James Setouchi

2024.11.9

 

梶井基次郎の短篇から『檸檬』『城のある町にて』『泥濘』『路上』など

 

1        梶井基次郎 

 1901(明治34)年大阪市生まれ。北野中学校、旧制三高、東京帝大文学部英文科に学ぶ。雑

誌『青空』を創刊した。肺の病に苦しみながら創作を発表。伊豆の湯ヶ島に転地療養に行ったことも。1932(昭和7)年大阪市で没。享年31。代表作『檸檬』は高校教科書の定番教材。他に『城のある町にて』『Kの昇天』『冬の日』『冬の蠅』『愛撫』『闇の絵巻』『交尾』『のんきな患者』など。(集英社日本文学全集の年譜を参照した。)

 

2      コメント

 かつて読んだが、よくわかなかった。埴谷雄高が「梶井基次郎はすごい」と言っているのを最近知り、そんなに値打ちがある作家ならと再読してみた。短篇が多い。肺を病んでいた(当時は肺の病は死ぬと言われていた。今は違う。)ため体力的に長篇に耐えられなかったかもしれない。血湧き肉躍るロマーンではない。むしろ叙景詩、叙情詩に近い。

 

 見るもの、聞く音を非常に丁寧に受け止めて描写している。重病で寝たり起きたりで、他にすることもないから、景色を見たり音を聞いたり妄想に耽ったりするしかないのか。鋭い感覚で鋭敏にものごとを知覚しているのはわかる。理系の自然科学者のように客観的に観察し計測するのではない。感受したものを確かに受け止めつつ想像(妄想)の世界にたやすく飛んでいく。想像(妄想)の世界にリアルな生きている感覚を感じているようだ。病で動けないからそういう感覚が研ぎ澄まされていくのか。もともと空想に飛びやすいタイプなのか。両方かも知れない。

 

 埴谷雄高も肺の病で何年も寝ていたから、梶井の感覚に共感するのか。そこに存在は確かにある、確かにあるがその根拠は虚無だ、という感覚を、埴谷は梶井の中に己れと共通するものとして読み取ったのだろうか。但し埴谷の場合は「存在の革命」という形而上学的内容が盛りだくさんに書きこまれる。梶井の場合はそれはない。もし梶井が埴谷のように病が治り長生きしていたら、埴谷のように形而上学的な内容を盛り込んだ長編を書いたのだろうか。わからない。

 

 梶井は(埴谷もだが)登場人物のモノローグ(一人語り)が多い。本人と外界(あるいは本人の妄想の世界)がほとんどだ。『檸檬』にしてからが「私」が一人で妄想して歩き回るだけだ。複数の人物が出てきて会話する作品は、梶井では例えば『城のある町』『のんきな患者』など少なく、これらの作品は明るい印象がある。

 

 梶井の描写は、病の描写も多く、また病人の眺めた暗い世界なので、読んでいて自分も重く苦しい気分になってくる。そう感じて落ち込む人には薦められない。他方元気で華やかに暮らしている人には全く理解できないかもしれない。では、誰が読むのか? 自分も重く苦しいものを抱えている人がそこに慰藉を感じるのか。中2病で不登校で夜一人で起きている人が読んだら慰藉を感じるか、かえってよくないか。わからない。

 

 梶井は今流行の「生産性」「GDP」などと無関係な人生を生きた。彼の書いた本が売れればGDPに貢献する結果をもたらすが、彼はそのために書いたのではないだろう。「生産性」「GDP」では語り得ない世界がここにはある。(但し彼の父親は大企業で働き彼の学資を出した。これも埴谷雄高と事情が似ている。)GDPと無縁な世界は、いくらでもある。スポーツや音楽や今流行のダンスの練習も実は同じだ。毎日何時間もかけて練習しても一銭にもならない。これは現実だ。ただしオータニさんやビートルズやBTSなどごく稀な例が、カネを稼ぎだし、納税者となる。梶井は、それこそナントカいう人に言わせれば、「生産性がない」「成長戦略と無縁だ」とされてしまいそうである。だが、「成長・GDP教信者」(「金銭崇拝教の信者」つまりは「カネの亡者」というタイトルを謹呈してもよい)には見えない尊い世界がここにはある、というのも確かである。

 

 なお、スポーツや音楽やダンスは大勢でやることが多いが、梶井は(わずかな友はあるが)一人で過ごしている。そこは違う。今はマスコミの論調などでスポーツや音楽をやっている人がえらいと勘違いしている人がいるかもしれないが、梶井のように、一人病で苦しみながら眼に見た存在物を丁寧に捉えていつくしむように描写する人には、「多人数至上主義者」(大勢で騒ぐのが好きな人、パリピー)が見落としがちな尊い世界がある。そして、気付いてみれば人は誰しも一人で生き一人で死んでいく(面がある)。

 

