James Setouchi
2025.1.31
獅子文六(2)『青春怪談』
加えて、ジェンダーについて
1 獅子文六 明治26年(1893年)横浜市生まれ。本名岩田豊雄。父は備前中津藩の武士だったが慶応の福沢門下で絹貿易商。横浜の公立小学校、慶応幼稚舎(小5から)、慶応普通部(今の中学高校)を経て慶応理財科予科に進学するが文科予科に転科、中退。この間に一家は東京の大森山王に転居。大正2年、豊雄は徴兵検査で丙種合格。大正9年母が死去。文学で立つ決心をする。大正11年(1922年)フランス留学、パリに住み演劇に親しむ。大正14年パリで恋愛結婚したマリーと帰国。和田堀町(今の杉並区)に住む。岸田国士らと演劇活動を行う。昭和5年(1930年)マリー発病のため同伴してフランスに帰らせる。翌年単身帰国。東中野に住む。昭和9年愛媛県出身の富永シズ子と結婚。千駄ヶ谷に住む。獅子文六の筆名で『金色青春譜』を書く。ユーモア文学に新生面を開いた。昭和12年『達磨町七番地』連載。岸田国士、久保田万太郎らと文学座を開く。昭和18年中野区に転居。19年神奈川県吉浜町に疎開。20年8月終戦の後12月愛媛県岩松町(妻の故郷)に疎開。22年『塩百姓』発表、東京に戻り駿河台に住む。23年から『てんやわんや』連載、25年妻シズ死去。大磯に転居。26年松方幸子と結婚。29年『青春怪談』連載、31年から『大番』連載。33年赤坂に転居。35年『べつの鍵』発表、39年『町ッ子』刊行、『南の男』発表。41年『出る幕』発表。44年文化勲章。死去。(集英社日本文学全集巻末の細川忠雄の解説、小田切進の年譜などを参照した。)
2 『青春怪談』
昭和29年(1954年)連載。作者は60代初頭。東京と藤沢(鵠沼=くげぬま)が舞台。
昭和29年は、30年の前年。
昭和30年(1955年)には経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎が『太陽の季節』で文學界新人賞(翌年芥川賞)。この時大江健三郎は東大生だった。
昭和29年はその直前であり、日本はサンフランシスコ平和条約(昭和26年=1951年)で独立したものの、社会にはまだ戦後のにおいが漂っていた。戦前の日本の方が豊かだった、という言葉も本作中にはある。豊かだったのが戦争で全部壊れ、まだ戦前の水準まで回復していない時期の作、とわかる。
本作は、日露戦争頃に生まれた世代と、戦後世代の、二組の恋愛模様を描く。ジェンダー(男か女か)を重要なテーマで問うており、現代的テーマでもある。但し今日の常識から見れば差別的な用語も使用されている。作者は差別する意図は無く当時の用語に従ったのだろう。問題意識としては今日的で、旧来の性差別に固まる思想への異議申し立てを含む。
(登場人物)(なるべくネタバレしないように)
宇都宮蝶子:日露戦争頃に生まれた。49才。赤坂新台町のコンクリ家屋に住む。善良な女性。化粧好き。夫に大事にされたが死別。今は息子を頼りにして暮らしている。
宇都宮慎一:28才。昭和10年頃の生まれ、戦後に青春を味わう。独身。美男子。合理的精神の持ち主。経営者を目指す。母の蝶子とともに戦時中は藤沢の鵠沼に疎開していた。[大江健三郎と同世代]
奥村鉄也:日露戦争頃に生まれた。五十代、独身。藤沢鵠沼の日本家屋に住む。同族会社の役員で、働かず隠遁している。時計修理が趣味の偏屈な男。かつて小間使いのお長を愛し娘を得たがお長が死去、残した子の千春を引き取って育ててきた。
奥村千春:鉄也の娘。23才。男性的な女性。世界的バレエダンサーを志している。宇都宮慎一とは長年の親友。
お杉:奥村家の婆や。60才近く。
お長:千春の母。千春を生んですぐ死去。「求めることを知らない女」だった。
船橋トミ子:33才。実業家。宇都宮慎一の前に現われ銀座でバーを共同経営することに。
