James Setouchi

2024.11.2

 

有島武郎(ありしまたけお)『或る女』

 

1        有島武郎(ありしまたけお)(1878~1923)

  東京生まれ。父は薩摩系の高級官僚、実業家。学習院に学び皇太子(のちの大正天皇)のご学友に選ばれる。新渡戸稲造をしたい札幌農学校に学ぶ。内村鑑三に学ぶ。札幌独立教会に所属。明治36年(1903年)アメリカ留学、大学院で経済学、歴史を専攻。内村にならい精神病院の看護夫などをした。エマソン、ホイットマン、ツルゲーネフ、イブセン、トルストイ、クロポトキンなどの著作を読む。ロンドン経由で帰国。札幌農学校(当時は東北帝大農科大学)の英語教師となる。日曜学校長になり、また社会主義研究会を開く。札幌独立教会を離れる。武者小路実篤、志賀直哉らとともに学習院系の『白樺』同人となり作品や評論を発表。実弟の有島生馬・里見弴(さとみとん)も『白樺』派。妻・安子が肺結核で死去。作家的地位が高まる。トルストイにならい大正11年北海道の有島農場の解放を宣言。大正12年、軽井沢で編集者でもある人妻波多野秋子と心中死。享年45。作品は『かんかん虫』『宣言』『惜しみなく愛は奪う』『カインの末裔(まつえい)』『生まれ出づる悩み』『或る女』『宣言一つ』『星座』『ドモ又の死』『骨』『親子』など。(集英社日本文学全集の巻末解説などを参考にした。)

 

2 『或る女』大正8=1919年刊行。作者41歳。

 当初『或る女のグリンプス』として『白樺』明治44~大正2年に発表したものがある。それを、改作し(主人公の名も改めた)て『或る女』前編として大正8年に刊行。続いて『或る女』後編を書いて刊行。これが大正8年=1919年

 

 読後思わず「う~ん・・」と唸った。面白い。すごい迫力。傑作だ。有島は小説が実にうまい、とよくわかった。それにしても男性作家が、女性を主人公として女性の目線で女性の内面をこれでもかと書いていく。これは、女性のリアルをどこまで書けているのだろうか? 女性読者は首肯するのだろうか?  

 

 葉子という女性の生き様を描く。よく言えば当時の封建的な世間に抗い自己の内面の自由に従った女の悲劇、悪く言えばただの道を踏み外した愚かな女。モデルは佐々城信子という女性が実在している。国木田独歩の妻だった人で、独歩に耐えられず出奔、別の男性と結婚すべく渡米の船に乗るが、船中で妻子ある男と関係を持ち帰国しスキャンダルとなった女性だ。他にも、内村鑑三、矢島楫子、鳩山春子、有島武郎自身らをモデルとした人物が出てくる。実話と小説とがどう同じかどうかを私は知らない。実話と小説との落差にこそ作家の込めた意図があるという読み方もあるが、ここではそれはできない。作品テキストだけで読んでいく。

 

 なお、新潮文庫は注が詳しくてよい。しかも解説が加賀乙彦(精神科医)。

 

(あらすじ)(ヤヤネタバレ)

 時代設定は明治34(1901)年秋~翌年夏。明確に書き込んである。日清戦争より後、日露戦争より前だ。早月葉子はアメリカにいる木村と婚約している。結婚の約束を果たすために横浜から船に乗り北太平洋を経てシアトルへ(注)。その中で、早月葉子の過去も語られる。一度木部孤笻という文学青年と恋愛結婚し定子という女児をもうけたが出奔。男関係は派手。その醜聞を憎んだ親類縁者によりアメリカにいる誠実で忍耐強い木村貞一と婚約させられたのだ。だが船の中で葉子は事務長の倉地という男と恋に落ちてしまう。そして・・・

 

 シアトルで木村と会ったとき、葉子はすでに倉地と離れがたい仲になっていた。仮病を使いそのまま葉子は帰国してしまう。葉子は世間にバッシングされながら、倉地と東京で暮らす。倉地への強い執着は振り捨てることができない。一方で金銭的にはアメリカにいる木村との関係も繋いでおきたい。葉子には世話をすべき妹二入と、娘定子もいる。世間は敵だらけだ。やがて・・・

