James Setouchi
2025.2.18
2月の視角
2025年は2月2日が節分。節分は立春の前の日。
2025年は2月3日が立春。立春とは春が立つ日で、これからが春=新年と言えば言える。暦の関係で少しずれる。
昔(平安など)は旧暦12月の大晦日(おおみそか)に追儺(ついな)=鬼遣らい(おにやらい)=節分をして邪気(じゃき)を払い、翌日が新年=立春になるべきはずであった。そのころも暦の関係で12月中に立春が来て、古今集1番の歌「年の内に春は来にけり・・・」(在原元方)ということにもなった。
旧暦の大晦日の追儺と立春を、新暦で言えば、2月上旬の節分と立春。
マメをまくのはマメに邪気払いの呪力があるからだろうか。古語で「まめなり」とは「元気だ、熱心だ、真面目だ、実用的だ」という意味。「ジャックと豆の木」も豆にすごいパワーがある。
オニは般若のお面や絵本の『泣いた赤鬼』の鬼さんの形とは限らず、本来は邪気だとすれば姿は見えないはず。「鬼(キ)」は中国ではもともと死霊。日本では、祖霊(それい)、地霊(ちれい)、仏教の羅刹(らせつ)、夜叉(やしゃ)、天狗、酒呑童子(しゅてんどうじ)、怨霊(おんりょう)などなども鬼と言う。「隠(おぬ)」が語源だと言う人も。
なお、中国の春節(しゅんせつ)は2025年は1月29日から。
韓国も旧正月は1月末から2月上旬くらい。
ロシアはユリウス暦(旧暦)で見るのでクリスマスが1月7日、正月は1月14日だそうだ。
2月11日 紀元節、建国記念日
なぜ紀元節と言うかというと、初代神武天皇が西暦紀元前660年2月11日に大和橿原(かしはら)神宮で即位された、ということになっているので、紀元節と言う。その年を紀元元年として計算すると、昭和15年=1940年が紀元2600年となり、「紀元は二千六百年、ああ一億の胸は鳴る」と歌を歌った(歌わされた)ものだ。翌昭和16年(1941年)12月に日米戦争に突入して日本は焦土となるのだが・・
『日本書紀』を読むと恐ろしい。南九州方面に育った彼が、「あそこに約束の地がある」と宣言して北上・東進して、相手を分断し取り込んだり殺害したりして、最後は大和に乗り込み、即位する。・・・おや、「約束の地」と称して相手を排除していくのは、あそこの民族がやっていることでは・・・? 『日本書紀』は中国の書物の真似で捏造(ねつぞう)したものだから史実そのものではないとはいえ、権力が民にそういうものを信じさせようとしたのがまた恐ろしい。
西暦紀元660年2月11日に実際に何があったかは知らない。卑弥呼も大和朝廷もない時期だ。中国は春秋時代だ。まともな歴史学者は、これは中国の辛酉(しんゆう)革命説に従って(つまり中国思想の影響で)作り出した、歴史の捏造(ねつぞう)だと言う。
建国記念日、というのは、紀元節を持ってきたのだろう。
2月14日 バレンタイン・デー
日本では戦前にモロゾフがやっていたと言う(あのね、戦前から西洋菓子の会社ってあったのですよ。谷崎の『細雪(ささめゆき)』にも出てきます。探してみてね。でも、一部の富裕層の食べ物だったのでしょうね、きっと・・)が、昭和45年以降ころからか? チョコレート会社の戦略で広く盛んになった、と思う。最初は学校で禁止した。バブルの頃は義理チョコが飛びかった。会社でもOLは大変だった。家庭科の時間にチョコを男女でつくった学校もあるのかな? やがて「友チョコ」といって女子同士で交換し、男子同士でも交換するようになったとか。近年は日本も貧しくなり、円安・物価高でチョコも高いので、買える個数が減り、自分にしか買わない人も増えたとか。→バレンタインデーは日本に必要か? 理由を挙げて議論してみてください。
由来云々(うんぬん)は各種サイトを御覧下さい。
