James Setouchi

2024.11.29

  小山聡子『浄土真宗とは何か』(中公新書2416)2017年1月

 

1 小山聡子 1976年~。筑波大学第二学群日本語・日本文化学類卒。二松学舎大学文学部教授。著書『護法童子信仰の研究』『親鸞の信仰と呪術』『源平の時代を視る』(共編著)など。

 

2 目次:まえがき/序章 浄土真宗の前夜/第一章 法然とその門弟/第二章 親鸞の生涯/第三章 親鸞の信仰/第四章 家族それぞれの信仰―恵信尼・善鸞・覚信尼/第五章 継承者たちの信仰―如信・覚如・存覚/第六章 浄土真宗教団の確立―蓮如とその後/終章 近代の中の浄土真宗―愚の自覚と現在/あとがき

 

3 内容の紹介:平安時代、源信の『往生要集』を代表として、浄土信仰が盛んになるが、その際、極楽往生のために清浄にする、西を向く、阿弥陀仏像の左手から垂れる五色の布を病人が持つ、念仏や読経以外の声をシャットアウトするなどの「臨終行儀」が重視された、と著者は言う(p.12,13,19)。法然の場合は、専修念仏をよしとし(p.24)臨終行儀を否定したが、臨終行儀における五色の糸は拒んだものの円仁大師の袈裟を着たと親鸞編『西方指南抄』にある(p.35)。これは臨終行儀のやり方だ(p.36)。親鸞は、「信心を得ることも念仏を唱えることも、すべてが阿弥陀仏の計らいによる他力であることが肝要だ」と考えた(p.88)。だが、阿弥陀仏の慈悲を強調する時には「自力の行者も真の極楽浄土に行ける」とし、他力の必要性を強調する時には「仮の浄土に往生すると真の浄土には行きにくい」とした。親鸞にも矛盾がある(p.116)。親鸞の弟子や家族にも揺らぎがあった。妻の恵信尼は石塔建立や臨終行儀(浄衣)にこだわった(p.131~134)。子どもの善鸞は関東で呪術を採用して義絶されたが、まずは東国の人々が現世利益を求めたのではないか(p.150)。末娘覚信尼も臨終行儀や往生の時の奇瑞を期待し、恵信尼の死装束にも疑問を持たなかったのではないか(p.158)。孫の如信やひ孫の覚如も、『最須敬重絵詞』(覚如の弟子・乗専の制作)などによれば、呪術(如信は善鸞とともに)や臨終行儀(覚如は念仏をし、異香や音楽を得た)を行っている(p.168,169)。覚如は公的には他力信仰を説くが、自身は追善供養や神社参拝を行い、臨終行儀(西向き、念仏)も行っている(p.179,182,187)。途中を略すが、本願寺が信長と対決した時には「進まば往生極楽」(p.235)と自力主義に陥っている。

 このように、親鸞は他力主義の理想を説いたが、親鸞自身にもゆらぎがあり、周辺の人にもゆらぎがある。平安以来の呪術や自力の念仏や臨終行儀の習慣は根強かった。親鸞及び鎌倉新仏教の革新性ばかりを見ず、呪術信仰の世界の中で生きた彼らを活写すべきだ(p.256)。最後に、親鸞は「愚の自覚」(p.263)に徹していた。「愚の自覚」の試みは現代社会の諸問題に解決の糸口になるに違いない(p.263)、と著者は結ぶ。

 

4 コメント:私自身は親鸞に義絶されたとする善鸞について知りたいが、手掛かりがあまりないので、手始めにこの本を手にとってみた。著者は歴史学者であり、浄土真宗の信者の立場からこれを書いてはいない。学者(宗教社会学者、歴史学者、哲学者など)の宗教へのアプローチは、その宗教の信者から見ると、「肝心なところは何もわかっていない」「所詮不信心な人の発言だ」となるのであろうか。小山氏は学者の立場で、親鸞ほかについて読み解き、考察していく。

 その際、平安仏教にもあった自力的な信仰、すなわち、呪術、自力の念仏、特に臨終時の対応(臨終行儀)や追善供養など(A)が、親鸞の他力信仰の理想(B)にもかかわらず、親鸞自身の中にもゆらぎとしてあり、親鸞を取り巻く人々(家族や後継者など)にも混入していたことを、明らかにしていく。親鸞の和讃や覚如の伝記絵巻『慕帰絵詞』『最須敬重絵詞』なども用いていく。(A)と(B)の分析はうまい視点だし、よく調べているのは感心する。

 だが、

(1)後世の人がそう描写しているから本人がそうだとはならないはず(例:『最須敬重絵詞』)。

(2)法然を専修念仏で済ませているが、それは浄土真宗から浄土宗を見て差異化するときの見方であって、親鸞には法然と違った教えを説いたつもりはなかったはず。(3)また、(A)を行ったから(B)から堕落している、などと言えるのだろうか? もともと源信にもあり法然にもあり親鸞にもあったものは、阿弥陀如来の圧倒的な誓願の力で人々は救済されるという信仰であり、自力聖道門では救済されない末法時代の我々も救われる、自力作善できない弱い人も救われる、という有り難い救済の論理であったはず。平安仏教の慣習(A)の中からでもこの境地(B)を開いたのが偉大なのであって、せっかく(B)を持っていたのに(A)へと逸脱している、とするのはいささか厳しすぎるのではなかろうか? 絶対他力(B)に頼りきれず思わず神社仏閣に参詣し、あるいは呪術に頼り、あるいは自力の念仏や臨終行儀や追善供養(A)をしてしまう心弱い人びとをもまた、阿弥陀如来は完全に救済する、と考えればどうであろうか? 臨終行儀や追善供養(A)などしてもしなくてもよい、ならばしても一向に構わないはずだ。そんな小さなことを阿弥陀如来は気になさらないだろう。もちろん阿弥陀如来の本願は、何もできない弱い人、一心に阿弥陀如来をお頼み申し上げる念仏者にまずは向かうだろう(悪人正機)が、それ以外の人も、心から我が無力を自覚し一心に阿弥陀如来を頼む瞬間が、長い人生の時間には必ずあり、これに対し阿弥陀如来は必ず答え給う、と信仰の論理ならなるはずだ、と私は素人ながら考えてみるのだが、皆さんはこれについて、どう考えますか?   R1.7.28

 

(仏教関連でこんな本はどうですか)手塚治虫『ブッダ』(漫画)、小池龍之介『超訳ブッダの言葉』、『ダンマパダ』、『スッタニパータ』、『ブッダ最後の旅』、宮本啓一『ブッダが考えたこと』、『法華経』、『浄土三部経』、景戒『日本霊異記』、空海『三教指帰』、源信『往生要集』、法然『選択本願念仏集』、梅原猛『法然の哀しみ』、聖覚『唯信鈔』、親鸞『末燈鈔』、唯円『歎異抄』、栄西『興禅護国論』、道元『宝慶記』、懐奘『正法眼蔵随聞記』、宮沢賢治『ひかりの素足』、紀野一義『永遠のいのち<日蓮>』、五木寛之『蓮如』、水上勉『一休』、紀野一義『名僧列伝』『いのちの風光』、坂村真民『念ずれば花開く』、野々村馨『食う寝る座る永平寺修行記』、高瀬広居『仏音』、島田裕巳『葬式は、要らない』、末木文美士『日本仏教の可能性』、アルボムッレ・スマサナーラ『怒らないこと』、ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』などなどはいかがですか。