芦野良子:千代田区二番町のバレエ団の団長。
品川ミエ子:バレエ団のダンサーで奥村千春のライバル。
シンデ(藤谷新子):バレエ教室の生徒。18才。奥村千春に同性愛的恋情を抱いている。
筆駒:渋谷円山あたりの芸妓。宇都宮慎一の知人。
毛利(モウさん):銀座のバー関係の顔役。
三島:バーテンダー。
(コメント)(ネタバレします)
軽読書(大衆小説)であって、当時は読まれたでしょうが、今は必読書というわけでもありません。しかしユーモアを交えて書いていて、ある程度以上楽しく読めます。ここでは楽しむだけではなく、まじめに、本文のあらすじに即しながらというわけでなくいささか横殴り的にいくつかのコメントをします。
(1)昭和29年頃の時代(世相)の一面をうかがい知ることができます。旧世代と新世代のものの見方(価値観)の違いが見られます。
奥村鉄也は日露戦争頃に生まれた世代で、戦後日本社会をしばしば批判します。「わたしたちの心には、まだ、誠実だの、羞恥だの、献身というようなものが、残ってる。わたしたちの心は、打てば響くんです。ところが、今の若いものときたら・・」と気焔を揚げます。また女性の好みとしては「求めることを知らない女」が好みです。「利口ぶった女、欲の深い女、ソロバンの達者な女、切口上でものをいう女、羞恥というものを知らない女・・」が嫌いだ、と娘の千春は言います。後者を体現しているのが恐らく船橋トミ子という実業家でしょう。トミ子は多くの富を有し政財界のみならず裏社会にも人脈があり自分の求めるものを手に入れようとし、手に入らないと対象を激しく憎み攻撃する。鉄也とトミ子が直接対決し深く関わる場面は設定されていないけれども、作家・獅子文六の頭の中では、鉄也とトミ子は対極にあるキャラクターとして設定されていたのではないでしょうか。戦後の日本の風潮はトミ子のタイプが増えた、だから鉄也は世をすねて鵠沼の日本家屋に隠栖してしまっている面があるのかもしれません。鉄也は恋愛にもうぶでシャイです。
もちろん鉄也にも欺瞞があります。それは、同族会社で今は兄の経営する会社から重役として事実上の不労所得を得て優雅に暮らせている点です。家も自分の持ち物です。鉄也にこの条件が無かったら、いやおうなく自分の手で働いて所得を得る必要があります。ここは本作では深くは追及されません。トミ子に言わせれば金持ちのボンボンの戯言よ、となりそうです。トミ子は金持ちですが本作には貧富の差が書き込まれています。芸妓の筆駒姐さんは金持ちの旦那に次々と売られていきます。銀座のバーで働くバーテンや「女給」も言わば無産階級です。対してバーの客は政治家、企業の役員など金持ち。もっと金持ちは築地などで飲む、と書いています。経営者のトミ子だって知恵と才覚で努力してカネを摑んだのであって、本当はどういう経歴の持ち主か分かりません。危ない仕事に手を出していることを考え併せると、戦争で多くを失って混乱の中でから這い上がってきた、と想像することもできます。当時の読者にはピンとくる状況でしょう。(松本清張の作品にも戦中戦後の混乱の翳を背負った人物が多く出てきますね。)
ではトミ子の生き方が正しいかと言えば作者はそうはしていません。ネタバレになりますが、トミ子はある犯罪に関与していたのが露見して獄に繋がれることになります。作者は、やり手の実業家・トミ子に破滅を準備しているのです。作者の生き方の好みはトミ子ではなくどちらかと言えば鉄也的な旧世代の生き方にあるように見えます。これはひどい話で、否応なく知恵と才覚でカネを稼がなければ生きてこられなかった人への想像力に欠けています。かつそういう女がダメなので、男は構わないのか、という疑問が生じます。だが作者はそれを千春に言わせています。千春はトミ子への嫉妬もあって烈しい言葉を使うのですが、作家・獅子文六の好みが見え隠れしているような気がします。(本作から十年後の『町ッ子』『南の男』などでも、作者は今は失われた昔の倫理を生きる人々への郷愁を語っているように見えます。)