聖バレンタイン(聖ワレンティヌス)についてもお調べ下さい。
私として言っておきたいのは、キリスト教は、ローマやゲルマンの風俗・習慣・信仰を取り入れ変容しながら発展してきたということ。つまり「一神教は不寛容で現地の風土に合わない、多神教は寛容で現地のものを取り入れる」という見方は、一面的で、偏ったイデオロギーでしかないということ。クリスマスもハローウィンもバレンタイン・デーも、現地の風俗・習慣・信仰を取り入れてきたものです。だからキリスト像は黒人だったり白人だったりするのが当たり前なのですな。日本の隠れキリシタンの世界では観音菩薩像のようになっていますな。
私はよく知らないのですが、イスラム教にも同様の事態があるかも。インドネシアやマレーシアなど湿潤なところのイスラム教と、中央アジアの高地のイスラム教と、イランのそれ、サウジアラビアのそれ、サハラ砂漠のそれとが、果たして全く同じかどうか? サウジのそれ、と簡単に言ったが、ムハンマドは都市の商人ですから、イスラム教はまずは都市型の宗教として出発したと思いますね、私は。しかし拡大していく過程で各地の風俗・習慣・信仰を取り入れていったに違いない。シーア派とスンナ派の二つしかないのではありません。もっと多様です。シリアのアラウィー派とか聞いたことありますよね。よく知らんけど。
ガンディーを暗殺したのは多神教のヒンドゥー教徒。キリシタンを拷問したのは江戸時代の多神教徒。「アカ」を拷問したのは大日本帝国の多神教徒、ではなくて国家神道という非常に一神教化した人びとと言うべきか? くわばらくわばら。
陰暦2月15日 涅槃会(ねはんえ)新暦なら3月15日か。
お釈迦様が入滅(にゅうめつ)した=亡くなった(涅槃=ねはん=ニルヴァーナに入った)とされる日。
西行法師は「花の下にて春死なん」と言った。それは、お釈迦様が入滅されたのと同じ日に満開の桜の下で死のう、という意味だ。旧暦2月16日(新暦では1190年3月30日)に文字通り満開の桜の下で亡くなったという。西行忌(さいぎょうき)はこの歌にちなみ旧暦2月15日とされている。丁寧に言うと、満開の桜だから実際には太陽暦なら3月末でしょうね。
草の門ひらかれあるは西行忌 水原秋桜子(しゅうおうし)
ちなみに山本健吉の『最新俳句歳時記(春)』(角川文庫)には旧暦2月15日が「吉田兼好の忌日(きじつ)とされてきた。だが本当の忌日はわからない。」とある。
すべての人は結局死ぬのだが、どう生きてどう死ぬか、が大事なのだろうね。死んだ後で神の国や極楽浄土に行くかどうかは、近代科学では「ある」とも証明できないし「ない」とも証明できない。つまり信仰の領域だ。私は、お釈迦様は、本来のお姿・場所から地上に形を取って現われて下さり、私たちに大切なことを教えて下さり、また本来のお姿・場所に戻られたのだろうと思っています。
2月23日 天皇誕生日・・令和の今上天皇陛下(徳仁(なるひと)さま)のお誕生日である。おめでとうございます。以下は全く私見で、宮内庁のPRに乗せられているだけかも知れませんが、ご幼少の頃から拝見してきましたが、とても素敵な方です。ご幼少のみぎりから、ご長男で真面目で責任感が強い、と「皇室アルバム」などで言われてきました。学習院・大学院で歴史を研究され、オックスフォードにも留学されるなど努力家で極めて優秀、登山もされ(笑顔の写真しか報道されないが、登山は実は結構大変なのである・・皇族はラグビーやサッカー、レスリングなど相手を肉体で打ち負かす競技はなさらない、と聞いたことがある。ケガをされてはいけないから禁止されているのかも)、ビオラも演奏される(楽器のマスターがどれほど大変かは、やっている人はわかるはず)など、すごい方なのだ。それで決して威張らず、いつも穏やかな笑顔でいらっしゃる。私見では心優しく思いやりがある。私が言うまでもないが雅子皇后陛下や敬宮愛子内親王への接し方を拝見すると分かる。また被災地などでの人びとへの接せられ方を見ると分かる。
