James Setouchi

2025.1.8

 

帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)『襲来』(上・下)講談社 (2018年7月書き下ろし)  並びに日蓮、蒙古襲来 ほか

                            (長文になります)

 

1 帚木蓬生(ははきぎ ほうせい):昭和22(1947)年福岡県生れ。精神科医にして作家。東大仏文科卒後一時TBS勤務ののち九大医学部に学ぶ。『三たびの海峡』『閉鎖病棟』『逃亡』『ソルハ』『蠅の帝国』『蛍の航跡』『日御子』『国銅』『風花病棟』『天に星 地に花』『受難』『悲素』『襲来』などの作品がある。

 

2 『襲来』

(読もうと思った理由)   

・直前に高山薫『太陽を曳(ひ)く馬』を読み、道元とオウムが出てきた。次は日蓮の出てくる本作を読んでみようと思った。日蓮が偉い方だというのは、あちこちで見聞していた。

・帚来蓬生(ははきぎほうせい)は数作読んだことがあり、信頼・尊敬できる作家だと思っている。彼は九州のお医者様でもある。

 

(読んでみての第一印象)(まだネタバレしない)

・日蓮が主人公かと思ったら、違った。日蓮を慕い日蓮に生涯仕えた「見助」という人物が主人公見助の視点で物語は語られる

・前半は関東(千葉、鎌倉)が舞台で、日蓮と見助がそばにいる。日蓮の事跡や教えが語られる。

・後半は対馬が主な舞台で、日蓮は関東にいるが、見助は対馬にいる。日蓮の事跡は風聞や手紙で伝えられる。見助は対馬に住み、日蓮の耳目となって蒙古襲来の情報を日蓮たちに伝える

蒙古襲来で戦闘の場面が出てくるかと思ったら、それはあまり出てこなかった。(それでよい。)

・残虐シーンはほとんど出てこない(少し出てくる)。性的描写もほぼない。この点、健全な青少年にも読んで貰って大丈夫。文体は読みやすい。日本史と仏教(特に日蓮宗)の知識があった方が読みやすいが、なくても読める。

・どこまでが史実でどこからが虚構かは、私は知らない。

 

(主な登場人物)(なるべくネタバレしないように)

日蓮:僧侶。日蓮宗の祖。千葉の安房(あわ)小湊(こみなと)に生まれ、法華経に依拠して日蓮宗を開く。他宗派や幕府を批判、二度の流罪に遭うがめげなかった。蒙古襲来を予言したので有名。晩年は身延山(みのぶさん=富士山の近く)に住み、最後は今の東京の池上(いけがみ)本門寺のある場所で没。多くの弟子を育てた。

見助:安房の漁師だったが、日蓮と出会い、日蓮の意を受けて対馬へ。蒙古襲来の情報をいち早く摑(つか)み日蓮に知らせるためである。蒙古が去った後、関東に戻り、日蓮のそばに戻ろうとするが・・

貫爺さん:見助を拾い育ててくれた漁師。

しま婆さん:鎌倉で日蓮のそばで料理をする婆さん。

義城房・浄顕房:日蓮の最初期の弟子。迫害により殺される。

富木(とき)氏:千葉の武士。日蓮や見助を大事にする。

千葉氏:関東エリアの武士。鎌倉の有力御家人。日蓮や見助を大事にする。九州にも領地がある。

北条時頼(最明寺入道):鎌倉幕府の第5代執権。引退後も実力を発揮。

北条政村:鎌倉幕府の第7代執権。元寇に際し「執権」を時宗に譲り自分は「連署」に回り「二月騒動」で夏越(なごえ)一族ら北条氏の他の有力者を粛清、北条得宗(とくそう)家の権力を強化した。

北条時宗:鎌倉幕府の第8代執権。若くして執権になり、2度の元寇に対応。

馬場殿:千葉氏の家臣で、博多と対馬を往復し、見助の世話をする武士。

少弐(しょうに)氏:太宰府・対馬・壱岐を支配する武士。

宗(そう)氏:少弐氏が送り込んだ、対馬の地頭代。対馬では新参者。

阿比留(あびる)氏:対馬に長年住んできた実力ある一族。見助の世話をする。

松浦党:佐賀エリアの水軍(海賊)。操船に長け、交易や海賊行為を行う。

なみ:対馬の少女。見助と仲良くなる。

くったん爺様:対馬の爺様。朝鮮語を解する。

佐助:石工職人。北九州沿岸に蒙古に備え石の防壁を造る。

日興上人(伯耆房):日蓮の後継者。

 

(もっと詳しいコメント)(ネタバレします)

 蒙古襲来に対する鎌倉武士たちの奮戦、を期待して読むと、期待外れになります。そうではなく、作家・帚木蓬生が重視するのは、日蓮の教えの解説と、日蓮を慕い日蓮のために生涯を捧げた見助という人物の生き方だ。見助と日蓮の交情と言ってもいいし、日蓮という巨大な存在に絡め取られてしまった見助の一生、と言ってもよい。よく言えば両者の交情、信頼関係は温かく、悪く言えば稀代の人たらし・日蓮にからめとられてしまった見助の一生とは何だったのか、と問うことも出来る。作者・帚木蓬生はもちろん後者ではなく前者で書いている(と思う)。

