James Setoushi

2025.2.22

 

読書会 清少納言『枕草子』R7.4.19(土)予定 その5

 

内容

(4)      151「うつくしきもの」 (類聚的章段)

 有名な章段だが、教科書に載るのは前の方だけで、実はもっと長い

 清少納言が自分で列挙したのか、それとも宮中サロンで仲間と会話しながら列挙したのか?(田辺聖子『むかし、あけぼの』では、気の合うBFと挙げた、中宮定子と挙げた、女房たちと挙げた、などとしている。)

 

 清少納言(たち)の感性が分かると同時に、当時あった文物を知る手がかりにもなる。

 

 「うつくし」はここでは「小さくてかわいらしい」の意味。奈良時代は家族への愛情を意味した。(「慈(愛)(うつく)しむ」と同根。→のち「慈(愛)(いつく)しむ」)平安期は「小さくてかわいらしい」の意味になり、中世以降「美しい、綺麗(きれい)だ」の意味になった。

「労(らう)たし」は「いかにも弱々しげでこちらが苦労してやりたいほどかわいい、愛くるしい」。

「綺麗(きれい)なり」は「美しく華やかだ、汚れがなく清潔だ」の意味。室町以降。

「うるはし」は「壮麗(そうれい)だ、きちんと整って立派だ」の意味。

「きよし」は「清澄(せいちょう)で美しい」。反対語は「きたなし」。

「きよげなり」は「すっきりとして美しい」。

「きよらなり」は「気品があって輝くように美しい」。

「をかし」は「趣(おもむき)がある、風情(ふぜい)がある」「優美(ゆうび)で愛らしい」「見事で素晴らしい」など。「面白い、こっけいだ」は後世の意味。

「おもしろし」は「趣があって風流で興味深い」。(もとはアマテラスが岩屋戸から出てきて皆の顔が光って白くなったので「面白し」?)

「貴(あて)なり」は「高貴で美しい」。

「なまめかし」は「上品で優美で美しい」。もとは「なま」つまりまだ未熟めいて見えるさりげなさを含意したに違いない。さりげなく美しいのだ。(髙橋浩伸(熊本県立大学)「日本の美的概念に関する時代推移とその構成モデル 美的空間創造のための基礎的研究」(『美術工学会誌』No. 77, Oct. 2018)を参照した。)

「さやけし」は「清澄ですがすがしい」。

「雅(みやび)かなり」は「上品で優雅だ」。

「あはれなり」は「しみじみとして感動的なほど美しい、情趣がある、悲しい、嬉しい」など。

 

 なお、中国の漢字で「美」は羊が大きくて立派。「雅」はもとはカラスのグアァだが「雅」が「夏」(舞楽(ぶがく)を舞う人)に通ずるので周王朝の儀式・宴席で歌われた音楽となり「みやび」の意味になったとか。(白川静『字統』(平凡社)は面白い。一冊本なので買える。諸橋大漢和は買えないが。)「麗」は当然鹿(シカ)の角(つの)の美麗さからくる。

 

 さて本文で列挙されているものを見てみると、

 

「うり」はヒメウリか美濃(みの)産のマクワウリか。女児がおもちゃにして赤ちゃんの顔を描く。

「雀の子」が、人間が鼠の鳴き真似をすると、寄ってくる。『源氏』でも若紫が雀の子を伏籠(ふせご)に閉じ込めていた。雀が近辺にいて餌(えさ)をやっていたのか? 「雀の子」? やっと歩き始めたばかりということか、雀をそう呼んだのか。ワカラナイ。

「二つ三つばかりなるちごの・・」これはわかる。数えで2~3歳だから満年齢1~2才。

「あまそぎ」は、尼の短髪だが、肩くらいまで。丸剃り(寂聴刈り)ではない。むしろワカメちゃんカット。

「大きくはない殿上童(てんじょうわらわ)」とは。清涼殿の殿上の間に上がれる人は少ない。蔵人所の下役で公卿に奉仕した小舎人を「殿上童」と言うが、ここはそれではなく、良家の子弟で幼時に殿上づとめをした「童殿上(わらわてんじょう)」のことか(岩波体系補注)。立派な装束を着せられていた。

「ちごをちょっと抱いてかわいがっていると寝落ちした」これはかわいい。誰の子をどこで抱いたのか? 

