James Setouchi

2024.11.24

読書会『方丈記』2025(R7)1.11(土)9:30~の予定だったが、路面凍結のおそれがあるので、1月13日(月)(祝)9時半からに変更しました。

 

(1月11日でなく13日月・祝は『方丈記』、2月8日(土)は『宇治拾遺物語』の有名なものを予定)

 

『方丈記』については、

・角川ビギナーズクラシック(平成19年)『方丈記(全)』がわかりやすくて便利。値段も安い。

・講談社学術文庫の安良岡康作『方丈記』もよい。(昭和52年)

・ちくま文庫の堀田善衛『方丈記私記』(もと1971年、文庫は1988年)は実に勉強になる。当時の他の資料も紹介してある。

・磯水絵(二松学舎大学文学部教授)という人の「本当に不運だったの? 『方丈記』の作者・鴨長明の人生を読み解く」(H26.4.18講演)は一般向けでわかりやすい。

・木下華子(東大文学部人文学科)による金曜特別講座(R5.5.12)も有益だった。

 

Q1 兼好『徒然草』に比べ長明『方丈記』は価値が劣るかのように言う人があるが、果たしてそうか?

(例1)小林秀雄『徒然草』(略。『徒然草』読書会の回に確認)

(例2)岩波新書『日本文学の古典 第二版』(1966)(該当箇所は恐らく永積安明(1908~1995)=神戸大名誉教授、専門は中世文学):

・「(長明が)世界のほろびをどうにもならぬものとして消極的に認めたのとちがって、兼好法師は、生命や世界のほろびを、・・・強く肯定したばかりでなく、さらに積極的に、「世はさだめなきこそいみじけれ」(第七段)とし、・・生命も世界も、ほろびるがためにかえって美しさもあり、情趣もふかいのだと主張するのである」(p.119)

・「(兼好は)「古き世」が、どうしてもほろびていくものであることを、はっきりと見ぬいていた。・・かれは、貴族の世界から隠者の世界にはいることで、貴族階級の没落過程を、比較的つきはなして観察する可能性をえた・・」(Q2の本、p.123) 

→仮の答:歴史の発展段階説により、武士の新時代がくることを歴史の進歩と捉え、そこにむけて開かれているかどうか(長明はそうでない、兼好はそうだ)で価値判断をしているのではないか? 小林もどこかでそれに左右されているのではないか? 歴史の発展・進歩などない、という立場で再読すると、長明には長明の独自の価値があるのでは? 

 

Q2 「南無阿弥陀仏に安住できなかったところに、長明の文学的な出発点がある。」とあるが、本当か?

→仮の答:「南無阿弥陀仏」は晩年の『方丈記』の末尾にあるので、「出発点」とは言えない。むしろ終着点では? また、念仏でいいかどうかは、『発心集』も読まないと分からないが、『方丈記』最後の箇所(「念仏を二三回申してやみぬ。」)の解釈によるが、比叡山の天台系の浄土門の流れの中にあって、最後は他力本願ゆえ念仏でいい、中途で終わってもよい、とも読めるのでは?

 

1        著者年譜 鴨長明 (角川文庫ビギナーズ・クラシックから)

1155(久寿2)~1216(建保4)。享年61(数え62)。平安末期~鎌倉初期。

京都の賀茂御祖神社(下鴨)の正禰宜(しょうねぎ)惣官長継の次男として生まれる。

1175(安元1)、この年、賀茂御祖神社禰宜の座をめぐり、鴨祐兼に敗れたか。

1177(安元3=治承1)、4月、安元の大火

1180(治承4)、4月、洛中に竜巻。6月、福原遷都

1181(養和1)、『鴨長明集』成る。81~82年、養和の大飢饉

1182(寿永1)、『月詣和歌集』に4首入る。

1184(元暦1)、この年以降、父方祖母の家を出て賀茂川近くに転居

1185(元暦2=文治1)、3月、平家滅亡。7月、大地震、余震続く。

1186(文治2)、秋から翌年、伊勢・熊野をめぐり『伊勢記』

1187(文治3)、『千載和歌集』に1首入る。

1191(建久2)、この年までに俊恵(歌の師匠)没。

1200(正治2)、院当座歌合、和歌会、土御門内大臣家影供歌合、石清水社歌合に出席。

1201(建仁1)土御門内大臣家影供歌合、新宮撰歌合。和歌所寄人となる(4年間でやめた。)。後鳥羽院の信任。ほかにも歌合に出席。

1202同様。

1203同様。9月、源実朝が三代将軍に。河合社の禰宜職就任工作が失敗。

1204(元久1)、4月、出家して京都北郊の大原に転居。(大原は京都からバスで50分。)