鉄也は宇都宮蝶子と再婚(正式には初婚)することになりますが、単純・善良な蝶子に「求めることを知らない女」になるわ、と言わせてしまいます。中高年の微笑ましい恋愛に見えるようですが、よく考えると、今日(2025年)のジェンダー論の問題意識から見れば、「女は自己主張するな」とは何ともひどい価値観だ、ということになります。
それでも読者は鉄也を嫌いにならず好感を持てると思います。どうしてでしょうか。作者が好意的に描いているからでしょう。鉄也は(トミ子のような)悪どさを持たず、シャイです。今は亡きお長を愛し続け、娘に対して寛容で、自由に振る舞わせています。(何を言っても言うことを聞く娘ではないから、とは書いていますが。)娘の友人(恋人)の慎一郎に対してもフレンドリーです。百花園での蝶子の求愛に対しても真摯に受け止めます。女性を巧みに操って捨てる人間ではありません。結婚後二人がどうするかは分かりません。財産があるので鵠沼の庭園付き日本家屋で静かに暮らせそうです。今日は過度の競争主義で、カネも家屋も投機の対象となり、ゆったりとした暮らしが失われているように感じます。みんながトミ子になってしまったのです。そのトミ子は結局逮捕され入獄します。今日の「カネ、カネ・・」と言っている人たちは、どうなるのでしょうか。古い日本の倫理観の立場から、戦後のカネまみれ日本の行く末を憂慮している文学のようにも見えてきます。(注)
敢えて言えば、苦労をしてきたトミ子や筆駒姐さんが、カネや犯罪にまみれることなく鉄也のようにゆったりと暮らせる世の中になれば、一番いいのかもしれません。
(注)でも本当は戦前からカネまみれでした。カネのため物欲にまみれ戦争を始めたのです。この批判は本文中にあります。「富国強兵」!? 内村鑑三は、明治以降の日本を、拝金主義の文明だとして、根底から批判しています。では、江戸以前はカネにこだわらず清貧だったか? というと、これもそう簡単ではありません。信長や秀吉がカネとゴールドが好きだったのは有名です。庶民の中に儒教や仏教を併せたような倫理観が定着するのは将軍・綱吉からだとNHKでやっていました。綱吉の治世下で書かれた西鶴の『永代蔵』『胸算用』にはカネ儲けに走る庶民が描かれていますがよく読むとある種の道徳を持っています。厳密にはどうかわかりませんが、江戸時代にある形で道徳的なあり方が浸透したとは言えると思います。「誠実・羞恥・献身」がどのように定着したかは別に論をはる必要があるでしょう。
幕末から明治は「誠」「誠実」のオンパレードでした。吉田松陰グループと新撰組はどちらも「誠」の旗印を掲げて殺し合ったほどです(!)。「誠」は『孟子』『中庸』にあります。
「羞恥」はアリストテレスらも論じていますがここではルース・ベネディクト『菊と刀』の「恥の文化」を思い出します。日本人のサムライは「恥」の文化を持っていた、と。キリスト教は「罪」の文化で内面的だ、対して日本の「恥」の文化は外面的だ、本当か、などと議論が為されるところです。「外面的」だとすると体面・オモテヅラさえ重んじればそれでよくなってしまい、上流階級の虚飾の文化でしかない、などと突っ込むこともできます。文化人類学ではヒトは「羞恥」で下着をつける、などの議論があります。厳格なイスラム教徒から見れば日本人女性は髪の毛を出して歩いているので「羞恥」の心がない、となるのでしょうか。
「献身」はキリスト教修道院やヒンドゥー教のバクティ(献身)にもありますが和辻哲郎が『葉隠』に「献身」の美徳を見たのは有名です。「滅私奉公」、天皇陛下への忠義に生き忠義に死すなどの思想とも近い概念でしょうね。