 

 見助は千葉の太平洋岸の小さな漁村で拾われた子だ。船が壊れ、そばで親は死んでいた。周囲の人々が見助を拾って育てる。見助は腕のいい船頭・漁師に育つ。そのままだったら、小さなエリアで人生を完結していたかも知れない。だが、ここで日蓮聖人という巨大な存在が出現し、見助はその愛情と教えに触れ、日蓮に傾倒する。日蓮は、正しい法華経の信仰に立ち返らないと国は乱れ外国が攻めてくる、と予言し、見助に、九州・対馬に行き、日蓮の耳目となり、外国の情勢を知らせてほしい、と依頼する。見助は快諾する。関東から九州・対馬へ、彼は旅をする。(この道行きは、『十六夜日記』ほかで聞いたような地名が多く出てくる。)対馬ではなみという少女と仲良くなるが、日蓮のために使命を果たすべく、なみと家庭を持つことはしない。いよいよ蒙古襲来間近となると、物見櫓に上がってそこで生活することに。彼の生活は孤独だが、心はいつも日蓮聖人とつながっていた。日蓮とやりとりする手紙が心の支えだった。やがて蒙古の船団が現われる。見助は知らせの烽火を上げる。お蔭で九州北部の防衛隊は準備をすることができた。見助は、風と潮の流れから、蒙古軍はどう移動するだろうか、と予測を立てる。蒙古軍は対馬(や壱岐や鷹島)で虐殺・略奪・人質の拉致(らち)をした。その残酷な様を見助は目撃し、報告する。やがて蒙古軍は去る。見助は病の日蓮を訪うべく関東に戻る。辿り着いた身延山に、しかし日蓮の姿はなかった。日蓮は老境となり下山していたのだ。再会を果たせぬままの日蓮の死。嘆く見助。見助もまた病で死んでいく。見助は日蓮とやりとりした手紙をすべて焼いた。あとには日蓮の後継者・日興をはじめ多くの弟子と法華経の教えが残った(とは書いていないが、そういうことだろう)。

 

 ここで見助という人物で感心するのは、いつも働いていることだ。客人として遇されようとしても、「自分は客人ではありません」と言ってすぐ下働きをする。非常な働き者だ。また、見助は人柄がよく、善良で邪心がなく周囲に好かれる。そこで出会う人ごとに多くを学び身につけていく。故郷の千葉の海岸では、周囲の爺様やばあさまから、漁師の仕事、料理の仕方を。武士の富木様からは、ひらがなを。当時庶民で文字に読み書きできる者はまれだった。見助はひらがなを読み書きできるので日蓮に選ばれた面もある。日蓮との出会いでは、仏法の(法華経の)信仰と、グローバルな視野を。そのお蔭で故郷を出て鎌倉を見、九州・対馬に行き、朝鮮をも訪れる。彼の視野と行動範囲は、日蓮と出会ったからこそ広がった。(それゆえに他の人の味わう家庭の幸福からは無縁ではあったが。)

 

 出会いが人を変える、ということは確かにある。機縁が熟していたのだ、前世からの宿命だった、などと言うことも出来る。世の中に出会うタイミングというものはあり、しかもそのタイミングというものは、何度も何度も生まれ変わって積み重ねた宿業の中から出会っていくものなのであるから、偶然たまたまのタイミング、といったことではない。「啐啄同時」(禅の『碧巌録』の言葉)と言うでしょう? 仏教ではそうなるはずだ。(帚木氏が本作でそう書いているわけではない。)この出会いは唯一無二の出会いだ。出会うべくして出会い、そこで何かを学び取らせるために出会わせていただいたのだ。そこで何かを学ばない者もある、だが、学ぶべくして出会い、出会いから学んでいくのだ。見助は日蓮との出会いで変わった。

 

 帚木蓬生は、歴史上有名な執権、武家たちではなく、名も無い庶民を多く描く。見助の故郷の漁師たち、見助が旅の途中で出会ったおかみさん、見助の出会う無名の僧や下働きの人々、九州北岸で防塁を築く石工、対馬で出会った名もない庶民たちが、大勢出てくる。彼らの中で見助は生かされ、何事かを成し遂げていく。日蓮聖人でさえ後半は伝聞や手紙でしか登場しない。蒙古襲来を描くにあたって、執権・北条時宗や日蓮大聖人や奮戦した勇将たち(河野道有ほか)を中心に描く描き方もあろう。だが、帚木蓬生はあえてそうせず、無名の人々を描く。ある者は日蓮の教えに傾倒し、ある者は蒙古によって殺戮される。こうした善良で無名の人々が信頼し合い支え合って暮らしてきた歴史こそが大事なのだ、という帚木蓬生の視点がここは込められているようだ。(庶民は必ず善良とは限らない。庶民が嘘をつき年貢をごまかし差別をする、ということはある。だが、帚木蓬生は周到にそこは排除している。悪いのは、襲来する蒙古軍と、日蓮に言わせれば、法華経の教えを奉じない幕府権力や当代流行の念仏宗、禅宗、律宗の僧たちだ。)

