James Setouchi
2024.11.29
法然『選択本願念仏集』岩波文庫他で読める
1 法然上人(1138~1212)
浄土宗の祖。一心に念仏する=阿弥陀如来の名を称(とな)えることを教えた。法然房源空。
美作(みまさか)の国(今の岡山県北部)に生まれた。父漆間(うるま)時国は横領使(おうりょうし)。横領使は、武士達を指揮して盗賊などを取り締まる役人だ。明石定明という者と対立し、夜襲に遭って殺されてしまう。法然上人(幼名は勢至丸=せいしまる)が9歳の時のことだった。(年齢は数え年。)
このとき、父時国は、幼い勢至丸に、「仇討ちをするな、仇討ちは仇討ちの連鎖を生む、おまえは仏門に入れ」と行ったと言う。武装した者達が土地利権を巡り血で血を洗う抗争を繰り広げることも多かった当時に、時国は仇討ちをせず仏の道に入ることを教えた。
勢至丸は出家し寺に入る。13歳で比叡山へ。法然房源空と名乗り、特に西塔黒谷の慈眼房叡空のもとで浄土思想を学んだ。やがて唐の善導(ぜんどう)和尚の教え「一心専念弥陀名号」に出会い、自己の立場を確立、43歳で比叡山を下りる。ここに浄土宗は開宗された(浄土宗の立場による)。1175年のことだ。法然上人は30年間学んだのだ。
比叡山を下りた法然上人は京都の東部の吉水(今の知恩院あたり)に住み、念仏しつつ人々に教えを説いた。時あたかも平安末期=減配の騒乱の頃で、苦しむ人々は上人のもとに陸続と集まり、吉水の草庵は多くの貴賤男女で賑わったという。
法然上人は人々の求めに応じて教えを体系的に述べようとして『選択本願念仏集』を口述筆記させた。1198年、66歳のことだ。(ある本意夜と、この「選択本願」の思想的立場への深化は、1190年頃に行われた。)
法然上人のもとには多くの人が集まった。旧仏教(比叡山や南都興福寺)は面白くなく、法然一門を弾圧した。法然上人は75歳の高齢で土佐国(高知県)に流されることになった。(実際には讃岐=香川県にとどまった。)流されても、地方の人に教えを弘める好機と上人は考えた。(弟子の親鸞はこのとき越後=新潟に流された。)
80歳で京都に戻り、そこで入寂した(逝去した)。なくなる前に『一枚起請文』というものを弟子の源智に与えた。それには念仏のエッセンスが書いてある。
その教えは浄土一門に継承され各地に伝わった。京都の知恩院は源智が2世となった。親鸞の流れからは浄土真宗ができた。
2 内容
法然上人以前の様々な仏教書を引用し、法然上人自身の考えを加えつつ、浄土門・正行・正定業(しょうじょうごう)の称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を実践すべし、念仏は阿弥陀仏の本願にかなう行だ、という考えを述べている。
まず、中国の道綽(どうしゃく)や曇鸞(どんらん)の言により、聖道門は難行道であるのでとらない。救いのない今の時代にあって、私のような救いがたい身は、浄土門易行(じょうどもんぎょう)道をとる。仏の願力によってたやすく救われる道だ。
次に、善導(ぜんどう)の言により、もろもろの雑多な修行を捨てて、正行(純正な修行)をとる。正行のうち弥陀の名号を念ずる(念仏する)が正定業で、読誦・観察・礼拝・賛嘆は助業とする。
『無量寿経』や『観無量寿経』を深く読むと、念仏は阿弥陀如来の本願に適うものだ。阿弥陀仏が本願の対象として念仏を選択したもうたのだ。念仏には無上の功徳があり、念仏は末法万年の後にも残る。釈尊も他の善行でなく念仏を教えた。世界中の仏も念仏を真実なものだとし、仏や観音が念仏者を護る。
『観無量寿経』に対する善導の注釈書は、阿弥陀仏の導きのもとに書かれた。私(法然)は、善導和尚の教えに出会って以来、念仏一筋に打ち込んできた、などなど。
3 補足
梅原猛は、法然をデカルトと同じように論理的で明晰だと絶賛している(『法然の哀しみ』他)。町田宗鳳は、法然には阿弥陀如来の姿がリアルに見えていた、とする(『法然を語る』他)。法然の弟子が親鸞、親鸞の弟子が唯円。唯円が『歎異抄』を書いた。『選択本願念仏集』と『歎異抄』を読んでみよう。
法然『選択本願念仏集』岩波文庫他で読める