獅子文六が本作でどういう含意を込めてこれらを言ったかは、丁寧に本文を読んでみないとわかりません。彼には彼の実感があり戦後の世相批判を込めて鉄也に言わせていると思います。
(2)ジェンダー論がこの作品のテーマの一つです。
宇都宮慎一は家庭では母の蝶子の保護者のような存在です。家事もできる。家計にも強い。外では資本主義的経営を肯定し経営者として成功することを目指している。いわゆる青年実業家の卵です。無駄が嫌いで合理的に生活を設計します。赤坂のコンクリ製の合理的な住居に暮らしています。この辺は現代っ子です。その上美男子です。理想のハンサム、と言っていいキャラクターです。ゆえに女性が彼を追いかけまわします。実業家のトミ子、芸妓の筆駒姐さん。こうなると女難の相と言えるほどです。合理的に生活を設計するはずが反対の事態が出てきてしまいます。(ここはユーモア文学です。)しかし慎一は女性に対する性的な願望がほとんどありません。長年の友人(恋人?)である奥村千春とも、千春がほかの女性と違って好きだ何だと求めてくることをしないから、安心して付き合っているのです。ところが慎一は、あるとき、千春が本当は男性だ、という誹謗を受け、確かに千春は男性的な女性だ、その千春と仲良くできているということは、自分は女性的な男性ということになるのか? と悩み始めます。
奥村千春は、バレエのダンサーです。体型はスリムで男性的、生理は18才で始まった、男性を恋愛対象としては見ず、宇都宮慎一と長年の付き合いであるのも慎一が色恋めいた話をしないからです。バレエ学校の生徒のシンデ(藤谷新子)から同性愛的な憧れを受け、仲良くしています。あるとき「本当は男性だ」という誹謗を受け、悩みます。
今日から見ると、慎一も千春も、概念が混乱しています。どう混乱しているか、作家の獅子文六は明確に整理できていません。読者は明快に整理できるでしょうか。ジェンダー論をやっている人には当たり前のことですが、今日(2025年)にもトランプ氏のように混乱しておられる方がまだ結構おられるようです。
生物学上性染色体を見るとXX染色体を持つのが女性、XY染色体を持つのが男性、と定義することができますが、それは生物学上の事実認識であって、それが文化的なまた社会的な「男らしさ」「女らしさ」「男は(女は)こうあるべき」とは、別の問題であるのですが、慎一も千春もここが明確でなく、悩んでいます。
文化的・社会的な「男らしさ」「女らしさ」は、社会の中で後天的に形成された概念です。時代や地域によって変わってきます。「男は泣くな」と軍国主義の時代には言われましたが、源義経も星飛雄馬もよく泣きます。『史記』の張良は色白で女性的で忍耐強かった、とされるのは、「色白で忍耐強いのが女性的」という特定の価値観による判断です。色が黒くて短気な女性はいくらでもいます。誰の脳の中にもいわゆる女性的要素、男性的要素が様々に存在している、人間は多様だ、というのが、(私は専門ではありませんが)今日的知見のはずです。環境ホルモンのためホルモンバランスが揺らぎ、生まれたときには第1次性徴がなく女の子と認知されたが、14才くらいになると急に第1次性徴と第2次性徴が発現する、という例も報告されています。(結構あります。)
加えて、「・・である」(事実)と「・・であるべき」(規範、価値、当為)は別です。仮に「子を産めるのが女性である」という事実があったとしても、だから「女性は子を産むべきである」という規範が導き出されるわけではありません。「歴史上藤原氏が日本で権力を振るってきた」という事実があっても、だから「これからも藤原氏が権力を振るうべきである」ということにはならないのと同じです。「多くの人が朝食でパンを食べている」(事実)から「あなたも朝食でパンを食べるべきである」(規範、価値、当為)などと奇妙な主張がされることがありますから、気をつけましょう。