 

 帚木蓬生は、蒙古軍を撃沈させた嵐を、「神風が吹いた!」と劇的に描写することはしない。「来襲」したのは蒙古軍だけではなく「大風の来襲」も「来襲」と呼んではいる(下巻236頁)が、その様をヴィヴィッドに描写したりはしない。見助が目で見ていないことは伝聞で伝えられ、それゆえ印象が薄まる。帚木蓬生は、「神風」の奇跡を大げさに言挙げ(ことあげ)したりしない。季節によって風が変わる、それに従い船を動かす、という漁師の知恵は描かれる。

 

 帚木蓬生が繰り返し強調するのは、日蓮の教え(法華経を奉じないと、国内が乱れ、外国が攻めてくるぞ)と、日蓮と見助の交情だ。二人の平仮名ばかりの手紙のやりとりが、見助を支えた。(ラストで見助がそれらの手紙を燃やすのはなぜか? わからない。一つのことを為し終えたので、あとは法華経の信仰さえ残ればいい、ということだろうか?)

 

 

 本作の直前に読んだ髙村薫『太陽を曳(ひ)く馬』に比べれば、本作は文体も平易で、仏教(日蓮)の教えに対する懐疑は込められていない。日蓮は自分の思想信条を正しいと確信し、弾圧する側は異端として排除してくる。この点『太陽を曳く馬』で展開される思弁(道元やオウムが出てくる)の方が難解で、仏教思想史の展開を追い、現代における宗教の意義をも問う。読み応えもあり、しかしワカラナイ点が残った。対して本作は、平易で読みやすく、日蓮の教えのガイドにもなっている。これを読んだ後で、日蓮の教えで果たしていいのか? を問うことも出来る。

 

 かつ、本作は、蒙古襲来の捉え方の、一つの視点をわかりやすく示している。蒙古からの防衛は、日蓮の超能力、真言・天台の密教僧たちの呪力、鎌倉武士たちの奮戦、奇跡の神風、によってなしえた、などと描けばドラマになりやすいだろうが、帚木蓬生はそうしない。本作では、鎌倉武士たちの防衛にも言及するが、それ以上に、名もない石工や庶民が努力して防壁を造った、名もない見助たちが海を見はり潮と風の動きを読み船団発見に際し直ちにのろしを上げた、ことも大きいと説明される。松浦党の水軍のゲリラ的とも見える夜襲攻撃(今村翔吾『海を破る者』では河野水軍が描かれるが)も書いている(下巻233頁)が、蒙古退却の大きな理由は暴風で(「神風」とは書いていない)、高麗からの船団はその暴風の怖さを知っていたからすぐ退却、南方軍は風の怖さを知らずにすぐ壊滅、と書いている。人為よりも神慮よりも自然条件とそれへの知識が状況を決めた、とは、自然科学に強い帚木蓬生の視点と言うべきか。蒙古が高麗を攻めたとき最後まで抵抗した高麗の三別抄(さんべつしょう)のグループが、日本と連合して蒙古に対抗しよう、と提案してきたことも紹介される。防衛は軍事力だけではダメで国際関係・国際情勢も大事なのだ。蒙古軍が上陸した対馬、壱岐、鷹島での虐殺・略奪にも言及される。対馬・壱岐は言わば捨て石にされた。京都の連中は、戦場から遠く離れ、蒙古による略奪、民の苦しみなど何も知らない様子だった。ここも、帚木蓬生の慧眼の生きているところで、「国難」というほどのことが起こっても、それで大変な苦難を舐める前線の一般庶民と、無傷でのうのうと暮らす尊貴な人々(公家も武家も)と、実際には違いが大きいのだ、ということを帚木蓬生は知っていて、わざと書き込んでいるのだ(と私は思った)。本作は2018年書き下ろしだが、東アジア情勢の「緊迫」で防衛力増強を首相官邸あたりがしきりに言って(煽って?)いた頃なので、帚木蓬生は提言の意味を込めてこれを書いたのかも知れない。

 

(日蓮の教えの復習)

(本作に書いてある日蓮の主張の正確なまとめではない。辞書的な知識。高校倫理の資料集にどれ位書いているだろうか?)

