James Setouchi

2025.1.11

 

 詩の創作について 一部サブカルへの言及を含む

 

  『論語』に、孔子の言葉「に興り、礼に立ち、楽に成る」(8泰伯編8)(書き下しの仕方は他にもある)とある。どういう意味だろうか。その深い意味を探りたい。(「詩に興り」とは、仮に言えば、『詩経』はじめ古典の詩に触れて人間的・道徳的な感情を触発され、君子たらんとして発憤する、ということだろうか? 「楽に成る」まで考えると、芸術は人間の道徳的な成長・完成に役立つべきものだ、という考えを述べたとも解釈できる。

 

 自分の思い出だが、中学の時国語の宿題で「詩を書いてきなさい」というのがあり、いろいろ書いては破り書いては破りした挙げ句に、提出したのは、一行詩だった。何かで一行詩を見たことがあり、これもいいなと思ったからだ。皆に遅れて一人職員室に出しに行ったとき、先生は怒ったりしなかった。私がくそまじめな生徒だと知っておられたからだろう。今思えば、書くべき中味がはっきりしないから、書いては破り書いては破りということになったのだろう。 

 十代のころ思潮社の現代詩文庫を買ってきてよく分からずに憧れて読んでいたことがあった。今は当時よりは少し理屈を言うようになった。吉本隆明北川透もその頃知った。もちろん、理解できたわけではない。

 

 詩に限らず各種の表現においては、コンテンツ(表現する内容)が大事だと私は考える。詩で言えば人を励ます詩を書いてほしいし、読みたい。中学校の国語教科書の冒頭に掲載してある新川初江の詩とか。私は宮沢賢治の詩が好き。宮沢賢治は法華経信仰の志が篤い。しかも教条主義にとどまらず人間としての悲しみを見据えている。リズムも素晴らしい。かつては高村光太郎三好達治も好きだった。光太郎は志が高い。達治は抒情が素晴らしい。しかし二人とも軍国主義を煽る詩を書いた時期がある。どうしてそうなるのか? しかも三好達治はDV男だった。私は複雑な思いになる。達治の教科書に載る詩は品格がある。品格のある奴がDVをするのだったら、品格など要らない、とまで言いたい。

 

 コンテンツをリズム(リズムだけでなく詩形式・修辞なども含めた表現形態、と言うべきか)が補う。韻文の「韻」とはリズムの意か。賢治や光太郎の詩は内容だけでなくリズムも素晴らしい。三好達治なども。教科書や文学史で触れる有名な詩人の詩は、コンテンツとリズムとがともに素晴らしい。草野心平もすごい。

 

 黒田三郎のいくつかの詩も好きだった。新聞で見た「生ましめんかな」は誰の作だろうか。中味が心を打つ。

 

 もちろん、コンテンツなしでリズムで遊ぶ、言葉遊びの世界もある。あってもいい。谷川俊太郎の詩には結構ある。江戸っ子の喧嘩で「このスットコドッコイのコンコンチキのコンチクショウめ」などというのも意味内容から言えば中味はあまりないが、言葉遊びとしては面白い。

 

 ダダイズムというものがあって、既成の道徳・社会秩序・芸術の権威などに反抗し、破壊的な表現を好んだ。日本でも一時流行した。初めて見たときは驚いたが、やがて意味が分からんな・・と読むのをやめてしまった。

 

 江戸までは詩歌と言えば和歌と漢詩だった。もちろん俳諧もある。民間に仏教の御詠歌があったり、お座敷の小唄や都々逸があったり、歌舞伎や浄瑠璃、落語や講談や浪曲・浪花節の文言がありする。これらも広義に言えば詩歌、あるいは詩(叙事詩や叙情詩)と言えるかも知れない。

 

 明治の初めは政治的な内容を込めた自由民権詩もあった。

 西洋の詩が翻訳され、訳詩集が出た。『新体詩抄』『於母影』など。

 西洋の詩と日本の詩歌とを激突させたとき、何が生まれるか?

 

 新時代の詩人たちは、従来のものでは飽き足らないから、新しい詩歌を創造しようとしたのだ。思想内容・表現とも。

 

 北村透谷は新しい詩を作ろうとした。『楚囚之詩』は内容・文体共に新しいものを作ろうとしたのか。『蓬莱曲』は劇詩。(朝日新聞連載小説(2025年1月現在)門井慶喜『夫を亡くして』に北村透谷が出てくる。)

 島崎藤村は明治30年『若菜集』で日本近代詩を確立したと言われる。七語調なのが気になるが・・(例:「まだあげ初めし前髪の・・」は七五調。)

 土井晩翠「荒城の月」は音楽とセットで心に入った。土井晩翠はいろんな学校の校歌も作っている。

 内村鑑三は明治30年に訳詩集『愛吟』を出し、アメリカの詩も含め、キリスト教の思想内容を含む詩を日本に紹介した。

 そう言えば讃美歌集も詩集と言えば言える。キリスト教の内容を歌う。教会で大勢で歌えるようひらたい歌詞に訳してある。(一人で歌ってもいいが。)