1205(元久2)以前か、このころ(諸説あり)、琴の「秘曲尽くし」事件・・発覚し批判される。

1207(承元1)、洛中大火、疱瘡流行。

1208(承元2)、このころ、京都南郊の日野の外山に移り、方丈の庵を結ぶ

1211(建暦1)飛鳥井雅経(蹴鞠の師匠)の推挙により鎌倉へ。実朝に面会。このころ『無名抄』(歌論書)成るか。

1212(建暦2)3月、『方丈記』(随筆)成る。

1214(建保2)、このころ『発心集』(仏教説話集)成るか。

1216(建保4)、閏6月9日没。(8,10日説もある。)

 

1        神主だったが出家(当時は普通)

2        殿上人ではないが和歌所寄人に(破格の扱い)。熱心に勤務。歌合にも多数参加。若き藤原定家を4-0で負かせたことも。俊恵(六条源家)の弟子。やがて藤原俊成・定家(御子左家)に合わせる(堀田善衛)。五十過ぎて鎌倉下向、源実朝に会ったのは歌の師となろうとした?(実朝は定家派だったので失敗して帰京)。→『無名抄』(歌論)

3        和歌、蹴鞠、琴、琵琶など、貴族社会の教養に秀でていた。→趣味人、と理解されることが多いが・・「秘曲づくし」事件でタブーに触れ逐われたか?

4        源平の合戦(平家滅亡)を目撃。火事、地震、飢饉、竜巻なども目撃。→『方丈記』に克明に記す。

5        災害現場に実際に足を運んで見に行ったのではないか(堀田善衛)

6        転居するたびに家が小さくなり、最後の日野での方丈の庵は可動式(運搬できる)。→『方丈記』

7        最後は日野法界寺の近く。親友の禅寂(ぜんじゃく)(俗名日野長親)は法然の弟子。

8        彼の隠遁は都市型の隠遁。(完全に山中に隠れるのではない。)京都が観望でき、近郊を歩き回る。法界寺とも関係が?→『発心集』(隠遁して念仏した人の列伝など)は法界寺の書物を見たりしたのでは? 禅寂(専修念仏)が加筆した可能性も?

 

2 『方丈記』 署名は蓮胤(れんいん)←出家後の名。

(1)      冒頭

・無常観、リズムの良い美文

・人と住みかについて言う→最後の日野の方丈に向かう書き出し

・大が小になる。「小が大になる」とは書いていない。進歩・発展・成長史観ではない。

(2)      大災害の記憶

*大火、竜巻、首都移転、飢饉、大震災・・・人災が一つ入っている。が、時代(歴史)の大きな転換を実感させる事象として併記したのでは? 首都移転も自然災害もどれも背後に人為ではない何者かの意志が働いている、と考えることはできる。当時はそう考えたのでは。「不思議」(「因果」ではない)

*今日なら、天災は人災でもある、とも言い得る。(地震・津波・原発事故は単なる「天災」と言えるか? 豪雨災害は単なる「天災」と言えるか?など)

①大火・・『平家』は『方丈記』を写したか。死者数は『方丈記』は少ないが、京都の人は火災から逃げるのがうまく、これが実数では? あまりにリアル。貴族の記録では書けない。長明は歩いて見に行ったのでは。昭和20年3月の東京大空襲の記憶と重なる。(堀田善衛)「地獄のようだ」というのは、当時あった地獄図を見たのでは?(木下華子)

②竜巻(辻風)

③福原移転・・「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありたる人は皆浮雲の思ひをなせり。」(堀田が注目)「世の乱るる瑞相(兆し、というほどの意味にとる解釈が多い)」「いにしへの賢き御世には、憐れみをもちて国を治めたまふ(為政者批判)」

④大飢饉・・大量の餓死、死に瀕して愛の強い方が先に餓死、隆暁法印が死体に阿字を書く。死体は42300体。

⑤大地震・・余震も続く(これはリアル!)、人々はすぐ忘れる。

*以上まとめて、この世で生きるのは大変だ。権門や富豪のそばでは心が落ち着かない。都は災害に弱い。他者との関係も難しい→どこに住めばいいのか? と、結局住居の話に結びつける

(3)過去を回顧(住居の大きさに注目)

*父母の邸は大きかった。30才くらいで賀茂川に転居、家は10分の1になった。50才で出家して大原で修行。60才(実際には54才)で日野に転居。30才の時のに比べ100分の1以下。解体式。運搬車で2台分。建築も得意?←鴨一族の資金があったのでいい資材を持ち込めたのではないか? とビギナーズクラシックに書いてあったが、本当か?

(4)山中の独居

*阿弥陀像、普賢菩薩、法華経、和歌や音楽の書や『往生要集』(恵心僧都源信)の抜き書き、琴と琵琶、西が見える(西方極楽浄土)、藤が紫雲(阿弥陀様が乗って迎えに来る雲)のようだ、ホトトギスは死者の国との通信、雪が(罪障のように)消えては積もる。

①貴族趣味を捨てていない? →『発心集』では、音楽などへの執心をどう見ているか?