 

(注)海の描写が随所に出てくる小説だ。横浜、北太平洋、シアトル、芝浦あたりの海、鎌倉の海など。海のうねりは葉子の内面のうねりと対応しているかもしれない。

 

(登場人物)(かなりネタバレ)

早月葉子:主人公。現在25歳。美しく、男を惹きつけずにいられない女性。木部と恋愛結婚するが出奔、私生児として定子を出産。多くの男を手玉に取る。親類縁者の画策でアメリカのクリスチャン・木村貞一と婚約し絵島丸でアメリカへ。その途上倉地と狂熱の恋に陥り・・・

早月医師:葉子の父。医師。優しかったが亡くなった。

早月親佐:葉子の母。葉子にとって気の合わない母親で、対立していた。やがて亡くなった。葉子を木村と結婚させるよう遺言する。クリスチャンで、慈善活動などをしていた。

早月愛子:葉子の妹。やがて美しい女性になり・・

早月貞世:葉子の幼い妹。姉を慕っているが・・

定子:葉子と木部の間の子。木部はその存在を知らない。葉子の乳母に預けている。

婆や:葉子の乳母。定子の世話をする。不忍池の近くに住む。

 

叔父:葉子の叔父。葉子の親亡きあと親族会議を開き、他の親類縁者たちともに勝手に家産を処分してしまう。

叔母:葉子の叔母。貧しい。

中老の官吏:親類の一人。高級官僚。「神の国」と「擲身報国(てきしんほうこく)」と「信用と金」を安易に並列・同居させる思想の持ち主。

葉子の親類縁者たち:葉子を世間の恥だと考えている。

田島先生:愛子と貞世を寄宿舎で預かり教育する、教育者。

 

木部孤笻(こきょう):葉子の最初の夫。葉子はそこから出奔した。のち新橋駅と鎌倉の海岸で偶然再会。定子が自分の子だと知らない。

 

木村貞一:仙台出身、アメリカ在住。将来を嘱望される青年。親類縁者の考えによって葉子の許婚者となる。クリスチャン。忍耐強く葉子を待ち手紙や金を送るが・・

古藤義一:木村の親友。のち陸軍軍人。モデルは有島武郎。

 

五十川女史:東京の女性キリスト教界のリーダー。モデルは矢島楫子。

田川夫人:法曹界の名士・田川法学博士の妻。葉子につらくあたる。モデルは鳩山春子。

内田:東京在住のクリスチャン。葉子を幼い頃からかわいがった。俗悪なキリスト教界を批判している。葉子は内田に会いに行くが・・モデルは内村鑑三。

内田の妻:大人しい。内田という強烈な性格の前で打ち砕かれた、と葉子は見た。

 

倉地三吉:絵島丸(横浜からシアトルへ向かう)の事務長。男臭い男で、葉子の心身を捉えてしまう。妻子ある男だが葉子と芝増上寺の近くに所帯を持つ。

興録:船医。倉地と懇意。

正井:倉地の仲間。あやしい動きをする。やがて・・

岡:絵島丸の客の一人で、葉子の崇拝者となる青年。やがて・・

 

双鶴館の女将:倉地の古い友人。倉地と葉子をかくまってくれるが・・

つや:倉地と葉子の新居に勤めた女中。賢く、葉子のお気に入り。やがて看護師になる。

 

(コメント)(ネタバレ)

 大変痛ましい小説である。有島自身の生涯が悲劇に終わっただけに、それと重ね合わせて読めてしまい、余計に悲劇性が感じられる。傑作であるが、有島はこのような悲劇的な作品を書き、自らの悲劇的な死を準備してしまったのではないかとすら思えてくる。

 