 

法華経こそ最高の経典だ。法華経は「因果不二・事理一体」の教えだ。日本は法華経を奉ずるべきだ。特に為政者はこれを奉じ、題目「南無妙法蓮華経」を唱えるべきだ。さもないと種々の災難(地震や火事など)が起こり、国内は混乱し、他国が攻めてくる。しかるに今の幕府は臨済宗や律宗を重視、世の中には念仏の声ばかりが聞こえ、堕落した僧が大手を振って歩いている。これはいけない。

・仏教思想史(救済史)の観点から言えば、釈尊(お釈迦様)・上行菩薩を日蓮は直接継承している。また、見方を変えれば、釈尊・薬王菩薩・天台大師智顗(ちぎ)・伝教大師最澄を日蓮は継承している。

・日蓮こそ法華経の行者であり、日本国の柱、日月、大船、眼目である。

・法華経を奉ずる者は必ず他から迫害される。迫害されるということは、法華経の真の行者だということの証しだ。遠国に流罪になっても、そこが布教の拠点になる。喜ぶべし。

・八幡大菩薩も法華経の行者を守るべきだ。法華経の行者である日蓮が今危険な目に遭っているのは、八幡大菩薩が仕事をさぼっているのだ(と八幡大菩薩を叱る)。

六道輪廻生き物は「六道」を「輪廻」する。念のために、本文には書いていないが、「六道」の上にさらに四段階あり、全部で「十界」と言うので、上から書いておこう。日蓮系の方は誰でもご存じの内容だ。①「仏(如来)」(悟った者、完全なる覚者。釈尊が仏だが、大乗仏教諸派では、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来などなど多くの仏(如来)を立てる)

「菩薩」(仏になる一歩前の段階で、修行中の存在。または、仏に敢えてならず一歩前の段階に踏みとどまって他者救済の利他行を続けている存在。観音菩薩や勢至菩薩、上行菩薩、弥勒菩薩ら。宮沢賢治は「おてはひとりの修羅なのだ」と言ったが、本当は菩薩だった、と私は思う。ゴータマ・シッダルタ太子は皇子の頃ボサツだったので、ボサツは首飾りなど王子の姿で描かれることが多い)

「縁覚・独覚」(縁によってみずから理法を悟る・独りで悟る)

「声聞」(他から教えを聞いて悟る)

「天上」は歓喜に満ちた世界だが、そこでアガリではない。「有頂天」でいるとまたより下位の所に生まれ変わってしまう。「摩利支天」「毘沙門天」などはインドの神が仏教の「天」になったもので、まだ妄執を残している、救われていない存在だ。

「人間」は人間で、反省・内省する存在。人間であるうちに仏教に出会い学び悟りをめざすべきだ。

「修羅」は争いを好む存在。阿修羅。イランのアフラの同系語だが、アッシリアのアッシュルバニバルが怖かったので神格化されたのかも? 今の多くの人は、金だ出世だ勲章だスポーツだブランドものだファッションと化粧で私の方が上だ、で他と競い合いマウントをとりあうことばかりしているので、みなさん修羅道に落ちているのだよ。恐竜と同じ。あれあれ・・

「畜生」は衝動のままに生きる。

「餓鬼」は貪欲の塊。

「地獄」は他人との共存関係が断たれて孤立している。(上巻78頁などによる。)俗説では炎熱地獄、針地獄などなど地獄の鬼が攻め立ててくる場所。くわばらくわばら。絵本『じごくのそうべえ』に「ふんにょう地獄」というのがあったなあ・・

「六道」とは、⑤~⑩の六つの段階を指し、この「天上」「人間」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」を我々はぐるぐると輪廻転生するのだ。仏教に目覚めて抜け出さない限り。

この十段階を併せて「十界」と言う。これは日蓮だけでなく仏教諸派で使う概念だが「十界互具(じっかいごぐ)」(十界の一つ一つが、互いに他の九界を備えているという思想)は、天台宗や日蓮宗では多用する。

・「二乗作仏(にじょうさぶつ)」「久遠実成(くおんじつじょう)」「一念三千」などの思想も日蓮にはあるが、本作ではあまり言及されていない。

 

(本作を読んでの、日蓮の教えへの感想)

 あくまでも本作を読んでの印象だ。先にお断りしておくと、私は幼時から宮沢賢治(日蓮宗、法華経の行者。国柱会の会員でもあった)の詩や童話を読んできた。日蓮の『立正安国論』は一読しただけで本当にわかっているかどうかは別。自分自身は「念仏の徒」(本作でも日蓮によってしきりに批判されている)だ。

 

 日蓮は明るく積極的だ。前向きでよい。不屈の精神がある。苦難に際しても決して挫けない。ピンチをチャンスに変える。すごくポジティヴだ。来世(死後)の極楽浄土ではなく、この世を仏国土にしようと決意し、鎌倉幕府に働きかけ、街頭で布教し、弟子の心を摑(つか)む手紙を書く。これはすごい。日蓮宗を継承する多くの派閥があるが、どこもそのような印象だ。 

 