 当時結核は死の病だったが、今は特効薬ストレプトマイシン等と食糧事情の改善のおかげで、死なずに済む。医学の進歩・普及と経済的な(当時に比べれば)豊かさのおかげだ。そこは肯定したい。人間や社会は進歩するか? は大いに疑問があるが、技術は高度化・複雑化する。殺傷兵器の高度化は不要だが、医薬の高度化はあってよい。また経済的に豊かで(当時に比べれば)多くの人に分配がなされるのもよい。社会をよりよくする努力はなされるべきだ。(逆に、豊かさと医薬が多くの人に分配されず一部の人の独占が進めば、また結核などで死ぬ人が増えることに。頭の痛い話だ。)それでも人は結局死ぬし、存在の根拠のない感覚(根源的寂しさ)は解決できない。宗教や文学の必須であるゆえんか。

 

 ここでは、別の観点に注目してみよう。梶井は病気療養も含めずいぶんあちこちに引っ越した人だ。そして、引っ越した先で彼の鋭い感覚で受け止めたものを、作中に書きこんでいく。彼の短篇を次々と読んでいくと、いろいろな都会や田舎が出てくる。彼の作品の中で当時のそれらの都市や村がよみがえる。

 

 年譜を見ると、随分引っ越しの多い人だ。大きく言っても、大阪(西区)生まれ、三重、京都、東京(本郷、目黒、麻布)、伊豆湯ヶ島、兵庫、大阪(住吉区)。わずか31年の生涯で何度引っ越ししたか数えにくいほどだ。ある人は、多くの人に会い、様々なプロジェクトに参加して経験を積んでいくだろう。梶井はそうではない。出会う人もプロジェクトの数も少ない。病床で寝たきりの時間が多い。だが転居を重ねることで必然的に環境が変わり、大都会の都心、郊外、地方都市、田舎と多様な外界に触れ、そこで出会ったものごとを強く感受して文章に描いている。梶井は寝たきりで経験の乏しい生活を送ったのかと思っていたが、実はそうではないのかもしれない。

 

3      『檸檬』大正14年1月発表。梶井は前年23歳で東京帝大学生として震災(大正12年)後の東京に越してきた。本郷に住みこれを書いた。舞台は、旧制高校生だったときに暮らした京都の町丸善という洋書とハイカラな舶来品を売る店、壊れかけの裏町寺町通りの喫茶店と美しい八百屋、京極通りの映画館の看板などが出てくる。どこか静かな地方都市を夢想。明確に都市小説(都市徘徊小説)。

 

4 『城のある町にて』大正14年発表。梶井は東京の目黒在住。舞台は、恐らく三重県の松阪(固有名詞は書いていない)で、城があり、海が見える。北牟婁郡(これは固有名詞で出てくる)の田舎の村の回想が出てくる。東京でも京都でもない、地方都市と農村。梶井は都市の住人だが、地方およびそこの人々を美しく描いている。

 親戚の娘が気になるとは、語り手は男子の世界でしか暮らしていないのだろう。かつ、まだ若い。

 

5 『泥濘』大正14年発表。梶井は東京の郊外(麻布)在住。舞台は、その東京郊外の町(目黒? 但し書いていない)から本郷へ。都心をお茶の水、有楽町、銀座、と移動し、再び郊外の町へ。都市小説。

 

6 『路上』大正14年発表。梶井は東京の山の手の麻布在住。その麻布であろうか、電車の駅がある。富士と丹沢が見える近辺の崖が出てくる。

 

7 『橡(とち)の花』大正14年発表。梶井は東京の麻布在住。手紙形式だが、舞台は東京。霊南坂、我善坊、飯倉通りなどが出てくる。

 

8 『雪後』大正15年発表。梶井は東京の麻布在住。舞台は東京の、櫟林や麦畑や街道や菜園のある郊外の家と本郷通

 

9 『ある心の風景』大正15年発表。梶井は東京の麻布在住。東京と、京都時代の丸太町、荒神橋、四条通、新京極が回想で出てくる。

 

10 『Kの昇天』大正15年発表。梶井は東京の麻布在住。舞台は療養地のN海岸とある。

 Kという男は自分の影と本人が分離して死んでしまう。本人の魂は天へ。梶井の希死念慮から来る妄想と言うべきか?

 

11 『冬の日』昭和2年。梶井は転地療養のため伊豆の湯ヶ島にいた。舞台は東京坂の多い町で華族の邸宅もあるので麻布エリアか。銀座も出てくる。

 

12 『蒼穹』昭和3年。梶井は恐らく転地療養中の伊豆湯ヶ島で書いたか。舞台は田舎。半島、とあるので伊豆半島の湯ヶ島が舞台かも知れない。固有名詞は書いていないが、山や渓谷のある田舎

 

13 『筧の話』も12と同様。

 

14 『器楽的幻覚』は昭和3年で湯ヶ島在住。東京の銀座に近いどこかで音楽会を聞く。侯爵が出てくる。

 