 早月葉子は、男女の関係が前面に出ているが、同時に、深刻な病を持っている。最初の方で鼻血が出ているし、後半はヒステリーで我を忘れ乱暴をする、被害妄想に取り付かれる、などの連続だ。実際に子宮他に疾患を持っている。彼女の恋愛と、心理・感情の振幅と、生理的な疾患とを、連動しているものとして有島は描いてみようとしたのだろうか。最新の医学で、このようなことがあるとされているのかどうかは私は知らない。だが、ストレスが体にも悪い、ということは、経験的には言えそうだ。早月葉子はもともと体に疾患があった上に、過度のストレスでさらに病を進行させてしまった、という印象だ。

 

 しかも彼女にとって「世間」は敵でしかないので、そのストレスはいやが上にも高まる。いわゆる「良識」あるマダム(その中心は法学博士田川の夫人)がマスコミを使って実名攻撃してくる。彼女の自由な生き方が「世間」の「良識」によって踏みにじられる。彼女は妥協を知らず愚直にこれと戦い、潰されていく。悲劇だ。その中に彼女のある種の純情さ、純粋さ、至純さとも言うべきものが際立つ。『オイディプス王』以来の正統な悲劇をこの作品は継承している。(いや、彼女を滅ぼしたものは、「世間」だけではない。彼女は自身の美貌とtactによって男たちを振り回し滅ぼしてきた。それが彼女自身に回ってきたのだ。これを自業自得・因果応報の法則と言う。(有島がそういう言葉で説明しているあけではない。私がそう言うのだ。)彼女が今までに行ってきた悪業が、きっちりと彼女に帰ってきたのだ。そうとも言える。そうだとすると、彼女の純粋さと同時に、自業自得・因果応報の法則の厳正さ、人智をはるかの超えた運命の法則の至高さもまた際立つことになる。まさしく『オイディプス王』だ。)

 

 東京のキリスト教徒のグループの欺瞞性が暴かれる。女子教育の重鎮・五十川女史(モデルの矢島楫子もキリスト者で女子教育の重鎮)の学校のつまらない指導で、葉子は純粋な心を踏みにじられる。親類のキリスト者で中老の官吏(「局長」とある。政府高官だろう)は「神の国」と「擲身報国(てきしんほうこく)」と「信用と金」を安易に並列・同居させる思想の持ち主だ。葉子にとってはどうでもいい話だ。これは葉子のわがままでもあるが、他方葉子を取り巻く大人たち、キリスト教界および明治帝国を構成する大人たちの欺瞞を浮き彫りにもしている。

 

 (念のために、私はキリスト教及びキリスト教徒の敵ではりません。)

 

 田川法学博士の夫人も露骨だ。自分が倉地に惹かれたことをもみ消し、根底は嫉妬だろうが、倉地と葉子のスキャンダルを新聞に知らせ、二人を社会的に葬ろうとする。上品そうなセレブが悪意を持って人を排除する。法学博士の妻がそういうことをするのだ。明治帝国の「法」たるものの欺瞞性、空疎さが暴かれている。(なお、モデルの鳩山春子がどういう人物だったかは私は知らない。夫の鳩山和夫はエール大学法学博士で、衆院議長、東大教授、早大総長などを務めた人物で、あの鳩山一郎の父親。)

 

 葉子は1901年(明治34年)に25歳だから、明治9年頃の生まれだ。『こころ』の先生と同級か1,2年下となる。この世代の早熟な女性は、明治半ば以降の新思潮に触れ、自我が覚醒し、自由を求める者が出現しつつあった。葉子はその早期の者の一人だろう。高山樗牛(ちょぎゅう)がニーチェの影響で本能満足説を唱えた『美的生活を論ず』は1901年(国立国会図書館の「近代日本人の肖像」による)。(この「本能」は動物学で言う「本能」とイコールではないと思うが)何かしら高度のものを求めてしまう本能的欲求を肯定する思想が最新の流行としてもてはやされた。本文にも言及のある与謝野晶子(明治11年生まれ)の『みだれ髪』も1901年(明治34年)。晶子は与謝野鉄幹の正妻を追い出して自分が妻の座に座った。「柔肌の熱き血潮に・・」と叫んだ。新時代の女性の自我の解放の声とも不道徳な女のたわごととも取られた。

 