 だが反面、独善に陥る危険性がある。日蓮宗の分派は多い。そして、自分たちこそが正統だと互いに論争している。もちろん立派な人も多い。日蓮宗は大いに発展したので、様々な人がいるのだ。漱石の『こころ』の「K」も(家は真宗だが)日蓮を尊敬していた。宮沢賢治の父親は他力浄土門(たりきじょうどもん)だったが、賢治は法華経を篤(あつ)く信仰し国柱会にも入った。賢治のいわゆる「雨にも負けず手帳」には、「雨ニモ負ケズ」の詩のラストには、法華経の曼荼羅(まんだら)(南無妙法蓮華経ほか)が書いてある。日蓮宗の分派の一つが国柱会(大正3年設立)で、創始者は田中智学。「八紘一宇(はっこういちう)」の国家主義団体であり、かの石原莞爾(いしはらかんじ)(帝国軍人)も会員だった。石原に見られるごとき世界最終戦争・満州国建国の思想は、国柱会の思想がバックボーンになっていると言われる(本当か?)。北一輝(いっき)(輝次郎)(二・二六事件の思想的背景になったとして死刑)も法華経を読誦していた。「死のう団(日蓮会殉教衆青年党)」の江川桜堂も日蓮と直結することを自称した。血盟団(「一人一殺」のテロを行った)の井上日召も日蓮宗の信者だった。江戸期の日蓮宗不受不施派は幕府によって弾圧された。戦後・現代では、石原慎太郎が法華経を愛読(?)していた。創価学会(恐らく現在最大勢力)は、もとは日蓮正宗に属していたが対立して破門された。顕正会ももとは日蓮正宗の団体だったが解散処分を受けた。顕正会と創価学会も批判し合っている。では、そのもとの日蓮正宗は、日蓮宗とはどうちがうのか? もとは同じ筈だが、日蓮宗では釈迦を本仏とするが、日蓮正宗では日蓮を本仏とする、そうだ。他に、霊友会も法華系。立正佼成会は霊友会から派生。このへんになると門外漢で素人の私にはよくわからない。みんな同じならもめなくてもいいじゃないか、と感じたりする。戦前のようにテロに走るのはダメだが。このように、日蓮及び法華経の思想は、後世に大きな影響を与えた。多くの分派を生んだ。その中には賢治のように素晴らしい人、歴史を大きく動かした偉人、著名人、団体もあれば、恐ろしいテロリストもいた。(それらを日蓮聖人が御覧になってどう言われるかはわからないが・・テロはダメ、と言われるのではないか?)多くの信者はまじめでまっとうな人が多いのだろう(本作の見助やほかの連中のように)。(テロ集団になった教派も、メンバーはくそまじめな人たちだったかもしれない!? 村上春樹『アンダーグラウンド』参照。)他の宗教団体も、大きくなったものは、大なり小なり同様の観を呈(てい)しているかもしれない。分派が増え、穏健派から過激派までが存在する、ということだ。帚木蓬生は、そこまでは書かない。(そんなことは多分ご存じだろうが、わざと作品からははずした)。まじめで善良で健気な見助という人物に、まじめで善良で健気なふつうの信者の原像を描いて見せたのだろうか。

 

 死後に救われる、のではなく、この世で何とかしようという熱意には敬服する。幕府に対しても恐れず批判する。但し宗教が政治に関わることがいいかどうかは難しい議論がある。オウム事件やイスラム過激派によるテロ事件以降「宗教テロは怖い」というイメージを持つ人が増えている。本当はこれだけでも大きなテーマで別に項目を立てて論じなければならない。道元(の実像も知らないが)のように山中でひたすら坐禅すれば利他にもなる・・かどうか?(道元は最初京都で布教しようとしたが弾圧され福井の山中に移った、という事情はあるにせよ。) 日蓮はそうではなかった。最後は身延山で隠栖(いんせい)したと見えるかも知れないが、すでに弟子を大きく育てていたと見るべきだろう(か)。北回りで渤海(ぼっかい)にまで弟子を派遣していたという説を読んだことがあるが、この説は今はどうなっているだろうか。日持上人が樺太など北回りで布教したという説は、近代以降の捏造(ねつぞう)だ、と最近は言われてるらしいが(井澗裕「日持上人の樺太布教説をめぐって─帝国日本における北進論の特質と影響(1)─」(『境界研究』No. 6(2016)pp. 81-111)?