②阿弥陀三尊像ではないし法華経を置いているので、天台宗の中から出てきた浄土門と見るか。

③しかし、西方極楽浄土を仰ぎ見てはいる。

*白楽天を想起、琵琶の秘曲(いつでもは弾いてはいけないはずのもの)も弾く「ザマアミロ」と思っている←堀田善衛。←本当か? 宮廷の窮屈なルールに縛られず伸びやかに、という程度でいのでは?)

*山番の人の男の子がいる。歩いて遠出も。里や山へ。あちこちを観望する。自然の中で風情を感じて生活。

*名利を追わず心静かに生きる。自分だけの庵。広大な邸宅は要らない。

*使用人を使わず、自分でやる。粗衣粗食でよい・・→ミニマリスト。

*自然の美を楽しむ。京に出ることも。<都市型の隠遁

(5)人生観のまとめ

*執着心を捨てる、といいつつ心は濁りに沈んでいる。チューラパンタカにも及ばない。「貧賤の報(貧賤に生まれつくべき前世の報い)」か、「妄心のいたりて狂せる」か。「舌根をやとひて不請の阿弥陀仏両三遍申して、やみぬ。」・・解釈分かれている。角川ビギナーズクラシックによれば、

    ①答えが出せない・・長明の誠実な人柄?

    ②自分を責める・・共感できる?

    ③わざと強烈な問いを出して読者に印象づけた?

    ④問いにこだわることも執着だから、無言しかない。が、自問自答のため、

    あえて答として舌を雇って念仏を二三回申しただけにした? 「他力本願の 

    念仏」ではなく、「無我に近い心境の中で念仏が自然に」口から出た?(ビ

    ギナーズクラシック著者)→「他力本願の念仏」ではなく「無我に近い心境

    の中で念仏が自然に」とは? 「無我の心境」の中に仏の「他力」が入って

    いるのでは?

    ⑤こちらが請うたわけではないが圧倒的な力で向こうから来る阿弥陀仏の名

    号を称名することを得て、それでよしとした、となるかも。「やめ」なら

    人為的に中止しているが、「やみ」だから自然に終わったのだ。「これで

    いいのだ」という感じでは?・・自分が濁りに沈んでいるという自覚は、浄

    土系ではよくある。法然も親鸞も「煩悩具足」の自覚がある。だからこそ阿

    弥陀如来の救済がある。この図式は長明も同じ、と考えることができる。

 

(参考)「記」の文学・・中国に白居易『草堂記』(中唐)、日本に慶滋保胤(よししげのやすたね)『池亭記』(平安中期、漢文)、源(久我)通親『久我草堂記』(平安末)などあり。後世、芭蕉『幻住庵記』(1690年頃)・・「記」は、事実を記しつつそこに自分の感想や意見を記した?

 

3 『発心集』 「やたがらすナビ」というサイトで読める。本文は出版されているものと少し違うところも。

*法話のための講義ノートだとすると、聴衆に法話をしていたかも?

*法界寺の書庫を見たかも?

*法然の弟子の禅寂の手が入っている箇所も?

(1)第二第13話(25)善導和尚が仏を見る事:善導は道綽の弟子。師匠に超えて阿弥陀仏を見た。志を深くして怠らないなら、疑いのあるはずがない。:善導は、法然が尊敬した中国の僧。

(2)第三第3話(28)伊予入道(源頼義)、往生の事:源頼義は、多く人を殺したが、悔いて発心・出家して往生極楽を一心に願い、往生した。子の八幡太郎義家は、懺悔しなかったので、無間地獄に落ちた。:武士の模範と言われる源義家が、地獄に落ちた、と明確に言っている。新しい階級が登場したから素晴らしい、という視点ではない。

(3)第七第1話(76)恵心僧都、空也上人に閲する事:恵心僧都空也上人に会いに行き「智慧・行徳なくとも、穢土を厭ひ浄土を願ふ心ざし深くは、などか往生を遂げざらん」との教えを頂き、そのことを思って、『往生要集』を選んだときに「厭離穢土・欣求浄土」を先とした。:空也は「市の聖」、恵心僧都源信は『往生要集』の著者(撰者)。いずれも浄土門の系列。この流れから法然、親鸞が出た。

・・これらがすべてではないが、こうした記事も『発心集』にはある。

 

その後の読書会の予定(まだ案)  原則として土曜朝9時半~月に1回

2月8日(土)『宇治拾遺物語』から1-12「児のかい餅するに空寝したる事」、2-7「鼻長き僧の事」、3-6「絵仏師良秀家の焼を見て悦ぶ事」は必ずやり、他のどれかもやるだろう。

(2-7は芥川『鼻』、3-6は芥川『地獄変』の言わば元ネタ。(厳密には『鼻』は『今昔』からのようだ。)

*『今昔』は文庫で何冊もあるので買うと高い。『宇治拾遺』なら一冊で買いやすい。

3月以降(日程未定)は『枕草子』(「春はあけぼの」は必ずやり、他もやる)、『竹取物語』(冒頭とかぐやひめの昇天は必ずやりたい。他の箇所も?)

 

・・よいお年を!