 なお、平塚雷鳥の煤煙事件(塩原事件)(森田草平との心中未遂事件)は1908年(明治41年)。『人形の家』日本初演は1911年(明治43年)。雑誌『青鞜』も同じ年。葉子や晶子が10年時代を先取りしているのがわかる。

 

 葉子を突き動かしたものは何か。自身の美貌と才を用いて多くの男たちを手玉に取ったのは、①本人の性的覚醒②強烈なプライド、支配欲、独占欲(これは田川夫人にもある)③自我の伸張を肯定する当時の新思想に煽られた④母親への反目⑤母親もその一員である当時のキリスト教界の因襲への反発⑥当時のキリスト教会の背後にはある帝国主義の(近代といいながら)封建的な風潮(田川夫人の構成する「世間」など)への反発、などを常識的には挙げることが出来る。但し有島は葉子を引きずる力を⑦「自分でも知らない革命的とも言うべき衝動」「真っ暗な大きな力」(新潮文庫61頁)などと言う。単に肉体内に存する性欲だけではなく、人間を超越した不可思議な力を有島は想定しており、その力は、葉子のような特別な人格において出現し、時代社会を変革する可能性がある、と有島は考えているのかもしれない。

 

 葉子は、ただ内田(内村鑑三がモデル)だけを思い出して会いに行く。内田は当時のキリスト教界の俗悪・欺瞞を糾弾し、キリスト教界から反逆者と見られていたので、葉子が内田にふと会いたくなったのは当然だ。ただし内田の方で葉子をシャットアウトする。当時のキリスト教界および封建的明治帝国を相対化し批判する道として、内田とは違う道を葉子は取らざるを得ない。(内田がもっと寛容であれば・・どうなっていただろうか、と私は思う。有島が内村鑑三に傾倒しつつも「先生のように強くはなれない」と言っていたのは有名だ。弱い者が救済される思想とは、どういうものであろうか。例えば他力浄土門はどうであろうか。あるいは、遠藤周作の世界はどうであろうか。)

 

 葉子が倉地に惹かれたのはなぜか。上記①~⑦もあるが、そのほかに、⑧他の男たちはやすやすと葉子の軍門に降るが、倉地だけはそうではないように見えた。これはプライドつまり心理の問題だ。同時に⑨倉地はきわめて男臭い男だ。有島は倉地の臭いを書き込む。葉子はそれに狂わされる。ここにはやはり性的・生理的な何か(上記①の発展したもの)が介在していると思う。抑圧されていたがここでついに爆発した、ということか。ここではあまり怖いので紹介しないが異常な性欲の爆発する、大変恐ろしい描写もある。

 

 『カインの末裔』でも主人公(男だが)の野生の本能のようなものを有島は書き込む。キリスト教道徳の潔癖な倫理観(本当はキリスト教がそういうものであるかどうかは大いに議論の余地があるのだが)とは相容れない、自分でも御しようのない野生の本能のようなものを、有島は考えている。イエスの言葉「情欲を抱いて女(この「女」を「人妻」と意訳する本もあるが。)を見る者は、心の中ですでに姦淫をしている」(マタイ5-28)について、有島は自分にはできない、自分は弱い、と考えていた、というのは、有名な話だ。『星座』などにも同様の問題意識が出てくる。表面は取り繕っていても内心では情欲を抱いて姦淫の罪を犯している、と言うのだ。これは有島が性的にふしだらだったというわけではなく、自らを顧みる道徳心が強かった、ということだろう(注1)。そのつよい道徳心で自らを省みたとき、どうしようもなく抑えがたい強烈な野生の本能のようなものがある、ということだろうか(注2)。

 

 葉子には妹や娘への愛もある。いっそ他の女たちのように静かに落ち着いて暮らそうかと思う。結婚が女をだめにする、と疾走してきたが、もはや疲れた。安定の幸福というものもある。だが、倉地の体臭を嗅いでは葉子自身が暴走してしまう。冷たく言い放てば「懲りない、どうしようもない女だ」となる。「修行が足りない」「人生へのあきらめが足りない」とも。

 