なお、天皇誕生日は、(太陽暦で)
平成天皇は12月23日
昭和天皇は 4月29日(みどりの日、昭和の日とした。)
大正天皇は 8月31日
明治天皇は11月3日(明治節、文化の日とした。)
孝明天皇は 7月22日
仁孝天皇は 3月16日 だそうです。
*天皇誕生日を「天長節(てんちょうせつ)」と言ったのは明治6年からで、『老子』の「天長地久」という言葉による。戦後は「天皇誕生日」と名称を変更した。
『老子』7
天は長く地は久し。天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、其の自(みずか)ら生ぜざるを以(もっ)て、故(ゆえ)に能く長生す。是(ここ)を以て聖人は、其の身を後にして而(しか)も身は先(さき)んじ、其の身を外にして而も身は存(そん)す。其の無私なるを以てに非(あら)ずや。故に能くその私を成す。
2月26日 二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日~29日。陸軍青年将校らが兵を率いてクーデターを起こし、髙橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が死亡、他にも負傷者多数。(岡田啓介首相は無事だったが総辞職。)東京は雪、戒厳令となった。しかし反乱軍は討伐されることになり投降。反乱軍のリーダーたちは多く死刑になった。民間人の思想家・北輝次郎(北一輝)も死刑。軍部の皇道派の大物たちは多く引退させられた。詳しくは歴史事典などでご確認下さい。
テロは不可、と確認しておきたい。武力行使で解決しようとすればテロが連鎖するばかりだ。(どこかの国を見てご覧なさい。テロ、クーデターの応酬だ。)だが、テロを防ぐにはどうすればよかったのか? 事件の背景を、皇道派と統制派の対立だけで説明した気になってはいけない。青年将校らが決起した社会背景には、貧富の差があった、と言われる。農村漁村は貧しく、女子は身売りし、男子は兵隊になり大陸で死んで遺族年金をもらうしかない、他方で財界や腐敗政治家たちは巨利を貪りのうのうと暮らしている、と言われた。北一輝の実家は佐渡の酒造家。近所に遊郭があり貧富の差を如実に北は見たという。(軍人の給料も、命令するだけの幹部エリートの給料は法外に高く、末端の実際に死んでいく兵隊の給料は安かった。)特権階級を排除し天皇陛下の下で皆が平等に暮らせる社会を作りたい、と考えたと言う。つまり、貧富の差を縮め万人が安心して豊かに楽しく暮らせる社会を築いていれば、テロなど起きない。孟子が言う通りだ。仁者の治める国には、天下の民が「自分たちを治めて下さい」と集まってくるのだ。明治維新以来の為政者たちはこの点失敗していた。でっかい軍艦は作るが民の暮らしは貧しい。貧富の差は大きい。15才の女工が低賃金長時間労働で作った化粧品(決して自分で使うことはない)を一部の富裕層のご令嬢がオシャレに使う。その苦しみを知っているのは末端の兵とそれに日々接する下士官、青年将校たちだけだ、陸軍大学校を出たエリート軍人にはそれはワカラナイ、という気持ちが、反乱した側にはあったという。だが、あらためて言う、テロは不可。テロがなく皆が安心して暮らせる世の中を、平和的な方法で(議会や政策などで)作っていくべきなのだ。それがテロを防止する最も有効な方法だ。誰でも知っていることだ。では、今は・・?
今(2025.2)の日本は、首相はじめ国会で真剣に話をしてくれていますよ。私はそう思っています。