 

(付言 念仏の徒の立場から)(あくまでも素人の考えです。浄土宗や浄土真宗を代表する立場ではありません。)

 ほんの少しだけ付け加えておこう。私は念仏の徒の一人で、念仏の徒は本作でも日蓮によって大いに批判されている。日蓮大聖人様に反論などおこがましいが、

 

法然上人は堕落・破戒僧ではなく、きわめて清廉な方であった。親鸞聖人が妻帯されたのも、俗人は妻帯し家庭人として生活する、俗人がそのまま救われるには? ということで法然上人が親鸞聖人に妻帯を命じたのではないか? という説を言う人があって、そうかもしれないと思う(あくまでも一説です)。(ここで「上人」「聖人」に使い分けには他意は無い。浄土宗では「上人」と言うが、真宗と日蓮宗では宗祖を「聖人」と呼ぶ、という辞書的な知識に従っているまでだ。「上人」と「聖人」では後者の方が偉いようなイメージがあるが、ここではそのつもりはない。どの方も本当にお偉いのだ。「偉い」と言われると謙遜しそんな言い方は辞退されるだろうが。)

 

・日蓮が見た鎌倉他には確かに堕落僧もいたかもしれないが、浄土門系では「本願ぼこり」(弥陀の本願があるから悪事をしてもよい、と悪事に耽る)はダメだと教え、薬があるからといって毒を飲んではいけない、と教えている

 

念仏往生を思う中に「三心(まごころ、深く念仏を信ずる心、日々の善行も往生のためと思う心)四修(恭敬する、集中する、積み重ねる、継続する)←浄土宗龍蔵寺(埼玉県)のサイトを参照した」はこもっています、と法然上人は言われた(『一枚起請文』)。

 

・「自分は善行ができるかというと、できない」と感じるのは、「自分は悪を避け善行をしなければならない」という強い倫理観があるからだ。だが私たちは、人を殺したつもりはなくても法・政治・経済・社会システムの中で間接的に人を殺しており(一例だが、共同体を守るために死刑を容認している、ほら、オウムの幹部を大量に死刑にしたでしょう?、中絶はどうですか、貧しい高齢者が路上で凍死することや絶望した若者が自死に追い込まれることを防ぎ得ていない、むしろ看過している、俳聖・芭蕉が河原で捨て子を見たとき「前世の運命を恨めよ」と言って立ち去った話もある(『奥の細道』)、芭蕉は俳諧を優先して捨て子の世話を放念したのだ、同じことを私たちも沢山している、世界のあちこちで紛争やテロがあるのを防ぎ得ていない、贅沢な生活で地球環境に大きな負荷をかけた挙げ句に貧しい国やエリアで大災害が起こって人が死んでいく間接的な原因になっている)、これを今すぐは如何(いかん)ともすることができない。泥棒をしたつもりはなくても同じく経済・社会システムの中で間接的に貧しい人や貧しい国の人から搾取しており、フェアトレード商品を多少買ったくらいでは補えない。(こう言われると現代の日本人で反論できる人はあまりいないのでは?)「妄語」は(言うまでもなく)山ほどしている・・このように「五戒」すら守っていない。自力聖道門(じりきしょうどうもん)の偉い方々の成し遂げる種々の善行(出家しお経を読み仏像を礼拝供養し仏塔を建立し寺院を建造し弟子を育て悲田院や施薬院を拡大しこの世から悲しみ苦しむ人がいなくなるよう種々の方策を講じていく・・宮沢賢治(注)は「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言った。宮沢賢治は全身全霊で善行を行おうとした)は、とてもじゃないが私は実践できていない。他力浄土門(たりきじょうどもん)で阿弥陀様(あみださま)におすがりするしかない・・と私は考えた。「私に責任はない、私は罪深くない、私には煩悩はない、私は悪業を積んではいない、私は修行ができている、私は正しい、あいつらは間違っている、あいつらは罪深さばかり言って暗いね」などと声高に他責的に叫んでは人を排除したがる人がいるが、自己省察が足りないのではないか? 自分にはできていない、という自己省察があるから(自分に厳しいから)法然も親鸞も他力本願にすがったのだろう。「自分を許し他人を許し・・」と五井昌久(白光真宏会)は言った(これはとても大切な境地だと私は思う)が、これも自己に倫理的に厳しい方だったからこそ出る科白だ。

 

(注)『銀河鉄道の夜』のジョバンニは「ほんたうのさいはひ(本当の幸い)」を探す旅を続けるのだった。「ほんたうのさいはひって何だろう」という問いを持ちつつ・・カンパネルラはいじめっ子ザネリを助けるために死んだ。立派な人が悪人を助けるために死ぬのだ。ああ、それでもなお(それゆえになお?)、ジョバンニは、たった一人になっても、本当の幸福を探すために宇宙の旅を(修行を)続ける・・善財童子は旅を続ける。あの人もこの人も旅を続けている。『ひかりの素足』(←必読)では白い足をした立派な大きな人が現われて言う「怖いことはないぞ。お前たちの罪はこの世界を包む大きな徳の力に比べれば・・小さな露のようなものだ。何にも怖いことはない」と。すべてが癒される。地獄の鬼も泣いてひざまずく。また、内村鑑三は「神、みずから我が涙を拭い給う日が来る」と言っている(ヨハネ黙示録21-4から)。もはや理屈は要らない。ここに巨大な他力が発動している。日蓮も自力で努めるが、諸仏諸菩薩に守られているので、完全に自力(self help)ではない。宮本武蔵は「神仏を尊びて、神仏を頼らず」と言ったそうだが、「頼らず」と言っても自力だけで生きている人はいない。(少し話がずれるが)神仏だけでなく周囲の人だけでなく遠く見知らぬ人々、過去世代の人々、生態系などなど多くのものに生を負うている。最近では未来世代にまで借金を肩代わりして貰っている。「自分は努力した、あいつらは努力が足りない、自己責任だ」と言う人の気が知れない。