雛(ひひな)」は今のひな祭りの雛人形と同じではない。諸注では紙製で幼児のおもちゃとされている。日常の遊びにつかった。なお3月の桃の節句(上巳の節句=じょうしのせっく)では人形(ひとがた)に厄(やく)を移して川などに流す「流し雛(びな)」の行事もあるが、当時あったかどうか知らない。補足だが、「平安時代には、天児(あまがつ)と呼ばれる人形も作られていた。『源氏物語』第三十四帖「若菜(わかな)上」で、明石の女御(にょうご)の生んだ皇子のために、紫の上が天児を作っている。天児は宮中で伝えられていたもので、丁字に組んだ木や竹の上に頭をつけ、衣装を着せたものだ。幼い子どもたちの厄災を引き受けて、守ってくれると考えられた。また、這子(ほうこ)と呼ばれるぬいぐるみも、幼児のお守りに用いられている。這子は白絹で作られ、絹糸の髪が取り付けられている。」(上江州規子「3月3日は桃の節句。平安時代からの雛祭りの歴史と「流し雛」など日本各地の雛祭り」(2022.2.26)から。)

「蓮(はす)」は大きくなるが、ここでは小さいもの。蓮には仏が乗る。

「葵(あふひ)」は賀茂(かも)の祭りで二葉葵を使う。「蓮」と「葵」で仏教と賀茂神社とを併記する意識が働いたかどうか?

「二藍(ふたあひ)のうすもの」は、紅花と藍(あい)で染めた、薄い織物。ここは満1才なのではいはいしている赤ちゃんの産着か。

「ふみ」は漢詩文。声変わり以前の10才未満の少年が漢詩文の音読をしている。今の小学生とは違う。清原家は漢学の家柄でもあったということか? これから大学者に成長するのか。

「にはとり」は庭で放し飼い。

「かりのこ」はアヒルやガチョウの卵。カルガモかも。これもそのへんの池や川にいたのか。

「瑠璃の壺」:「瑠璃(るり)」は仏典の七宝の一つで青色の宝石。「壺」は仏骨をいれる壺。「瑠璃の壺」は唐文化の影響で鉛ガラス製か(新潮集成)。交易で得たのか? 仏舎利(ぶっしゃり=お釈迦様の骨)の上には塔を建てる。つまりそこから仏塔が成長し仏教が広がる始源の地点。

 

 藤原浩史「『枕草子』における命題形成」(『中央大学国文』2017年3月)では、「貴族生活の原点をd「雛の調度」,極楽浄土の原点を芽吹いた蓮の種(e),加茂祭の象徴を葵の芽生え(f)で表示し,すばらしい世界につながるその原点に注目する。その結語部分でg「かりのこ」が出る。h「瑠璃の壺」は仏舎利を入れる最も小さい壺であるが,小さくともそこに塔が立ち,寺ができ,人が集まる。その究極であり,仏法の種である。その対となる「かりのこ」は「生命の原点」を意味する。」「「うつくしきもの」においては,小さく未熟な存在が,後に大きくすばらしい存在になることを先行文脈で提示する。その究極の存在が「かりのこ」であり,それは「生命の原点」という命題となる。」とする。

 

 全体に、小さく、かわいらしく、丸みがあって、幼く未成熟で、愛らしいものを挙げている。それらを「かわいい、いつしみたい、守ってやりたい」と感じるのは人間の本能にある、と聞いたことがある。先の藤原浩史氏に従えば、これから成長していく可能性の原点にあるものという特徴もある。

 

 また、これらを鑑賞者は相手よりも優位に立って眺めることができる。これらはこちらをおびやかさない。ピンチで不安な時に人はカワイイものを求め癒されようとするとすれば?(最近の「カワイイ」「ワンニャン」ブームはどうか?)キャピキャピのギャルたちが「カワイイ~」と言っているのも、バブルの頃ならいざ知らず、現代(2025年)には将来が不安なのでカワイイものを見て逃避しようとしているのかもしれない。清少納言の場合はどうであろうか?

 

 全く別の視点だが、声変わりする前の男の子はかわいい。第2次性徴で声が低くなりヒゲが生え大人の男(→やがておじさん)のようになってくる。世間ではそれを「成長」として祝福するが、安堂ホセ『DTOPIA』のモモは「成長」を拒否した。カリブ海の島で生まれたときは女の子のようだが十代になってはじめて男子の特徴が出てくる子が大勢いる島があった。男の子は大人の男(→おじさん)になるべきなのか? 大人の男になると性的に覚醒(かくせい)しイライラし喧嘩(けんか)をし女子に迷惑をかける。女子にも「成熟拒否」はあるが男子にも「成熟拒否」はありうる。それは「異常」なのか? 大人の女性で、結婚・出産歴もある清少納言は、男の子に何を見ていたのか? それとも、この章段でそんな議論を出すべきではないか?