 

 萩原朔太郎は近代詩の一つの達成を見せた、と誰かが言っていたが、私にはよくわからない。朔太郎の詩は皆で声を合わせて歌うものではなく、あくまでも自分の内面を歌う、ということか。

 中原中也はどうか。

 伊東静雄立原道造はどうか。

 

 中野重治は歌うべき歌とは何か? を問うた。石川啄木も。

 

 戦前の文部省唱歌は、国民の情操を陶冶する→国民を統合する、という機能を果たしたろう。だが、「白砂青松、これが日本の風景だ」と言われても、オホーツクと沖縄では全く違うはずだが。平安朝の桜や雪の感性を日本の代表のように言われても、新潟の雪深いところの人は困る、と鈴木牧之(江戸期)も言っている。日本の魅力(強み)とは、多様性においてもある。

 

 軍歌集も詩集の一つ。国民を戦争に引っ張っていく。(例:「橘中佐」これを小学生に歌わせるか!?)うた(詩+音楽)は恐ろしい力を持っている。近代国民国家においては、どこの国でも国民を引っ張るためにうたを使う。

 

 古関裕而の軍歌と応援歌は人びとの心を摑んだ。(NHKの朝の連ドラでやっていた。)うたは恐ろしい力を持っている。

 

 各種の歌謡曲もメディアの普及と共に流行。戦後も。

 

 私はよく知らないが、昭和の初めにはジャズが流行ったりした。案外欧米の文化に親しんでいた。が、軍国主義がいったんそれらを押さえ込んだ。

 

 戦後はアメリカのジャズ・ブルース・カントリーが大量に流入。またロシア・ウクライナの民謡が紹介され歌声喫茶で歌ったりした。日本人の視野が広かったことはよかったと思う。フランスのシャンソンが流行ったのはいつ? 戦前に宝塚がやっている。戦後は美輪さんが「銀巴里」で歌った。またイヴ・モンタンがやってきたりした。

 

 60年代はビートルズも来日。グループサウンズ、ロックに熱狂。1969年には甲子園で熱狂する人、ゴーゴー・ダンスで熱狂する人、学生運動で熱狂する人があった。「熱狂」!? 学生運動が敗退(沈静化)し、70年代はフォークも流行。それぞれに歌詞があり、伝えようとするメッセージがある。

 80年代以降は国際化が更に進展、21世紀はIT化が急速に進展、今や世界同時配信のKポップに夢中の時代が来た。私はKポップは(特に防弾少年団=BTSは)(日韓友好のためにも)いいと思う(最近近藤真彦が韓国でブレイクしたとか、すごいですね。キム・ヨンジャさんもいいですね。私はケー・ウンスクさんがすごいと思いました。引退されたのでしょうかね。それにしてもパク・ヨンハさんは実にもったいないことをしました。素敵な若者でした←このへんすべて主観です(先日民放で『歌ウマ女王』という番組で日韓のプロ歌手が歌合戦をやっていて、どの人もすごかったが韓国の大歌手マイジンさんがパク・ヨンハの『オール・イン』の歌「初めて出逢った日のように」を日本語と韓国語とで歌ってくれて、涙が出た。審査員に近藤マッチや松崎しげるほかに韓国系の歌手も出ていて、フロアの審査員も韓日半々でやっていた。いい番組だった。←2025.1.17追記)が、他方、現状は(自分も含めて)世界資本(市場)の作り出す流行に感性を左右され踊らされている、とも言える。(最近のうたはダンスがメインで、歌詞はちゃんと聴かれているのか? 中島みゆきの歌詞には意味がある(好悪は別として)。サザン・オールスターズの歌詞は多分意味を伝えようとしていない。)

 他方「伝統的な(!?)」和歌や漢詩文、また民謡、詩吟の類いが無価値とされたとしたら、惜しいことだ。北村透谷の「漫罵」を思い出すところだ。(2024年12月の紅白歌合戦で氷川きよしが演歌に帰ってきた。氷川きよしは好きな音楽を作っていいですよ。でも演歌の氷川きよしもさすがでしたよ。)

 世界の新傾向を踏まえつつ、再度日本語で新しい詩歌(コンテンツのしっかりした)を創造する試みがあってもいいと思う。

 (ここにはもう一つ、個人の歌か、みんなで歌う歌か、という重要な問題が存在しているのだが、それを論ずることなく今書き散らしている。近現代の個人が孤独を歌う歌が、メジャーに乗って皆に共感されて歌われている、という現実はある。民謡やポピュラーソングが、自分の内面を代弁してくれているような気がすれば、自分で詩を書く必要は無いかも知れない。時代の歌が軍歌やラブラブの歌ばかりだったら、それには飽き足りず、自分の孤独の歌を歌いたくなるのも当然だ。←ここも2025.1.17付記)

 

 何のために「再度日本語で新しい詩歌(コンテンツのしっかりした)を創造する試み」を? 