 

・「死んでから極楽浄土に行けばいいのならこの世で努力しなくなるじゃないか」という批判に対しては、次のように反論できる。この世で何もできず疎外され抑圧され差別され無力感に喘(あえ)いでいる者が、「いや、あなたも念仏一つで極楽浄土に行ける」と言われれば、喜び、顔を上げ、胸を張ってこの世を生きていけるようになるではないか。適切な例と言えるかどうかわからないが、最高の恋人と婚約した人が将来の幸福な結婚生活を夢見て今を希望を持って生きられるようなものだ。あるいはまた、あこがれの有名大学に指定校推薦で合格し進学が決まった高校生が、残りの高校生活を胸を張って希望を持って生活できるようなものだ。将来の希望があれば人は胸を張って生きていける。そこでやけをおこしたりしない。この意味で法然・親鸞の教えは、この世で絶望していた人に、光を灯したと言える。キリストも同じ。この世で病気直しをしながら、そこでとどまるのではなく、差別され排除され抑圧された無力な人に向かい「天国はあなたのものだ」と将来の希望を約束された。言われた側は嬉しい。小躍りして立ち上がり、力一杯生きていけるようになる。一部のエリートだけ救われればよしとするのではない。

 

・もう一つ、死者の問題がある。本作で日蓮は念仏宗の「倶会一処(くえいっしょ)」(浄土でまた会おう)を否定しているが、私は、亡くなった親しい方々とお会いしたい気がする。まして、天災や戦災やホロコーストで非業の死を遂げた方々は、浮かばれていないではないか? この世を仏国土(いい社会)にするのも大事だが、死んだ人はどうなる? (禅宗では死は死、生は生、と言って、死者がどうなる、は答えてくれない(ようだ)。)(無神論者は、死んだら何もなくなる、と断定するだろうが、果たしてそれでいいのか?)日蓮はどう答える? 本作では、栄屋の主人(柴作)が亡くなり泣いているおかみ(たえ)に対して、日蓮が「本当につらいのう。・・しかし、人はひとつの個でありながら、宇宙でもある。柴作殿は今、この宇宙になっておられる。宇宙であれば、いつもたえ殿を包んでおられる。何の心配もいらない」と切々と説く。(これは帚木蓬生が書いているのであって、日蓮の死生観かどうかは知らない。)あたたかいやさしい心が日蓮にはある(としばしば言われる)。が、これで本当に回答になっているだろうか? 人間も物質でできていて諸元素に解体され宇宙に散らばると思えば安心立命がある、とかつて理系の偉い先生が言われたのを思い出したが、果たしてそれで安心立命があるだろうか? どうだろうか? 私は、極楽浄土から来た方が極楽浄土に帰って行った、私らもそこに行けばまたそこで会える、と言って貰える方が安心する。(それも煩悩なのかもしれないが・・?)

 

 

 内村鑑三『代表的日本人』の5人のうち第5番目に日蓮聖人を挙げる。内村の実家は日蓮宗であった。(父親は陽明学者。)仏教内の革新を行った日蓮のように、自分もキリスト教内の革新を行う、と自負していたかも知れない。熱狂的なところを取り去った日蓮こそまことの宗教者だ、と内村は言っている。そう言えば日蓮と内村は似ているかもしれない。

 

 近所に日蓮宗の寺があり、日蓮の石像が建っている。意志的で力強い表情とお姿だ。パワータイプのレスラーと言ってもよいほどだ。こういう力強い方だったのかもしれない。法然上人の表情は柔らかく温顔で、親鸞上人の表情は鋭く厳しい(私の曾祖父に似ている)。日蓮の生涯は劇的(ドラマチック)で、講談にもなっている。

 

(法華経について)

 法華経は、大乗仏教の経典。キリスト教の聖典は旧約聖書と新約聖書だけだが、仏教の経典は無数にある。どれが正しいのか? どれを学ぶべきなのか? 天台大師智顗(ちぎ)が「教相判釈」を行い、法華経こそ釈尊の最高最後最大の教えだ、と判定した(と言われる)。伝教大師最澄や日蓮はこれを継承し、天台宗や日蓮宗では法華経を重視する。

 

 仏教学によると、もともとは大乗仏典の成立は紀元前後以降。サンスクリット語の『正しい白蓮の教え』を漢訳する際に、竺法護(じくほうご)『正法華経』、鳩摩羅什『妙法蓮華経』ほかいくつかの訳本があったが、鳩摩羅什のものが最も流布した。『般若経』『維摩経』では声聞・独覚は仏にならないとしたが、『法華経』では『法華経』の一句でも聞いて喜ぶ者は皆仏になる、とする。ブッダガヤの釈尊こそが久遠の昔に成仏した本仏だ、とする。