 但し葉子自身は底の底にはいつも空虚さを抱えている。孤独で、寂しい。繰り返される言葉だ。同じ時代社会に仲間がいないからだけではない。人間は根源において孤独で寂しい存在だ、と有島は言いたいのだろうか。神信仰を捨てた有島の心に空虚さがあった、ということか。(内村鑑三はそう言った。)(注3)

 

 葉子は次第に(特に後半において)身体的にも苦しくなり、精神的にも錯乱するようになる。希死念慮もある。今の言葉で言えばヒステリー、双極性障がい、うつ病なども併発しているだろう。その様子は非常に痛ましい。親切な岡青年に対してさえも素直に感謝できず猜疑心で見てしまう。自分が他人に対しtactを使ったので、他人も自分に対してtactを使うのではないかと猜疑するのだ。(これが自業自得・因果応報というわけだ。)

 

 倉地は犯罪が露見し出奔。忍耐強く待ち、金を送ってくれていた婚約者・木村も貧窮にある。葉子は心身の衰弱がきわまり、外科手術を受けることになる。金がないので下町の病院へ。わずかな人が彼女の世話をしてくれる。

 

 最後に出てくる看護師・つや(もと女中)(注4)の存在は救いだ。葉子は錯乱していて事態を見極められないが、妹・愛子と岡青年が仲良くなるのは、悪いことではない。下の妹・貞世の病も治りそうだ。有島はラストに、弟妹世代への希望を描き込んだに違いない。このあまりにも悲劇的な作品の最後に、新しい大正新時代への期待を有島は込めたのかもしれない。

 

 葉子は絵島丸で秋に横浜を出航し、シアトルで下船せず折り返し帰国、東京で奮闘努力するが、次の秋には病で「痛い痛い」と苦しみながら死んで行くであろう。まことに強烈な「或る女」の一生であった。有島は見事に描ききった。読者にズシリと手応えのある作品だ。有島は葉子を、またモデルの佐々城信子を高い位置から見下ろして断罪しているのではあるまい。それをするのは例えば田川夫人といった欺瞞的な人々だ。田川夫人たちの構成する欺瞞的な「世間」、虚飾だらけの明治帝国に対して、自らの「本能」に基づき果敢に生きようとして、引き裂かれて斃れた女の悲劇を、有島は描いた。それは同時に、虚飾の明治帝国の欺瞞を糾弾することでもあったに違いない。

 

注1 大正時代に活躍した暁烏敏(あけがらすはや)という他力浄土門の僧は自分の性欲(煩悩)の強いことを告白し『歎異抄』の絶対他力による救済を述べている。彼は実際何人も若い妻を持った。他力浄土門の思想の解釈として正当であるか、バイアスがかかっているのではないか、との問いを私は持つ。

 

注2 トルストイの『アンナ・カレーニナ』とどうであろうか。

 

注3 漱石『こころ』の「K」は寂しさから? 明治33年(1900年)に自死した。「先生」も寂しさから? 明治45年(1912年)に自死する。「自由と独立と己に満ちた現代」に生きる我々は「寂しさ」を持たざるを得ない、と「先生」は書き残す。但したった一人信じた若い「私」を含む、若い世代と大正新時代への期待を込めて。

 

注4 女中がいる社会は、貧富の差の大きい、階層格差社会だ。葉子の家はとにもかくにも上中流以上の家だった(父親は医師)。父母の没後財産は親戚にとられるが、アメリカに渡航するくらいの金は出る。また婚約者の木村の財産や倉地の持ってくる出所の怪しいお金のお蔭で暮らしていける。女中も雇える。それらを失うとき、金のない葉子は、苦しむ。金のかかる大きな病院の特等室から小さな病院に転院する。対して、女中のつやは、貧しいクラスの出身だ。少女時代から女中奉公に出る。主人(雇い主)の一存で簡単に解雇される。しかしつやは努力して病院の看護師になった。働き、自立する女性の一人だ。葉子らが宿泊する旅館では働く女性たち。アメリカ行きの汽船では水夫たち。老水夫の一人は足を失うほどの大怪我をする。彼らは、貧しいクラスだ。有島自身は金持ち階級だが、当時の階層格差を見ぬいて書き込んでいる。