手中学校などに教師として14年間勤務。教師をしながら説小説を書く。多く『三田文学』に発表。『若い人』がベストセラーに。昭和13年(38才)教師を退職して上京、文筆のみの生活に入る。戦時中は陸軍報道班としてフィリピンに行ったことも。戦後昭和21年『青い山脈』が大ベストセラーに。昭和31~32年『陽のあたる坂道』連載。昭和33年『若い川の流れ』。昭和39年三田文学会会長。昭和42年直木賞選考委員。1986(昭和61)年没。86才。作品多数。『青い山脈』『陽のあたる坂道』などは映画化された。(集英社日本文学全集の年譜等を参照した。)

 

2 『海を見に行く』

 1927(昭和2)年『三田文学』に発表、好評となる。25才で書いた、少年時代のものを除く処女作。 自らの新婚生活に材を取ったユーモア青春小説。本作を読んで一度も笑わない人はいない、と言われる。

 

(登場人物)

私:慶応の学生。新婚で、池上本門寺近くに住む。

フク子:「私」の妻。「私」と恋愛で学生結婚したが今は夫婦喧嘩を派手にしている。

ハルキチ:二人の子。

室田:「私」の友人。田舎を出奔してきて「私」の家に転がり込む。絵描きの卵。

武村:神学生。狸穴に下宿。(実際には出てこない。伝道説教に出かけたとあるから、神父か牧師の卵だろうか。)  

 

(コメント)

 夫婦げんかが面白い。「・・よし、俺アたった今家出する・・」「へん、とんだドストエフスキーだよ。貴方アなんか天才を気取ったらいい笑いもんだよ」「低能。ドストエフスキーがいつ家出した。ドストエフスキーの細君はな、夫がバクチで一文なしにとられて家へ帰ってくると、零下何十度という寒い時候なのに着たぎりの羽織を質に入れて酒を買って慰めてやったんだ。家出したのはトルストイだい、へっへっ」「・・・そりゃトルストイもしたわ。だけどドストエフスキーだってしたんだよ。あの人は若いときシベリヤの監獄に入れられたりなんかして・・・」「うーるせエ、俺はドストエフスキーが家出したなんていう珍しい話をする奴とはいっしょに住みたくねえんだ。俺が出て行って困るなら、貴様が出て行け、たった今出ろ」・・夫婦喧嘩にドストエフスキーを使う夫婦ははじめて見た。しかも二人は実は恋愛結婚で仲がいいのだ。

 

 学生気分が抜けず室田との友情は大切にするが、それが夫婦喧嘩の原因でもある。生活力のない室田はまた、将来の不安な「私」がそうなるかもしれないもう一人の「私」の姿でもある。

 

 青春期の将来への不安が書いてある。(1)経済的には自立できず妻の親の資金で生活は成り立っている。「私」の親に送金を頼むと、かえって「弟が上京するから世話をせよ」と手紙が来る。家からの手紙を見ると「小僧奉公」に出た父親の血が自分の中に生きているような気がして憂鬱だ。自分はいまだ定職はなく、求職中だ。ハルキチは幼く、フク子のお腹には二人目も居る。(2)他方、「私」はドストエフスキーを話題にし、数少ない友人は浮世離れした画学生や神学生だ。「私」は経済社会から自由・独立な精神の世界(文学、芸術、宗教)を求めている。「天が下の大学生」(当時大学生は稀少な存在)としての自負はある。(3)同時に、「私」には大学の教室は憂鬱だ。「煙草をふかすと煙がいつまでも立ち澱んで、この冷たい建物の隅々にのろくさと四肢をひろげて懐疑する一つの青春が、重たく胸にのしかかってくるのだ。」「私」は「暗い絶望感」にしばしば襲われる。

 

 ここは少し注が要る。小僧や船員や職工がチラと出てくる。大正末年ころの貧富(階層)の差、経済の不安が出てきている。(1925年は大正デモクラシーの時代でもあるが治安維持法制定の年でもある。)「私」は「小僧奉公」はいやだ。田舎の商店の「小僧」も都会の慶応を出たエリート会社員も、勤め人であり経済社会に使役されていることに変わりはない。「私」は「天が下の大学生」を気取りしかも文学部的な精神世界の住人であろうとする。そこに優越感・自負がある。他方慶応・三田のキャンパスで憂鬱になるのは、書いていないが、経済エリートになることを拒むだけでなく、地方出身者の劣等感もあろう。

 

 図式的にまとめれば、東京と地方の二元があり、東京にも貧富の差があり、大学にも経済社会のエリートを目指す世界と文学部の芸術・神学など精神のエリートをめざす世界がある。「私」は経済社会に使役される勤労者ではなく、そこから自由・独立に文学・神学・芸術を語る者だとの自負を持つ。だが「私」はまだ何者でもなく不安で、しかも田舎出身で東京の学生にコンプレックスがある、というところだろう。(石坂自身は津軽の出身で、慶応の理財科ではなく文科に、両親の反対を押し切って入った。)

 

 ラスト、室田と「私」は海を見に行く。「私は・・なにかもの欲しげな気持で遥かの中空に浮く雑然とした街の物音に耳を傾けた。」とある。「私」は都会の雑踏に何かを期待している。「私」はまだ青春の途上にあり、人生はこれからだ。(妻があるのに「純真な恋愛(ラブ)をしたい。」と青春の憧れを語る-。これについては略。)

夫婦げんかをユーモラスに描き読者を笑わせながら、青春時代の不安と期待をうまく書き込んだ小説だと言える。

 

 なお、葛西(かさい)善蔵太宰治という同じ津軽出身の作家を尊敬し、自虐的描き方などで影響を受けている、しかし「破滅型」でなく、水上滝太郎の影響もあって、生活をきちんと整えることも大事だと石坂は知っていた、と山本健吉は書く(集英社日本文学全集解説)。

 

 実際の石坂は地方の教師を14年間務め生活を手堅く積み上げる中で小説を書く。