15 『冬の蠅』も昭和3年。湯ヶ島にいて、湯ヶ島を書いている。下田街道、天城隧道、下田の港が出てくる。固有名詞は出てこないがそれと分かる。川端『伊豆の踊子』の舞台だ。

 語り手は冬に死にかけの蠅を見る。彼らの生きんとする意志に驚く。語り手自身は気まぐれに下田街道をバスと徒歩で下田まで行ってみる。帰ってみると蠅は死んでいた。自分にも自分を生かしいつか殺すきまぐれな条件があるに違いない、と陰鬱な気持ちになる。

 

16 『ある崖上の感情』昭和3年=1928年。東京の麻布に住んでいる麻布が舞台。丘陵と谷があり、皇族や華族の邸、教会、外国の公使館、山ノ手のカフェがあり、外国人もいる。病院もある。貧しい庶民も住んでいる。現在(令和6年=2024年)の麻布とは少し違う、100年前の麻布だ。

 崖の上から見える病院で人が死ぬ。生きている人もあれば、死ぬ人もある。お互いはお互いの感情を知らない。こうしてそれを見ている人のあることも。

 

17 『桜の樹の下には』も昭和3年(1928年)。大阪の住吉区阿倍野町在住。舞台は不明。桜の木があり、渓があり、うすばかげろうが舞う。桜の樹の下には屍体が埋まっているのだよ!

 これは何を書いているのか? 梶井の病的で鋭敏な感覚が桜の美と死体とを結びつけたのではあろう。大きく言えば来たるべき軍国主義(桜が象徴する)の時代(1931年満州事変。以降十五年戦争)の大量死を予感したのか。柳田民俗学で当時昔の日本人は死体を埋めたらそこに桜を植えた、という知見が紹介され、梶井はそれを知ったに違いない。

 

18 『愛撫』は昭和5年5月脱稿。大阪の阿倍野在住。発表は6月で兵庫県川辺郡伊丹町在住。舞台は不明。なお、伊丹空港は昭和14年からなので、この段階では伊丹はまだ田舎だろう。

 語り手は猫の手で化粧をする女性の夢を見た。これは気持ちが悪い。そう言いながら語り手は猫をかわいがっている。

 

19 『闇の絵巻』昭和5年10月発表。兵庫県川辺郡稲野村在住伊豆湯ヶ島時代のことが出てくる。

 埴谷雄高がこの作品を高く評価している。人間は闇から不意に出てきていっとき存在するがすぐまた闇に隠れる。語り手が夜の路上で出会ったその男だけではない。誰でも人間はそういう存在なのだ、と埴谷は言う。私は昔『闇の絵巻』を読んだとき何のことかわからなかったが、埴谷の説明を読んでなるほどと思った。今ある生が絶対ではない。はかりしれない永遠の中に今の生は一時的なものとしてある。ただしこれはあくまで埴谷の解釈に沿った読み方だ。梶井はどういうつもりでこれを書いたのだろうか。他の人が元気で活動する昼間よりも、夜の闇の方が安心できる。そういう感覚だろうか。鋭敏な感受性の持ち主で、夜起きている人がよくあるが、そういうことなのだろうか。

 

20 『交尾』昭和5年12月脱稿、昭和6年1月発表。兵庫県川辺郡稲野村在住。舞台は恐らく稲野村渓があり、河鹿(カジカ)がいる

 埴谷雄高は生殖への嫌悪を語るが、梶井の『交尾』はカジカの雄の求愛を美しいとしている。

 

21 『のんきな患者』昭和6年12月脱稿、昭和7年1月発表。昭和6年10月から大阪市住吉区王子町に母と住んでいる。舞台は、固有名詞は書いていないが、梶井の伝記的事実と照合すれば、恐らく兵庫県川辺郡の田舎か。だが大阪の南部の町が多く描かれる。近隣の貧しい人たちの顔が見える。肺病で亡くなる荒物屋の娘、肺病の奇妙な(あやしげな)特効薬を薦めてくれる人々、病院の近くの往来で天理教の勧誘をする女。梶井は昭和7年3月に病勢が悪化し亡くなった。

 梶井は昭和4年にマルクス『資本論』を読み感銘を受けた。市井の人々の顔を描いてみようと思ったのだろうか。私はゾラの『居酒屋』を連想した。それと同じではないが、下町の貧しい人びとの顔が描かれる。病と貧しさに苦しんでいる。彼らなりに助かろうと思って奇妙な薬にたより、ある種の親切でもって人にも薦めてくる。語り手は閉口するが、それでもそこに「現実的な一生懸命な世の中」を感じる。上流階級よりも極貧者の方がより死んでいく実感。

 従来の作風と変化している、と言われる。確かに、今までの自分は「世間」の人々の実態を知らず「のんきな患者」あった。だが、病に苦しみ、得体の知れない人々に囲まれ、死の予感の雰囲気に満ちている点に変わりはない。梶井自身は、父親が大企業のサラリーマンだったお蔭で学資も出して貰えたが、今や父も貯金がつき、死亡、母親も病、梶井本人も死んでいく。