トランプ氏が「性は男か女かしかない」と言うのは生物学的な性染色体の話としては合っていても(実は魚などでは性転換する種は普通にある。人間もどうかわからないと私は思う。個体発生は系統発生を繰り返すのだとしたら・・)、文化的・社会的な規範としてそれを語るのは、無理です。もしあえて言うなら、「真に男らしい男」は、問題を何でも他の人のせいにするのではなく、自分の過ちや敗北を謙虚に認めるのが「男らしさ」ではないでしょうか。よくないことは何でもオバマ政権やバイデン政権のせいにするなどというのは「男らしさ」とは正反対だ、と言われたら、どうするのでしょうか。
本作では、結局千春は千春、慎一は慎一、それぞれの存在の仕方があるのであって、それはそれでよい、に落ち着きます。多様なあり方が肯定され、「男性らしい男性」「女性らしい女性」であるべきとする規範は相対化されています。千春はバレエに生きます。「女の幸せは良妻賢母」ではありません。慎一はどうするでしょうか。千春のよき友人であり続けるでしょう。「男たるもの一家の主」「ヨメをもらって一人前」という発想も相対化されています。
ジェンダーの観点においてもそうですが、若い世代のこれからを作者は愛情を持って見守っているようです。(獅子文六には千春のモデルになる若い娘がいました。)
シンデ(藤谷新子)は千春に同性愛的な憧れを抱き、千春と慎一の接近を妨害しますが、最後は「幻影」でしかなかった、と覚醒し身をひく形で解決します。シンデは幼かったが急速に成長した、という解決です。「少女時代は年上の同性に憧れるがある時期が来たら本来の異性愛に戻る」といった旧来の図式にのっかっかっているとすれば、今日の常識から言えば、物足りない感じがします。シンデが大人になっても同性愛だったら? は、本作では問われていません。
(3)題に「青春」とあります。戦後の「青春」論の資料の一つにもなります。蝶子は「烈しい思慕を、青春に寄せてる」「青春ほど、よいものはない」「彼女は、まだ青春に生きてる」「その辺にいる日本人よりも、旺盛なる青春の所有者」とあります。ここでの「青春」は若々しくすることと恋愛をすることです。「子どももある50才前の未亡人が年甲斐もなく恋愛とはふしだらだ」という当時はあったであろう「常識」に対し、蝶子は、入念に化粧をし奥村鉄也に恋をします。石坂洋次郎『青い山脈』は昭和22年(1947年)であり戦後に若者の明るい男女交際・恋愛を肯定しました。対して獅子文六は昭和29年の本作で中高年の明るい恋愛を肯定しています。今日(2025年)のアンチエイジングの美魔女と中高年の男女交際を先取りしていると言えます。但し獅子文六の登場人物は乱倫ではありません。蝶子は亡き夫への貞節を、奥村鉄也は亡き恋人・お長への思いを、長年持ち続けてきました。(そう言えばある女性=日露戦争頃の生まれ=が、TVで芸能人(男)の離婚と若い女性との再婚を見て、「いくら歌がうまくても顔がきれいでも、他に女を作って嫁さんを実家に返すような男はいけない」と言っていたのを思い出します。)明治生まれの夫婦の貞節を重視してきた中高年男女が、しかし一つの規範を解除して中高年の恋愛へと足を踏み入れる瞬間を描き祝福を与えた小説、と位置づけることもできます。もちろん、配偶者のある人間の不倫ではありません。単身者同士の純情な恋愛です。「不倫からも文化が生まれている」と石田純一が言って「不倫は文化」発言として世間が騒いだのは平成8年(1996年)でした。
(本作だけではなく、同時代に他にもあるかも知れません。この点はっきりしたことは言えません。)
*井上優「獅子文六(岩田豊雄)における身体 ―『青春怪談』(1954)に見る不安定な性―」(『西洋比較演劇研究』Vol.17 No.1 March 2018)という論文があり、参考になるかもしれません。井上氏は明治大学の先生です。