 

」は(『論語』に言う如く)人間の精神を触発し人間として善く生きんとする志を喚起するものだとしたら、新しい時代にもそういう「詩」は必要だ。

(他方で暗い演歌が流行るのはなぜ? マイナスの心情でいるときに「パンパカパーン!!」のような明るい歌を歌われてもかえって落ち込む、ということはある。暗い心情を慰撫するのに暗い歌詞が有効ということはあるのだろう。八代亜紀の「舟歌」はやっぱりすごい。だがいつまでも酒場で飲んでいるわけにはいかない。いつかはそこから抜け出さなければ・・?)

 

 なぜ短詩型でなければならないか? そんなことはない。小説でも(童話でも物語でも)随筆でも構わない。そもそも、長文でないと、ややこしい内容は入らない。複雑・高度な内容は短い詩には入らない。ただ、短い詩で鋭く喚起する、ということはありうる。放哉「せきをしてもひとり」は喚起力がある。だが、一人だから淋しいのか? 結局のところ人間は宇宙の中をただ一人「犀の角のように」歩む存在だから「天上天下唯我独尊」の自己を胸を張って生きているのか? この文言だけではわからない。わからないから皆が勝手に感情移入しやすい。ヒットする歌謡曲もこれに近い。宮城県の高校生が「あじさいポコポコ」(記憶が不確か)とかいう自由律句を書いてNHKが取り上げていたが、あじさいがぽこぽこ咲いた、だからどうなのか? 私にはよくわからない。ちょっとおもしろい、それだけだ。短詩型では言いたいことが伝わらないか、盛り込めない。では、どれくらい長ければいいか? というと、それはわからない。イイタイコトの質・量によるのでは。

 

 イイタイコトはどうしてできるのか? 懸命に生きて、読んで、考えて、表現する中で、しっかりしたものが出来てくるのだろう。今既に抑圧され叫び出したい場合もあろう。大いに叫ぶとよい。同時に、学び続けることだ。子曰く、「学びて思はざれば則ちくらし。思ひて学ばざれば則ちあやふし」と。(『論語』2為政15)

 

 なぜ日本語で? もちろん英語やハングルやペルシア語を取り入れてもいい。やってみるといい。日本語で詩を書くと旧来の(日本語システムだけではなく)日本というシステムに改めて絡め取られる。あるいは、日本というシステムを再生産することにつながる。日本というシステムを再生産するべきか? 私は日本列島でしか生きたことがない。とりあえず日本語のシステムの中でしか生きていけない。だから日本語のシステムを完全には解体してほしくない。エスペラントで暮らせと言ってもそれは無理だ。英語で暮らせというならフィリピンの人の方が先輩だ。日本というシステムにも弊害がある(例えば差別)のを承知で、しかし古来継承してきた日本の「伝統的な」文化の中にも、価値あるものはいくらもある。それによって現代(市場経済に感性をコントロールされている)を相対化し、新しくクリエイティブなものを生むきっかけとすることもできる。もちろん閉鎖的で差別的で排外的な日本は不可。従来の弊害の部分は改め、新しく世界に開かれた日本になればよい。古来そうしてきた。大陸や海外から文化を入れてきた。今、内容・表現ともに英語やハングルやペルシアの思想内容や表現形態を取り入れてもいいと思う。やまとことばオンリー、というのでは限界がある。今の現実(国際化・多様化)に即していない。新時代にふさわしい詩歌あるいは文章とは? そのコンテンツと表現形態はどうあるべきか? そこを探って創作するのはいいと思う。ここで書いたのは文芸論つまり文「学」だが、創作された作品は文「芸」作品となる。

 

 もちろん、父がアメリカ人、母が韓国人、自分は日本で育った、という人がいてもいい。リービ英雄多和田葉子のような人もいていい。現に沢山いる。「在日」の流れを汲む人だって日本には沢山いる。梁石日(ヤン・ソギル)や柳美里(ユウ・ミリ)が行った努力はこれから日本文化にいいものを生む。これからは多国籍を生きる人がもっと増える。「私の国籍は天にある」と言ったパウロのような人もいていい。仏教徒はインド・中国・日本、と国境を越える。親鸞の名前はインド・中国の世親と曇鸞からとったのだろう? 空海はインド語ができた(多分)。仏教徒・賢治の詩は国境を越える。賢治はエスペラントも勉強した。出口王仁三郎もエスペラントを勉強した。ジーン・リースはカリブ海で育ちイギリスに「戻り」傑作を書いた。村上春樹は日本で育ち欧米に結構長く滞在し日本に戻り傑作を書いた。村上春樹もある種、無国籍でありつつ日本的だ。

 

 大江健三郎の17才の頃の詩を見たことがあるが、語彙のレベルが高かった。鬱屈を抱えているようだった。背伸びして書いていたかもしれない。フランスの詩などに出会って触発されたのだろう。

 

 今日はこれくらい。ごきげんよう。2025.1.11