James Setouchi

2025.2.20

読書会資料 清少納言『枕草子』R7.4.17(土)予定

その2

 

1 「春はあけぼの」

・「春はあけぼのいとをかし。」の略と言われる。「をかし」とは、対象に没入せず一線を画して愛好する姿勢で、「情趣があっておもしろい」イメージ。『枕草子』に多い。「あはれ」「あはれなり」は、対象に没入して「しみじみと感動的だ」「しみじみと悲しい」「しみじみとうれしい」「しみじみと恋しい」「しみじみと情趣がある」など。『源氏物語』に多い。

 

・「やうやう白くなりゆく」は「山ぎは」にかかるのか? 論争がある。

 

・万葉集の大伴家持(やかもち)「春の野に霞たなびきうら悲し この影に鶯鳴くも」「我が宿のいささ群竹 吹く風の音のかそけき この夕べかも」の春愁の歌を知っていたかどうかは、知らない。李白(盛唐)『春夜宴桃李園序(しゅんやとうりえんにうたげするのじょ)』はきっと知っていただろう。清少納言は「春は、夜や夕暮れではなく、」とした。(なお、蘇軾(蘇東坡)(北宋)の「春宵一刻直千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」は『枕草子』よりあと。)

 

・では、「春=曙」は清少納言のオリジナルか? というと、そうでもない。孟浩然(もうこうねん)(盛唐)「春暁」の「春眠(しゅんみん)暁を覚えず」を清少納言はきっと知っていただろう(?) 大江維時(888~963)『千載佳句』(漢詩を集めた)に「立春、早春、春興、春暁、春夜、暮春、送春」とあるので、春のあけがたへの注目は清少納言の全くの独創というわけでもない。(念のため、古語「あかつき」はまだ暗いうち、「あけぼの」は白々と明るいころ、「しののめ」はそのあと。)が、京都の東の空が開けてゆく姿(どこから見ているのか? NHKがやっていた)を明るさと色彩(白、赤、紫)と時間の推移で捉えたのが彼女の独自の感性によるオリジナル? 

 

・本居宣長(もとおりのりなが)(江戸)は「朝日ににほふ山桜花」と歌った。軍歌に「見よ東海の空開けて旭日(きょくじつ)高く輝けば」とある。松山東高校歌に「あかねあけゆく空のはたて」とある。比べてみると?

 

 

「夏は夜」も『千載佳句』にある。蛍は『千載佳句』では晩夏と秋興、『和漢朗詠集』(藤原公任(きんとう)、1013頃)では夏。道綱母「五月雨や こぐらき宿の 夕されを 面照るまでも 照らす蛍か」(正暦4=993)は5月5日の五月雨の夜の蛍。清少納言(966?~1025?)は、月の光、闇の中の蛍の多い光、蛍一つ二つの乏しい光、雨の闇、と並べたのがオリジナル?  

 

・京都の夏は暑い。だから夏は夜がいいだろう。

 

・白楽天「蘭省(らんしょう)の花の時錦帳(きんちょう)の下 廬山(ろざん)の雨の夜草庵の中」も有名。(『和漢朗詠集』にもあり)

 

 

・「秋は夕暮れ」はどうか。秋の夕暮れへの注目の先行例はある。

古今集546詠み人知らず「いつとても  恋しからずは  あらねども  秋の夕べは  あやしかりけり」(恋)、和漢朗詠集229義孝少将(~974)「秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻(おぎ)の上風 萩(はぎ)の下露」(恋)。これらは秋の夕暮れの歌でもあるが同時に恋の歌

 

・清少納言は京都の秋の夕暮れ、西の山の端(は)に夕日が一杯だ、山は大きく近く見える(どこから見ているのか?)、その中に見えるカラス(三つ四つ、二つ三つ)(やや近景)、雁(つらねたる)(遠景)を視覚的に並べたのでは? 日没後は風の音と虫の音の聴覚。恋の歌ではない。ここがオリジナル?

 

・カラスは「あはれなり」、雁は「いとをかし」となっている。カラスは寝どころへ行くので人間化して感情移入? 

 

・「いふべきにあらず」は? 「あはれ」とも「をかし」とも言いようもないほどしみじみとした情趣を誘うのであろうか? 「はた言ふべきにもあらず、いとをかし」の略だ、との説あり。

 

・日没で西方極楽浄土を観想(日想観)してほしいが・・そうは書いていない。

 

・白居易(はくきょい)(772~846)(中唐)「三五夜中の新月の色 二千里外故人の心(さんごやちゅうのしんげつのいろ じせんりのほかこじんのこころ)」は有名。秋と言えば中秋の名月なのだが、清少納言はそうはしなかった。

 

・のちに後鳥羽院は『新古今和歌集』巻1-0036春歌上「見わたせば 山もとかすむ 水無瀬川(みなせがわ) 夕べは秋と なに思ひけむ」とした。

 

 

・「冬はつとめて(早朝)」は。

 

・「つとめて」は、早朝。「あかとき」→「あけぼの」→「しののめ」→「つとめて」と書いている人がいたが、本当か? 一般的には「つとめて」は夜を過ごしてその翌朝だとすると、サロンで夜中皆と話して朝を迎えたのか? それとも、夜寝て、朝起きて、緊張感を持って冬の朝の宮中の一日が始まるのがいいのか?

 

早朝「雪、霜、そうでなくても、火を急いでおこして・・」と寒さの張り詰めた緊張感がよい。昼は「ぬるくゆるび」、「火桶の火も白き灰がち」になって「わろし」。昼は緊張感がゆるむからよくない。これが清少納言のオリジナルの感覚? 冬は昼間の暖かいときがいいはずだが、清少納言は冬の朝の寒い時をよしとした。

 

・冬だけ人間(人事)が出てくる。宮中の様子か。外界の自然から屋内の人事に回帰求心した(新潮集成)。

 

・古今集327壬生忠岑(みぶのただみね)「み吉野の 山の白雪 踏み分けて 入りにし人の 訪れもせず」

・古今集332坂上是則「朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪」

 これら二種は冬の部。(古今集の冬の部は歌数が少ない。)壬生忠岑は恋人が去った歌。坂上是則は冬の朝の叙景歌。対して清少納言の一節は、宮中の人間の動きを感じさせる。生活の中で季節を感じていると私は思った。

 

*私たちは自然(風景、情景)を感じるとき、古典由来の言葉を用いて感じることがある。ロゴス(論理)で理性的に捉えるのでは無いのだが、パトス(情念)で感性的に捉えるときに、古典で学んだものを(知らぬ間に)動員して捉えているのだ。「感じる」ことは、言葉で「対象を概念として把握する」そして「考える」こととは違う、はずなのだが、実は言葉で学んだものを使って「感じ」ている。清少納言も、従来の漢詩や和歌で学んだものを無意識的にであれ思い浮かべながら自然(風景、情景)を「感じ」ていたに違いない。(『千載佳句』や『和漢朗詠集』や『白氏文集』、また『古今集』(900頃)『後撰集』(950頃)などのどれを清少納言が実際に見ていたかを私は知らないが。)その上で、「従来の見方と同じように私も・・」としたのか、「従来の見方とは違って私は・・」としたのか? の分析は、丁寧な研究が要りそうだ。