 

 歴史上の釈尊(ゴータマ・シッダルタ)は紀元前後にはすでに逝去しているので、『法華経』ほか大乗仏典は釈尊の説いたものではないという考え方(大乗非仏説)もあるが、これに対しては、本当の仏が釈尊以前にもあり、釈尊としてもあり、釈尊以降にも出現してくる、と考えれば解決してしまう。

 

 

(元寇について)

 元寇(げんこう)または蒙古襲来は、辞書的な知識によれば、次の通り。

 

 モンゴルの支配者フビライ(チンギス・ハンの孫、蒙古帝国第5代皇帝)は、1234年に金(女真族)を滅ぼした。高麗に侵攻し、1271年国号を元と改め初代皇帝(世祖)となった。都は大都(北京)。1274年(文永11年)に1回目の日本侵攻(文永の役)。高麗の船を使い900隻兵力2万人以上。対馬・壱岐・筑前博多に上陸。暴風(台風ではなく寒冷前線による強風?)のため退却。1275年フビライは使節を日本に送る。北条時宗はこれを斬首(外交音痴)。1279年南宋を滅ぼす。1281年(弘安4年)2回目の日本侵攻(弘安の役)。この時はモンゴル人だけでなく、漢人・高麗人を含む東路軍(900隻4万人)、滅亡した南宋人を含む江南軍(3500隻10万人)(これらの数字は合っているのだろうか? 中国史お得意の誇張した数字かも?)の二軍で侵攻。日本軍の奮戦と7月の台風により敗退。日本は防衛にコストがかかったが努力した御家人に与える恩賞がなく鎌倉幕府が揺らぐ大きな原因の一つになった。

 

 これについて、蒙古は何度も使者を遣わしたが鎌倉幕府(執権)が相手にしなかった(外交音痴だった、または南宋と繋がっていた)、1回目は示威行動だけで攻め込むつもりはなかった(日本と南宋の連携を断ちむしろ日本と蒙古で連携する意図)、2回目は本気で攻めてきたが高麗や南宋の兵隊はやる気が無かった、台風で沈んだ船は言われるほど多くはなかった、フビライは3回目の侵攻も考えていたが民の疲弊、ベトナムの抵抗などもあって実現しなかった、などなどの主張が近年なされている。

 

 それにしても! モンゴル(元)はなぜ世界征服戦争を始めたのだろうか? 日本にまで遠征する必要があったのだろうか? これがわからない。(秦始皇帝はなぜ中国を統一し、曹操はなぜ南下し、信長はなぜ天下布武をし、薩長はなぜ東征したのか? やらなければいいのに、というのが素朴な疑問だ。)モンゴル(元)は実は暴力で殺戮・略奪ばかりしていたわけではなく、巨大な通商国家だった、ウイグル人やソグド人などの通商で利益を得ることを知っているイスラム商人たちがモンゴル(元)のブレーンに大勢いた、という見方を最近教わった。では、日本やベトナムに対しても、南宋を包囲するためだけでなく、海上の交易圏を拡大するために、艦隊を派遣したのだろうか? 交易をするのに、艦隊を派遣するとは、どういうことだろうか? 武力で相手を押さえ込んで、自分に有利な交易を進めようとしているのだとすれば、フェアではないし結局コスト高だよな(その証拠にモンゴルは日本遠征でコスト高になって疲弊した)・・おや、現代ではどうかな・・? あそこもそこもコスト高になって疲弊しているよな・・と私は(?)を持ってしまっている。

 

(蒙古襲来に関する他の作品は)

今村翔吾『海を破る者』(2024年5月):伊予の河野氏を描く。殺し合いを何とか避けようとする。またキーウ(ウクライナ)出身の女性が出てくる。ロシアのウクライナへの侵攻(2022年2月~)という世界情勢の下で描かれた。

 

(医者で作家といえば)

森鴎外『舞姫』『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』、安部公房『壁』『砂の女』、北杜夫『夜と霧の隅で』『楡家(にれけ)の人びと』、渡辺淳一『白い宴』『花埋み』、なだいなだ『お医者さん』、加藤周一『ある晴れた日に』『日本文学史序説』『雑種文化』『羊の歌』、加賀乙彦『宣告』『フランドルの冬』『不幸な国の幸福論』、帚木蓬生『閉鎖病棟』『三たびの海峡』『白い夏の墓標』『花散る里の病棟』、南木佳士(なぎけいし)『ダイヤモンドダスト』、和田秀樹『受験のシンデレラ』、久坂部羊『破裂』『悪医』、海堂尊(たける)『チームバチスタの栄光』、南杏子『いのちの停車場』、夏川草介『神様のカルテ』、コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』、チェーホフ『桜の園』、モーム『人間の絆』、魯迅『故郷』『阿Q正伝』、クローニン『人生の途上にて』